『親鸞聖人御消息』2
各地からのお志を、 記された数の通り確かにいただきました。 明教房が京都に来られているのはうれしいことです。 みなさんのお志には、 お礼の申しあげようもありません。 明法房が浄土に往生なさったということは、 驚くようなことではありませんが、 本当にうれしく思っております。 鹿島や行方や奥群などの、 往生を願っておられるすべての人々にとってよろこばしいことです。 また、 平塚の入道殿が往生なさったこともお聞きしましたが、 何とも言葉に表しようのない思いです。 その尊さは、 言葉でいい尽すことができません。 みなさん一人一人も往生は間違いないとお思いにならなければなりません。
けれども、 往生を願っておられる人々の中でも、 教えが十分に理解されないことがありました。 今もきっとそうであろうと思います。 京都でも教えを十分に理解せず、 さまざまにいいあって迷っているようです。 地方でもそのようなことが多くあると聞いています。 法然上人のお弟子の中にも、 自分はすぐれた学僧であるなどと思っている人々が、 今ではみな、 聖教の言葉をさまざまにいい換えて、 自らも迷い他の人をも迷わせて、 互いに思い悩んでいるようです。
聖教を見ることもなくその教えの内容を知らないみなさんのような人々が、 往生のさまたげとなるものは何もないということだけを聞いて、 誤って理解することが多くありました。 今もきっとそうであろうと思います。 浄土の教えも知らない信見房などがいうことによって、 ますます誤解を深めておられるように聞きますが、 それは実に嘆かわしいことです。
そもそもみなさんは、 かつては阿弥陀仏の本願も知らず、 その名号を称えることもありませんでしたが、 釈尊と阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれて、 今は阿弥陀仏の本願を聞き始めるようになられたのです。 以前は無明の酒に酔って、 貪欲・瞋恚・愚痴の三毒ばかりを好んでおられましたが、 阿弥陀仏の本願を聞き始めてから、 無明の酔いも次第に醒め、 少しずつ三毒も好まないようになり、 阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです。
ところが、 まだ酔いも醒めていないのに重ねて酒を勧め、 毒も消えていないのにさらに毒を勧めるようなことは、 実に嘆かわしいことです。 煩悩をそなえた身であるからといって、 心にまかせて、 してはならないことをし、 いってはならないことをいい、 思ってはならないことを思い、 どのようにでも心のままにすればよい、といいあっているようですが、 それは何とも心の痛むことです。
酔いも醒めないうちにさらに酒を勧め、 毒も消えないうちにますます毒を勧めるようなものです。 薬があるから好きこのんで毒を飲みなさいというようなことはあってはならないと思います。 阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて、 念仏するようになってから久しい人々は、 後に迷いの世界に生れることを厭い、 わが身の悪を厭い捨てようとする姿が現れてくるはずだと思います。
はじめて阿弥陀仏の本願を聞いて、 自らの悪い行いや悪い心を思い知り、 このようなわたしではとても往生することなどできないであろうという人にこそ、 煩悩をそなえた身であるから、 阿弥陀仏はわたしたちの心の善し悪しを問うことなく、 間違いなく浄土に迎えてくださるのだと説かれるのです。
このように聞いて阿弥陀仏を信じようと思う心が深くなると、 心からこの身を厭い、 迷いの世界を生れ変り死に変りし続けることをも悲しんで、 深く阿弥陀仏の本願を信じ、 その名号を進んで称えるようになるのです。
以前は心にまかせて悪い心を起し悪い行いをしていたけれども、 今はそのような心を捨てようとお思いになることこそ、 この迷いの世界を厭う姿であろうと思います。
また、 浄土往生を疑うことのない信心は、 釈尊と阿弥陀仏のお勧めによって起こると示されているので、 煩悩をそなえた身であっても、 真実の信心をいただいたからには、 どうしてかつての心のままでいられるでしょうか。
みなさんの中にも、 少しよくないうわさがあるようです。 師を謗り、 善知識を軽んじ、 念仏の仲間でも互いにおとしめあったりしておられると聞きますのは、 実に嘆かわしいことです。 これらの人はすでに謗法の人であり、 五逆の人です。 親しく接してはなりません。
『往生論註』という書物には、 「このような人は仏法を信じる心がないから、 悪い心がおこるのである」 といわれています。 また『観経疏』に 「至誠心」 を解釈する中で、 「このように悪を好むような人から気をつけて離れ、 近づいてはいけない」 といわれています。 これは、 善知識や念仏の仲間には親しく近づきなさいと説き示されているのです。
悪を好む人に親しく近づくようなことは、 浄土へ往生した後に、 すべてのものを救うために再びこの迷いの世界にかえってこそ、 はじめてそのような罪を犯した人にも親しく近づくことがあるのです。 それも、 自らのはからいによるのではありません。 阿弥陀仏の本願のはたらきによる救いであるからこそ、 思い通りに振舞うこともできるでしょう。 煩悩をそなえている今のわたしたちのようなものでは、 どうすることができるでしょうか。 よくお考えになっていただきたいと思います。
浄土往生を疑うことのない金剛の信心が起こるのは、 仏のはたらきによるのですから、 その信心を得た人は、 決して師を謗り善知識をおとしめるようなことはないと思います。 鹿島や行方や南の荘など、 どちらにでも、 浄土往生を願っておられる方に、 この手紙を等しく読み聞かせていただきたいと思います。 謹んで申しあげます。
建長四年二月二十四日