【6】 つぎに念仏往生の門につきて、専修・雑修の二行わかれたり。専修といふは、極楽をねがふこころをおこし、本願をたのむ信をおこすより、ただ念仏の一行をつとめてまつたく余行をまじへざるなり。他の経・呪をもたもたず、余の仏・菩薩をも念ぜず、ただ弥陀の名号をとなへ、ひとへに弥陀一仏を念ずる、これを専修となづく。雑修といふは、念仏をむねとすといへども、また余の行をもならべ、他の善をもかねたるなり。この二つのなかには、専修をすぐれたりとす。そのゆゑは、すでにひとへに極楽をねがふ。かの土の教主(阿弥陀仏)を念ぜんほか、なにのゆゑか他事をまじへん。電光朝露のいのち、芭蕉泡沫の身、わづかに一世の勤修をもちて、たちまちに五趣の古郷をはなれんとす。あにゆるく諸行をかねんや。諸仏・菩薩の結縁は、随心供仏のあしたを期すべし、大小経典の義理は、百法明門のゆふべをまつべし。一土をねがひ一仏を念ずるほかは、その用あるべからずといふなり。念仏の門に入りながら、なほ余行をかねたる人は、そのこころをたづぬるに、おのおの本業を執してすてがたくおもふなり。あるいは一乗をたもち三密を行ずる人、おのおのその行を回向して浄土をねがはんとおもふこころをあらためず、念仏にならべてこれをつとむるに、なにのとがかあらんとおもふなり。ただちに本願に順ぜる易行の念仏をつとめずして、なほ本願にえらばれし諸行をならべんことのよしなきなり。これによりて善導和尚ののたまはく(礼讃・意)、「専を捨てて雑におもむくものは、千のなかに一人も生れず。もし専修のものは、百に百ながら生れ、千に千ながら生る」といへり。
「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生
故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃・下 五六四)
といへり。随縁の雑善ときらへるは、本業を執するこころなり。たとへばみやづかへをせんに、主君にちかづき、これをたのみてひとすぢに忠節を尽すべきに、まさしき主君に親しみながら、かねてまた疎くとほき人にこころざしを尽して、この人、主君にあひてよきさまにいはんことを求めんがごとし。ただちにつかへたらんと、勝劣あらはにしりぬべし。二心あると一心なると、天地はるかにことなるべし。
次に念仏往生の門について、専修と雑修の2つの行に分かれています。
専修というのは、極楽を願う心を起こし、弥陀の本願を恃む信を起こすことで、ただ念仏1つの行を努めてまったく他の行を交えないことです。他の経典や呪文をもたよりにせず、ほかの仏・菩薩をも念じることなく、ただ阿弥陀仏の名号を称え、ひとえに阿弥陀仏一仏を念じる、これを専修と名付けます。
雑修というのは、念仏を旨とするといっても、またほかの行も並べ、ほかの善も兼ねているのです。
この2つ(専修・雑修)のなかでは、専修をすぐれているとします。そのわけは、すでにひとえに極楽を願うからです。かの浄土の教主(阿弥陀仏)を念じようとするほか、なんの理由でほかごとをまじえようというのでしょうか。稲光や朝露のごとき命、芭蕉の葉の泡露の我が身であるのに、わずかにこの世での仏道修行によって、たちまちに五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天)を離れようというのです。どうしてゆったりと他の諸々の行もやらなきゃならないのでしょうか。諸仏や菩薩との縁結びは、心のまま十方の諸仏を供養し、将来に期待すべきです。大小経典の正義と理屈は、勢至菩薩の知恵の門の夕べを待つべきです。1つの浄土を願い、1つの仏を念ずるほかは、その用があるべきではないといわれるのです。
念仏の門に入りながら、なお他の行をやろうとしている人は、その心を尋ねてみると、おのおのもともと行っていたことに執着して捨てがたいと思っています。あるいは(法華の)一乗を身に保って三密を行ずる人は、それぞれそれらの行をふり向けて浄土を願わんと思う心を改めず、念仏と同列にしてこれを励むのに、なんの咎があろうかと思っているのです。直ちに弥陀の本願に順ずる易行の念仏を努めずして、なお本願に選(び捨て)られた諸行を並べることの正当性はないのです。
これに関して善導和尚が仰るには(『往生礼讃』・意訳)、「専修念仏を捨てて雑行雑修に赴くものは、千人中1人も浄土に生まれない。もし専修念仏のものは、百人中百人とも、千人中千人とも浄土に生まれる」といわれました。
「極楽は無為の涅槃の世界である 付随の縁である雑善ではおそらく生まれがたい
ゆえに如来をして必要な法を選び 教えて阿弥陀仏を念じてもっぱらにまたもっぱらにならしめたまえり」
といわれました。付随の縁を雑善と嫌われるのは、もともとの行いに執着する心です。たとえば、宮仕えをしようとするときは、主君に近づき、これをたのんで一筋に忠節を尽くすべきなのに、まさしく主君に親しくしながら、同時に疎遠になった人に志を尽くして、この人が主君に会って自分のことをよく言ってくれるように求める、ようなものです。ただちに仕えるのと、どちらが優れてどちらが劣っているか明らかに知るべきです。二心あるのと一心であるのとでは、天と地ほどの遙かな違いがあるのです。