妄念の凡夫

日々是称名

いとむなし秋の夜長のわが心(作 はらほろひれはれ)

2009-10-31 11:43:25 | 日記・エッセイ・コラム

 暮れゆく秋は、メランコリック。愚痴が地体の私も、ますます鬱々とした気分になる。
 仕事では左遷された我が身が情けなくなってむしゃくしゃするし、連れ合いはキーキー周波数が高くて五月蠅いし、イヌは床の上に糞たれるし……。怒りを爆発させたいところだが、怒る気にもなれないし。「かったる~。なんかいいことないのかね」とブーたれるばかり。
 でも、その閉塞感こそ「娑婆を厭う便り」と受け取って、念仏申すべきものなり……あなかしこ(なんちゃって)。
 一茶じいさんも、秋の夜長を季語にしていくつか俳句に詠んでいる。「ホントの夜(後生)がくると、なんも文句言えないよ。朝の来ない夜がないのは、生きている間だけなんよ。念仏しなさいよ」ということなのかも。

長いぞよ夜が長いぞよなむあみだ

なむあみだあむみだ仏夜永哉

念仏の外は毒なり夜が長い

長き夜や心の鬼が身を責る

おそろしや寝あまり夜の罪の程

行秋や一文不通の尼入道

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阿弥陀仏とは何か(13)

2009-10-28 01:00:49 | 仏教

 さて、いよいよ信楽峻麿先生の「阿弥陀仏論」の最終章を読んでいくことにする。

??私が阿弥陀仏に出遇う、まことに信心体験をもつということは、ただに経典に説く阿弥陀仏の説話を、対象的に承認するということではない。

??私の外に、私を離れて、どれほど懸命に阿弥陀仏を求めようとも、そういう方向、そういう二元論的な構造においては、決して阿弥陀仏に出遇えるはずはなかろう。

 では、どうすればよいのか?

??かくして、阿弥陀仏に出遇うためには、この現実の自己自身の実存の相について深く問い、それを内奥に向って究めてゆくというほかはない。

 いま、ここにいる私の実相とは、「無明煩悩であり、罪業深重にして、ひとえに地獄一定の業道を生きつつある存在」である。そして、

??いかなる微少なる一点においても、清浄性、真実性は存在しえないし、その可能性もない。そういう構造において、この私自身は、その全分をあげて根源的に地獄必堕の存在である。

「自我、自執の殻が真二つに割れてくるという態において、はじめて顕わとなってくるような、もっとも根源的な私の実存の相」が《地獄一定すみかぞかし》なのだ。

 先日〝自己の本性を突き詰めたら仏が到来する……のでは残念ながら「ない」〟と書いた。自己の実存を徹底して問うことが、仏に出遇うためには必要ではなかったのか? 
 信楽先生はいう。

??それはまた、たんに自己によって見られた自己の相ではない。自己が自己自身を問うというところでは、そこで見られた自己とは、問う自己がなお残存していて部分的、観念的な自己でしかなく、まことの自己の全相は捉えられてはいない。

 自己を問い詰められない、地獄一定と思えない……、当然である。「自己自身のまことの実存の相は、自己自身によって見ることは不可能」だからである。
 自分の目を自分で見ることはできない。でも、鏡で自分を見ることによってのみ、自分の目玉を自分で見ることができる。
 その鏡が、阿弥陀仏の本願なのである。

??阿弥陀仏の本願を学ぶことにおいてこそ、自己が直ちに自己自身の実存の相を見ることが成立してくる
??阿弥陀仏の本願を学ぶとは、基本的には、その名号を称し、その名号を聞いてゆくことである。

 ただ、念仏するだけでよいのか?

