妄念の凡夫

日々是称名

今度生まれてくるときは……

2016-03-30 20:45:59 | 仏教

「今度生まれてくるときは,人間に生まれてこいよ」

善意で言ってるのだろう。しかし、私には違和感がある。口幅ったくて、とても口にすることができない。

従順なペットや可愛い動物、生き物を慈しむのはいい。しかし、大きなお世話ではないか?

人間でなければ仏教を聞くことはできないという。でも、人間に生まれても、仏教と無縁のまま一生を終える人たちばかりである。その人たちを哀れに思うのも、よくよく考えれば,おこがましくはないだろうか? 自分は何様なのか?

かつてゴンタを早死にさせてしまったことを思えば,本当に申し訳なかったと思う。なんでもっと早く、病院へ連れて行けなかったのか。後悔と懺悔しかない。次はもっといい境涯で生まれてほしいが、死んでから望んでどうなるというのか?

ゴンタの息子であるルパンは、今年13歳になる。12歳半ばで死んだゴンタより長生きしている。食欲旺盛だが、たまに平坦なところで躓くことがある。白内障もかなり進んでいる。人間に換算したら70歳を越しているのだから無理もない。

ただ、ただ、できるだけ長く元気であってほしいと願うだけである。

 


なんまんだぶ なんばんだぶ なんまんだぶ

2015-08-08 12:03:23 | 仏教

 昨晩、増井悟朗先生が、浄土へ旅立ちになった。

なんまんだぶ

なんまんだぶ

なんまんだぶ

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし

なんまんだぶ

なんまんだぶ

なんまんだぶ

なんまんだぶ

なんまんだぶ

なんまんだぶ

なんまんだぶ

なんまんだぶ

なんまんだぶ

なんまんだぶ

 


アフロな阿弥陀さま

2015-07-12 23:36:16 | 仏教

 久保光雲先生の『光雲な毎日』(コスモスライブラリー)を読んだ。そこには、法蔵菩薩が五劫もの長い間(216億年くらい)思惟されて阿弥陀仏となられたとき、あまりにも長い時間が過ぎたのでアフロヘアが爆発状態(ボンバヘッド)になった、というような下りがあった(マンガつきで)。

 いやー、いくらなんでも光雲先生、冗談きついわ、お茶目な解釈やなーと思っていたら、どうやらホントらしい。

 あまりにも長い時間、ご修行されたので、螺髪が堆積されたのだそう。螺髪があるということは、ガンダーラ仏像ではなく、マトゥラ仏像の流れをくむのでしょう。

 スーパーアフロな阿弥陀さまは、五劫思惟阿弥陀如来像として確立したスタイルだったのだ。なかなかfunkyでいらっしゃる。

 まるで若い頃のマイケル・ジャクソンか、スキマスイッチのピアノのほうか、はたまた穂積ぺぺ(知ってる人いるかな?)か、それとも松鶴家ちとせなのか(わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ)……。

 

●その1 東大寺(奈良)

 秘仏だそうです。合掌されています。

 

●その2 五劫院(奈良)

 手を組み、足の上に置いておられます。

 

●その3 金戒光明寺(京都・黒谷)

 石像です。頭、重たそう。

 

 


悪人正機のほんとうの意味

2015-06-07 23:51:55 | 仏教

『親鸞聖人御消息』2

 各地からのお志を、 記された数の通り確かにいただきました。 明教房が京都に来られているのはうれしいことです。 みなさんのお志には、 お礼の申しあげようもありません。 明法房が浄土に往生なさったということは、 驚くようなことではありませんが、 本当にうれしく思っております。 鹿島や行方や奥群などの、 往生を願っておられるすべての人々にとってよろこばしいことです。 また、 平塚の入道殿が往生なさったこともお聞きしましたが、 何とも言葉に表しようのない思いです。 その尊さは、 言葉でいい尽すことができません。 みなさん一人一人も往生は間違いないとお思いにならなければなりません。 

 けれども、 往生を願っておられる人々の中でも、 教えが十分に理解されないことがありました。 今もきっとそうであろうと思います。 京都でも教えを十分に理解せず、 さまざまにいいあって迷っているようです。 地方でもそのようなことが多くあると聞いています。 法然上人のお弟子の中にも、 自分はすぐれた学僧であるなどと思っている人々が、 今ではみな、 聖教の言葉をさまざまにいい換えて、 自らも迷い他の人をも迷わせて、 互いに思い悩んでいるようです。

  聖教を見ることもなくその教えの内容を知らないみなさんのような人々が、 往生のさまたげとなるものは何もないということだけを聞いて、 誤って理解することが多くありました。 今もきっとそうであろうと思います。 浄土の教えも知らない信見房などがいうことによって、 ますます誤解を深めておられるように聞きますが、 それは実に嘆かわしいことです。
 
