妄念の凡夫

日々是称名

『唯信抄』を勝手に現代語訳(5)

2010-05-31 02:06:51 | 仏教
【6】 つぎに念仏往生の門につきて、専修・雑修の二行わかれたり。専修といふは、極楽をねがふこころをおこし、本願をたのむ信をおこすより、ただ念仏の一行をつとめてまつたく余行をまじへざるなり。他の経・呪をもたもたず、余の仏・菩薩をも念ぜず、ただ弥陀の名号をとなへ、ひとへに弥陀一仏を念ずる、これを専修となづく。雑修といふは、念仏をむねとすといへども、また余の行をもならべ、他の善をもかねたるなり。この二つのなかには、専修をすぐれたりとす。そのゆゑは、すでにひとへに極楽をねがふ。かの土の教主(阿弥陀仏)を念ぜんほか、なにのゆゑか他事をまじへん。電光朝露のいのち、芭蕉泡沫の身、わづかに一世の勤修をもちて、たちまちに五趣の古郷をはなれんとす。あにゆるく諸行をかねんや。諸仏・菩薩の結縁は、随心供仏のあしたを期すべし、大小経典の義理は、百法明門のゆふべをまつべし。一土をねがひ一仏を念ずるほかは、その用あるべからずといふなり。念仏の門に入りながら、なほ余行をかねたる人は、そのこころをたづぬるに、おのおの本業を執してすてがたくおもふなり。あるいは一乗をたもち三密を行ずる人、おのおのその行を回向して浄土をねがはんとおもふこころをあらためず、念仏にならべてこれをつとむるに、なにのとがかあらんとおもふなり。ただちに本願に順ぜる易行の念仏をつとめずして、なほ本願にえらばれし諸行をならべんことのよしなきなり。これによりて善導和尚ののたまはく(礼讃・意)、「専を捨てて雑におもむくものは、千のなかに一人も生れず。もし専修のものは、百に百ながら生れ、千に千ながら生る」といへり。
 「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生
  故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃・下 五六四)
といへり。随縁の雑善ときらへるは、本業を執するこころなり。たとへばみやづかへをせんに、主君にちかづき、これをたのみてひとすぢに忠節を尽すべきに、まさしき主君に親しみながら、かねてまた疎くとほき人にこころざしを尽して、この人、主君にあひてよきさまにいはんことを求めんがごとし。ただちにつかへたらんと、勝劣あらはにしりぬべし。二心あると一心なると、天地はるかにことなるべし。


 次に念仏往生の門について、専修と雑修の2つの行に分かれています。
 専修というのは、極楽を願う心を起こし、弥陀の本願を恃む信を起こすことで、ただ念仏1つの行を努めてまったく他の行を交えないことです。他の経典や呪文をもたよりにせず、ほかの仏・菩薩をも念じることなく、ただ阿弥陀仏の名号を称え、ひとえに阿弥陀仏一仏を念じる、これを専修と名付けます。
 雑修というのは、念仏を旨とするといっても、またほかの行も並べ、ほかの善も兼ねているのです。
 この2つ(専修・雑修)のなかでは、専修をすぐれているとします。そのわけは、すでにひとえに極楽を願うからです。かの浄土の教主(阿弥陀仏)を念じようとするほか、なんの理由でほかごとをまじえようというのでしょうか。稲光や朝露のごとき命、芭蕉の葉の泡露の我が身であるのに、わずかにこの世での仏道修行によって、たちまちに五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天)を離れようというのです。どうしてゆったりと他の諸々の行もやらなきゃならないのでしょうか。諸仏や菩薩との縁結びは、心のまま十方の諸仏を供養し、将来に期待すべきです。大小経典の正義と理屈は、勢至菩薩の知恵の門の夕べを待つべきです。1つの浄土を願い、1つの仏を念ずるほかは、その用があるべきではないといわれるのです。
 念仏の門に入りながら、なお他の行をやろうとしている人は、その心を尋ねてみると、おのおのもともと行っていたことに執着して捨てがたいと思っています。あるいは(法華の)一乗を身に保って三密を行ずる人は、それぞれそれらの行をふり向けて浄土を願わんと思う心を改めず、念仏と同列にしてこれを励むのに、なんの咎があろうかと思っているのです。直ちに弥陀の本願に順ずる易行の念仏を努めずして、なお本願に選(び捨て)られた諸行を並べることの正当性はないのです。
 これに関して善導和尚が仰るには(『往生礼讃』・意訳)、「専修念仏を捨てて雑行雑修に赴くものは、千人中1人も浄土に生まれない。もし専修念仏のものは、百人中百人とも、千人中千人とも浄土に生まれる」といわれました。
 「極楽は無為の涅槃の世界である 付随の縁である雑善ではおそらく生まれがたい
  ゆえに如来をして必要な法を選び 教えて阿弥陀仏を念じてもっぱらにまたもっぱらにならしめたまえり」
といわれました。付随の縁を雑善と嫌われるのは、もともとの行いに執着する心です。たとえば、宮仕えをしようとするときは、主君に近づき、これをたのんで一筋に忠節を尽くすべきなのに、まさしく主君に親しくしながら、同時に疎遠になった人に志を尽くして、この人が主君に会って自分のことをよく言ってくれるように求める、ようなものです。ただちに仕えるのと、どちらが優れてどちらが劣っているか明らかに知るべきです。二心あるのと一心であるのとでは、天と地ほどの遙かな違いがあるのです。