??ただ口に称名念仏すればよいということではない。そのようなひたすらなる選びの念仏において、その名号を、自己の身にかけて聞いてゆくということこそ肝要である。

 私の口から出る念仏が、阿弥陀仏の呼び声であり、仏の私に対する「本願招喚の勅命」なのである。

??まことの称名とはそのまま聞名にほかならない。

「経に聞というは、仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし、是を聞というなり」(顕浄土真実教行証文類・信巻)

 念仏を称えることとは、地獄一定の私の実相(機の深信)と、「お前を救うぞ」と誓われた私のための仏の願い(法の深信)の二つを、〝身にかけて聞いてゆく〟(自己自身において主体的に領解、信知してゆく)ことなのだ。
 最後に、「平生業成」「煩悩即菩提」を現代の言葉で言い得ている箇所を引用させていただき、ひとまず「阿弥陀仏とは何か」を了としたい。南無阿彌陀佛

??仏法に導かれ、念仏を申して、自己を学び、自己を問うことにおいて、阿弥陀仏が私にとって向うから現成してくる。阿弥陀仏が現成してくることによって、私が問われ、その実相がいよいよ明らかになってくる。私の実相が明らかになればなるほど、阿弥陀仏もまたいよいよ明らかになってくる。私が分かることにおいて仏が分かり、仏に出遇うことにおいて私はまことの私に出遇いうるのである。

「EssayOnAmitabha.rtf」をダウンロード

阿弥陀仏とは何か(12)

2009-10-27 00:20:47 | 仏教

 昨日のつづき。
 自己の本性を突き詰めたら仏が到来する……のでは残念ながら「ない」と書いた。

「若し生まれずば正覚を取らず」というのは、言い換えると、
「衆生(私)が浄土に往生できなかったら、仏にはならない」ということである。
 つまり、「衆生が往生できなかったら、仏が衆生のそばへ行って助けてやろう」ではないのだ。

??私の往生と仏の正覚とは同時一体である

 つまり、仏は、私が目覚めるのを久遠劫の昔から待ち続けているのである。気づいてくれ、目覚めてくれ、と叫び続けているのである。

??すなわち、仏は、私の往生において仏であり、したがってまた、私とは、仏において、仏に出遇うことにおいてこそ、はじめてまことの私でありうる

 この私の往生が、すなわち阿弥陀仏の成仏なのである。

 さて、仏の智慧は世俗に向って方便、到来しつづけているが、どのような形態で到来しているのか。一つが(1)姿形(仏像、仏画)を通してであり、もう一つが(2)仏名の告名である。

 (1)で出遇うためには、「見仏・観察」の道が要求され、

 (2)で出会うためには、「聞名・称名」の道が必要とされる。

 もともと浄土教には上記2つの流れがあった。(1)は龍樹菩薩、(2)は世親(天親)菩薩からの流れだという。曇鸞大師→道綽襌師→善導大師と時代を下るにつれて称名正定業が主張され、法然上人に至って、仏教はひとえに称名(聞名)の道として領解されることとなった。

??名号とは、煩悩に眼を障ぎられて見ることができないもののために、仏が自らの口を開き、大きな叫び声をもって、自己の存在を告知するものという意味をもっている

 経典や親鸞聖人の著作にあるように、名号とは、こちらから名づけられたもの(無量寿、無量光明)であった。

 それと同時に、待ち続けてきた、叫び続けてきた方便法身(阿弥陀仏)が自ら告名し示現した、まさしく「本願招喚の勅命」なのである。

 したがって、

??私たちが阿弥陀仏に出遇うということは、ひとえに、この本願を学び、この名号を称し、この名号を聞くということにおいてこそ成就するのである。

 


阿弥陀仏とは何か(11)

2009-10-26 02:29:48 | 仏教

 方便法身である阿弥陀仏がこの私に知らしめたいことは、「究極的な智慧、真実のありさま」である。
 では「真実のありさま」とは何か?

