さて、いよいよ信楽峻麿先生の「阿弥陀仏論」の最終章を読んでいくことにする。
??私が阿弥陀仏に出遇う、まことに信心体験をもつということは、ただに経典に説く阿弥陀仏の説話を、対象的に承認するということではない。
??私の外に、私を離れて、どれほど懸命に阿弥陀仏を求めようとも、そういう方向、そういう二元論的な構造においては、決して阿弥陀仏に出遇えるはずはなかろう。
では、どうすればよいのか?
??かくして、阿弥陀仏に出遇うためには、この現実の自己自身の実存の相について深く問い、それを内奥に向って究めてゆくというほかはない。
いま、ここにいる私の実相とは、「無明煩悩であり、罪業深重にして、ひとえに地獄一定の業道を生きつつある存在」である。そして、
??いかなる微少なる一点においても、清浄性、真実性は存在しえないし、その可能性もない。そういう構造において、この私自身は、その全分をあげて根源的に地獄必堕の存在である。
「自我、自執の殻が真二つに割れてくるという態において、はじめて顕わとなってくるような、もっとも根源的な私の実存の相」が《地獄一定すみかぞかし》なのだ。
先日〝自己の本性を突き詰めたら仏が到来する……のでは残念ながら「ない」〟と書いた。自己の実存を徹底して問うことが、仏に出遇うためには必要ではなかったのか?
信楽先生はいう。
??それはまた、たんに自己によって見られた自己の相ではない。自己が自己自身を問うというところでは、そこで見られた自己とは、問う自己がなお残存していて部分的、観念的な自己でしかなく、まことの自己の全相は捉えられてはいない。
自己を問い詰められない、地獄一定と思えない……、当然である。「自己自身のまことの実存の相は、自己自身によって見ることは不可能」だからである。
自分の目を自分で見ることはできない。でも、鏡で自分を見ることによってのみ、自分の目玉を自分で見ることができる。
その鏡が、阿弥陀仏の本願なのである。
??阿弥陀仏の本願を学ぶことにおいてこそ、自己が直ちに自己自身の実存の相を見ることが成立してくる
??阿弥陀仏の本願を学ぶとは、基本的には、その名号を称し、その名号を聞いてゆくことである。
ただ、念仏するだけでよいのか?
??ただ口に称名念仏すればよいということではない。そのようなひたすらなる選びの念仏において、その名号を、自己の身にかけて聞いてゆくということこそ肝要である。
私の口から出る念仏が、阿弥陀仏の呼び声であり、仏の私に対する「本願招喚の勅命」なのである。
??まことの称名とはそのまま聞名にほかならない。
「経に聞というは、仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし、是を聞というなり」(顕浄土真実教行証文類・信巻)
念仏を称えることとは、地獄一定の私の実相(機の深信)と、「お前を救うぞ」と誓われた私のための仏の願い(法の深信)の二つを、〝身にかけて聞いてゆく〟(自己自身において主体的に領解、信知してゆく)ことなのだ。
最後に、「平生業成」「煩悩即菩提」を現代の言葉で言い得ている箇所を引用させていただき、ひとまず「阿弥陀仏とは何か」を了としたい。南無阿彌陀佛
??仏法に導かれ、念仏を申して、自己を学び、自己を問うことにおいて、阿弥陀仏が私にとって向うから現成してくる。阿弥陀仏が現成してくることによって、私が問われ、その実相がいよいよ明らかになってくる。私の実相が明らかになればなるほど、阿弥陀仏もまたいよいよ明らかになってくる。私が分かることにおいて仏が分かり、仏に出遇うことにおいて私はまことの私に出遇いうるのである。
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