『唯信抄』を勝手に現代語訳(4)

2010-05-30 02:49:54 | 仏教
【5】 龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』のなかに、「仏道を行ずるに難行道・易行道あり。難行道といふは、陸路をかちよりゆかんがごとし。易行道といふは、海路に順風を得たるがごとし。難行道といふは、五濁世にありて不退の位にかなはんとおもふなり。易行道といふは、ただ仏を信ずる因縁〔をもつて〕のゆゑに浄土に往生するなり」といへり。難行道といふは聖道門なり、易行道といふは浄土門なり。わたくしにいはく、浄土門に入りて諸行往生をつとむる人は、海路にふねに乗りながら順風を得ず、櫓をおし、ちからをいれて潮路をさかのぼり、なみまをわくるにたとふべきか


 龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』のなかで、「仏道を修行するのに難行道と易行道がある。難行道というのは、陸路を徒歩で行こうとするようなものだ。易行道というのは、海路に追い風を得たようなものである。難行道というのは、五濁(劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁)の世の中にあっては不退(仏になることが定まり退かない)の位にかなわない。易行道というのは、ただ仏を信ずる因縁をもつがゆえに浄土に往生するのである」といわれました。難行道は聖道門(聖の仏門)であり、易行道は浄土門です。わたくしにいわせれば、浄土門に入って諸行往生を努める人は、船で海路を進みながら追い風を得ず、櫓をおして力を入れて潮の流れを遡り、波間をかき分けかき分けしているのにたとえられるでしょう。


『唯信抄』を勝手に現代語訳(3)

2010-05-29 17:36:24 | 仏教
【4】 二つに念仏往生といふは、阿弥陀の名号をとなへて往生をねがふなり。これはかの仏の本願に順ずるがゆゑに、正定の業となづく。ひとへに弥陀の願力にひかるるがゆゑに、他力の往生となづく。そもそも、名号をとなふるは、なにのゆゑにかの仏の本願にかなふとはいふぞといふに、そのことのおこりは、阿弥陀如来いまだ仏に成りたまはざりしむかし、法蔵比丘と申しき。そのときに仏ましましき。世自在王仏と申しき。法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土をしめて衆生を利益せんとおぼして、仏のみもとへまゐりて申したまはく、「われすでに菩提心をおこして清浄の仏国をまうけんとおもふ。願はくは仏、わがためにひろく仏国を荘厳する無量の妙行ををしへたまへ」と。そのときに世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人天の善悪、国土の粗妙をことごとくこれを説き、ことごとくこれを現じたまひき。


 2つめの念仏往生というのは、阿弥陀仏の名号をとなえて往生を願うことです。これはかの阿弥陀仏の本願にかなっているので、正しく定まった行いと名付けます。ひとえに阿弥陀仏の本願力にひかれるので、他力の往生と名付けます。そもそも、南無阿彌陀佛ととなえるのは、どうしてかの阿弥陀仏の本願にかなうというのか、というのは、そのことのおこりは、阿弥陀仏がまだ仏と成っていないむかし、法蔵比丘と申していたときにさかのぼります。そのとき仏がいらっしゃいました。世自在王仏と申しました。法蔵比丘はすでに悟りを求めようとする心を起こして、浄土を建立して生きとし生けるものを助けようと思って、世自在王仏のもとへ参って「私はすでに菩提心を起こして浄土の仏国を設けようと思う。願わくは世自在王仏、私のためにひろく仏国をうるわしく厳かに飾る限りのない妙なる行いを教えてくださいませ」と申されました。そのときに世自在王仏は、210億のもろもろの仏の浄土の人間や神の善し悪し、その浄土の粗妙をことごとく説いて、ことごとく目の前に示してお見せになりました。