??この阿弥陀仏について説いた『無量寿経』の中心教説は「本願」であり、その本質は「名号」である。

 法蔵菩薩は48願を起こし、五劫もの修行の末、本願を成就し、仏国土(極楽浄土)をつくられた。
 本願とは仏の心であり、仏の心とは「大慈悲これなり」である。信楽先生は、慈悲を慈と悲に分けて解説している。
・「慈」……いかなる障害をも越えてつながる深い友情、連帯のこと
・「悲」……他者の苦悩を我が苦悩として共感するところの、同体の心情
 ゆえに仏の慈悲とは、「いっさいの有情の苦悩を自己の内に同体的に共感しつつ、しかもまだ、その有情との自他一如なる生命の連帯を自覚する心のこと」である。
 また、悲の原語はもともと「呻き」を意味する。なぜ、ほとけが呻かなければならぬのか? それは、

??私が、どこまでも仏に背反して無明煩悩の存在であり、地獄一定の業道を生きている

からである。仏から見れば、この私が仏を嘆かせているのだ。この私の姿に阿弥陀仏が呻かれて、本願を起こされ完成された。始めなきその始めから、今日に至るまで、私に向かって説法し、召喚されている。
 48願の中心は、ご存じ第十八頭の至心信楽の願である(他の四十七種の願は、ことごとくこの第十八願に摂入される)。

??たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

??あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(本願成就文)

「仏の名を称えて仏の智慧に歓喜するものは、浄土に往生させよう。もしそうでないなら、私は仏にならない」と誓われた本願が成就された。
 しかし、信楽教授は断言する。

??それは仏が絶対者としてすでに存在していて、その仏がいっさいの衆生に向って到来し、救済するということではない。

??私が仏を信知するとは、まさしくこの私自身が、そういう仏において存在していることにめざめてゆくことにほかならないのである。

 阿弥陀仏はマザーメアリーでもないし、南無阿彌陀佛はLet it beでもない。

??かくして、真実の到来としての阿弥陀仏とは、決してこの私の存在を離れて求められるべきものではない。つねに私の存在に即して、私が私を尋ねて、まことの私自身に出遇うことにおいて、それとひとつになって、超越の仏に出遇いうることとなるのである。

「私が私を尋ねる」「まことの私自身に出遇う」……そうすれば仏と出遇えるのか?
 自己を掘り下げて掘り下げればいいのか? 自己の本性を突き詰めればいいのか? そうすれば仏は到来してくれるのか?……残念ながら答えは、否。(つづく)


阿弥陀仏とは何か(10)

2009-10-25 00:14:12 | 仏教

??智慧とは、心行寂滅にして、つねにこの世俗、分別の境界を超えているが、また智慧それ自身の本質として、絶えずこの世俗に方便到来し、決して世俗、分別を離れるものではない。そしてその方便、慈悲もまた、つねにこの世俗、分別の境界に通じながらも、それは真如、法性と異なるものではなく、つねに智慧にまで還婦しているのである。

 「心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。」(『顕浄土真実教行証文類』化身土巻)??まさに、智慧をいただく(真実に触れる=阿弥陀仏に遇う)というのは、この一言に尽きるのではないか。
 いま生きているこの私が、対象を外部に求めて毒矢の飛んできた方向、その背景、鏃の堅さ、毒の成分……をいくら考えても、その毒で死んでいくこの私の行き先はわからない。

 一方で対象を内部に求めても、「我思う故に我有り」とか「不完全な私が完全な観念を思い浮かべられるので神はまします」とかいったところで、不安定でしかないこの私は決して安心できないはずだ(できたというのは、臭いものに蓋をしただけにすぎない)。
 さて、その智慧の現れ方として、信楽論文は曇鸞大師、親鸞聖人の「二種法身」説を引用している。
(1)法性法身
??いろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばず、ことばもたえたり
(2)方便法身
??この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす。その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり
 阿弥陀仏は方便法身である。

??もと不可称、不可説なる出世の智慧、真如、法性が、それ自身の必然として、それと不一不異、広略相入なる関係を保ちつつ、この世俗に対して、方便、到来し、示形、垂名したものである

??そしてその両者は、由生由出、不一下異の関係にあって、法性法身によればこそ慈悲なる方便法身が生起し、方便法身あればこそ智慧なる法性法身がよく願出しうるのである。

 そのような主観・客観の分別を超えた仏地は、「この迷妄の世俗を超えてはるかなる彼岸、出世なるものでありながら、しかもまだ、それはこの現実の世俗をはなれてえられるものではなく、つねに此岸のただ中に到来するもの」なのである。彼岸は此岸にあるのだ。どこに?(つづく)