 法蔵比丘これをきき、これをみて、悪をえらびて善をとり、粗をすてて妙をねがふ。たとへば三悪道ある国土をば、これをえらびてとらず、三悪道なき世界をば、これをねがひてすなはちとる。自余の願もこれになずらへてこころを得べし。このゆゑに、二百一十億の諸仏の浄土のなかより、すぐれたることをえらびとりて極楽世界を建立したまへり。たとへば柳の枝に桜のはなを咲かせ、二見の浦に清見が関をならべたらんがごとし。これをえらぶこと一期の案にあらず、五劫のあひだ思惟したまへり。かくのごとく微妙厳浄の国土をまうけんと願じて、かさねて思惟したまはく、国土をまうくることは衆生をみちびかんがためなり。国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。


 法蔵比丘はこれを見聞して、悪を選んで善をとり、粗(荒くて悪いこと)をすてて妙をねがいました。たとえば三悪道(地獄・餓鬼・畜生)のある国土なら、これを選びとらず、三悪道のない世界なら、これを願ってすぐ取り入れられました。残りの願いもこのように選び取っていきました。こうして210億の諸仏の浄土から、優れたことを選び取って極楽世界を建立されたのです。たとえば柳の枝に桜の花を咲かせ、二見浦に清見関(どちらも景勝地)を並べたようなものです。これを選ぶのは人の一生の間の考えではなく、5劫(約210億年)のあいだ考え抜かれたのです。このように言葉に尽くせないほど美しく厳かで清らかな国土を設けようと願って、重ねて考え抜かれて、国土を設けようというのは生きとし生けるものを導こうとするためです。国土がすばらしいといっても衆生が生まれるのがむずかしいのであれば、大いなる慈悲の願いの意向に異なるものです。これによって極楽に往生する別の原因を定めようとされたが、一切の修行は簡単ではありません。父母へ孝養なものをとろうとすれば、不孝ものは生まれられない。経を読むものをもちいようとすれば、文章を知らないものはのぞむべくもありません。布施や持戒を原因と定めれば、ケチやアウトローの輩はもれるでしょう。忍辱・精進を(浄土に生まれるための)業とすれば、ひねくれ者や怠け者のたぐいは捨てられます。他の一切のよい行いも、みなこのようなものです。

 これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべからず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。
 「如来尊号甚分明 十方世界普流行
  但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)
といへる、このこころか。


 このようなわけで、一切の悪人も善人も、凡夫がひとしく(浄土に)生まれ、ともに(浄土に生まれたいと)願わせるために、ただ「阿弥陀」の3字の名号を称えることを極楽へ生まれる別の原因にしようと、210億年ものあいだ深くこのこをと考えに考え抜いて、まず17番目に「諸仏が私の名前をほめたたえて称えられん」という願をおこされました。この願を深く心得るべきでしょう。名号をもってあまねく生きとし生けるものを導こうと思われているから、とにかく名号を(諸仏から)ほめられようと誓われたのです。そうでなければ、阿弥陀仏のお心に名誉を願うべきではありません。(そうでなければ)諸仏にほめられたところでなんの用があるというのでしょう。
 「如来の尊号ははなはだ明らかであり 世界のあらゆるところにあまねく行き渡っている
  ただ名前を称えるだけで皆行くことができ 観音・勢至菩薩が自ら迎えに来られる」
 (五会法事讃……後善導といわれた唐代僧・法照の著)
という、このこころでしょうか。

 さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。
 「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
  不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
  不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
  但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)
このこころか。これを念仏往生とす。

 さて次に、(法蔵比丘は)第18に念仏往生の願を起こされて、十念のものを導きたいと仰った。まことによくよくこれを考えると、この願ははなはだ広くて深いものです。名号はわずかに3文字だから、シュリハンドクのような輩でもたもちやすく、これをとなえるのに、行住坐臥を選ばず、あらゆるTPOをきらわず、在家出家、老いも若きも、善し悪しの人も分けず、どの人がこれに洩れるというのでしょうか。
 「かの仏は因の中に広く誓いを立てられた 我を聞いて名を念ずれば迎え来させよう
  貧しきものも富めるものをえらばず 知恵のないもの才能のあるものをえらばない
  多聞であろうが戒めを清く守ろうが 戒めを破ろうが罪が根深かろうが関係ない
  ただ回心して多く念仏すれば 瓦礫でも黄金に変えさせることができる」(五会法事讃)
このこころでしょう。これを念仏往生とします。


『唯信抄』を勝手に現代語訳(2)

2010-05-28 23:24:38 | 仏教
【2】 二つに浄土門といふは、今生の行業を回向して、順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。まことにたくみなりとす。ただし、この門にまた二つのすぢわかれたり。一つには諸行往生、二つには念仏往生なり。


 2つめの浄土門というのは、この世での修行をふりむけて、次の生に浄土に生まれて、浄土で菩薩の修行を身につけて仏になろうと願うものです。この門は、末代の人間にかなっています。ほんとうによくできていると思います。ただし、この門には2つの筋が分かれています。1つには諸行往生、2つには念仏往生です。

【3】 諸行往生といふは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがふなり。これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆゑに。ただこれはみづからの行をはげみて往生をねがふがゆゑに、自力の往生となづく。行業もしおろそかならば、往生とげがたし。かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざるところなり。


 諸行往生というのは、父母に孝行したり、師匠に仕えたり、五戒(不殺生?不偸盗?不邪淫?不妄語?不飲酒)・八戒(五戒に加えて、高くゆったりした寝台に寝ない、歌舞を見聞きしたり化粧をしない、非時の食を取らない)をたもったり、布施や忍辱(侮辱や苦しみに耐え忍ぶ)の修行をしたり、三密(身密、口密、意密)や(法華)一乗の行を行ったりして、浄土に往生しようと願うものです。これらはみな、往生を遂げないものではありません。一切の行はみな、浄土の行であるからです。ただ、これらは自らの行いに励んで往生をねがうから、自力の往生と名付けます。これらの行いがおろそかならば、往生を遂げるのは困難です。かの阿弥陀仏の本願ではありません。(阿弥陀如来の)摂取の光明が照らさないところです。


『唯信抄』を勝手に現代語訳(1)

2010-05-28 01:50:57 | 仏教
『唯信抄』           安居院法印聖覚作
【1】 それ生死をはなれ仏道をならんとおもはんに、二つのみちあるべし。一つには聖道門、二つには浄土門なり。
 聖道門といふは、この娑婆世界にありて、行をたて功をつみて、今生に証をとらんとはげむなり。いはゆる真言をおこなふともがらは、即身に大覚の位にのぼらんとおもひ、法華をつとむるたぐひは、今生に六根の証をえんとねがふなり。まことに教の本意しるべけれども、末法にいたり濁世におよびぬれば、現身にさとりをうること、億々の人のなかに一人もありがたし。これによりて、今の世にこの門をつとむる人は、即身の証においては、みづから退屈のこころをおこして、あるいははるかに慈尊(弥勒)の下生を期して、五十六億七千万歳のあかつきの空をのぞみ、あるいはとほく後仏の出世をまちて、多生曠劫、流転生死の夜の雲にまどへり。あるいはわづかに霊山・補陀落の霊地をねがひ、あるいはふたたび天上・人間の小報をのぞむ。結縁まことにたふとむべけれども、速証すでにむなしきに似たり。ねがふところなほこれ三界のうち、のぞむところまた輪廻の報なり。なにのゆゑか、そこばくの行業・慧解をめぐらしてこの小報をのぞまんや。まことにこれ大聖(釈尊)を去ることとほきにより、理ふかく、さとりすくなきがいたすところか。


 生き死にの迷いの世界を離れて仏道に入ろうと思うのに、2つの道があります。1つめが聖道門、2つめが浄土門です。
 聖道門とは、この世界で、修行をして立派な行いを積んで、生きているうちに仏と成った証をとろうと励むものです。いわゆる真言宗の修行をする人は、この身のまま大日如来の悟りの位に昇ろうと思い、法華経の修行を努める人たちは、今生で六根清浄の証を得ようと願っています。まことに仏教の本意を知るべきなのだが、末法に至って汚れた世に至っているので、この身で悟りを得ることは、億人のなかに1人もいることがむずかしい。これによって、いまの世に聖道門を努める人は、即身仏となった証において、退屈の心を起こしたり、あるいは遙かに弥勒菩薩がこの世に現れることを期待して、56億7千万年のあかつきの空を眺め、あるいは遠く弥勒菩薩以降の仏のご登場を待ちながら、気の遠くなるような長い間生まれ変わって、生まれ変わり死に変わりの夜の雲に惑っています。あるいはわずかに霊鷲山や観音菩薩の浄土である補陀落の霊地を願い、あるいはふたたび天上界や人間界へ生まれる小さな報いをのぞみます。仏縁を結ぶことはまことに貴く思うべきだが、速やかな証はすでに空しくなってしまうことに似ています。願うところは欲界・色界・無色界の内側、のぞむところは輪廻の報いです。なんのゆえにそこそこの修行や知恵理解をめぐらして小さな報いをのぞむのでしょうか。まことにこれは釈尊が涅槃に去られたことが遠い昔なので、頭でっかちで悟りが少ない者がすることなのでしょうか。