 そもそもみなさんは、 かつては阿弥陀仏の本願も知らず、 その名号を称えることもありませんでしたが、 釈尊と阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれて、 今は阿弥陀仏の本願を聞き始めるようになられたのです。 以前は無明の酒に酔って、 貪欲・瞋恚・愚痴の三毒ばかりを好んでおられましたが、 阿弥陀仏の本願を聞き始めてから、 無明の酔いも次第に醒め、 少しずつ三毒も好まないようになり、 阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです。

 ところが、 まだ酔いも醒めていないのに重ねて酒を勧め、 毒も消えていないのにさらに毒を勧めるようなことは、 実に嘆かわしいことです。 煩悩をそなえた身であるからといって、 心にまかせて、 してはならないことをし、 いってはならないことをいい、 思ってはならないことを思い、 どのようにでも心のままにすればよい、といいあっているようですが、 それは何とも心の痛むことです。

 酔いも醒めないうちにさらに酒を勧め、 毒も消えないうちにますます毒を勧めるようなものです。 薬があるから好きこのんで毒を飲みなさいというようなことはあってはならないと思います。 阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて、 念仏するようになってから久しい人々は、 後に迷いの世界に生れることを厭い、 わが身の悪を厭い捨てようとする姿が現れてくるはずだと思います。

  はじめて阿弥陀仏の本願を聞いて、 自らの悪い行いや悪い心を思い知り、 このようなわたしではとても往生することなどできないであろうという人にこそ、 煩悩をそなえた身であるから、 阿弥陀仏はわたしたちの心の善し悪しを問うことなく、 間違いなく浄土に迎えてくださるのだと説かれるのです。 
 このように聞いて阿弥陀仏を信じようと思う心が深くなると、 心からこの身を厭い、 迷いの世界を生れ変り死に変りし続けることをも悲しんで、 深く阿弥陀仏の本願を信じ、 その名号を進んで称えるようになるのです。
 以前は心にまかせて悪い心を起し悪い行いをしていたけれども、 今はそのような心を捨てようとお思いになることこそ、 この迷いの世界を厭う姿であろうと思います。
 
 また、 浄土往生を疑うことのない信心は、 釈尊と阿弥陀仏のお勧めによって起こると示されているので、 煩悩をそなえた身であっても、 真実の信心をいただいたからには、 どうしてかつての心のままでいられるでしょうか。

 みなさんの中にも、 少しよくないうわさがあるようです。 師を謗り、 善知識を軽んじ、 念仏の仲間でも互いにおとしめあったりしておられると聞きますのは、 実に嘆かわしいことです。 これらの人はすでに謗法の人であり、 五逆の人です。 親しく接してはなりません。

 『往生論註』という書物には、 「このような人は仏法を信じる心がないから、 悪い心がおこるのである」 といわれています。 また『観経疏』に 「至誠心」 を解釈する中で、 「このように悪を好むような人から気をつけて離れ、 近づいてはいけない」 といわれています。 これは、 善知識や念仏の仲間には親しく近づきなさいと説き示されているのです。

 悪を好む人に親しく近づくようなことは、 浄土へ往生した後に、 すべてのものを救うために再びこの迷いの世界にかえってこそ、 はじめてそのような罪を犯した人にも親しく近づくことがあるのです。 それも、 自らのはからいによるのではありません。 阿弥陀仏の本願のはたらきによる救いであるからこそ、 思い通りに振舞うこともできるでしょう。 煩悩をそなえている今のわたしたちのようなものでは、 どうすることができるでしょうか。 よくお考えになっていただきたいと思います。

 浄土往生を疑うことのない金剛の信心が起こるのは、 仏のはたらきによるのですから、 その信心を得た人は、 決して師を謗り善知識をおとしめるようなことはないと思います。 鹿島や行方や南の荘など、 どちらにでも、 浄土往生を願っておられる方に、 この手紙を等しく読み聞かせていただきたいと思います。 謹んで申しあげます。

 

建長四年二月二十四日


もろもろの悪をなすことなく もろもろの善を奉行し  自らその意を浄らかにせよ これが諸仏の教えである

2015-06-05 23:23:14 | 仏教

『親鸞聖人御消息』37


 何よりも、 聖教の内容も知らず、 また浄土の教えの本当の意味も知らないで、 考えられないような勝手気ままな行いをして自らの心に恥じることのない人々に対して、 悪い行いは心にまかせてするのがよいなどといっておられるそうですが、 それは決してあってはなりません。 北の郡にいた善証房というものに、 わたしが最後まで親しく接することがなかったのを見ておられなかったのでしょうか。 


 凡夫であるからといって、 何でも心にまかせてしてもよいのなら、 物を盗んだり、 人を殺したりしてもよいのでしょうか。 かつて盗みをはたらこうとした人でも、 極楽浄土への往生を願って念仏するようにまでなったら、 もとの誤った考えをあらためもするはずですが、 そのようなすがたも見受けられない人々に、 悪は往生のさまたげにならないと説くことは、 決してあってはなりません。 


 煩悩に狂わされて、 気づかないうちにしてはならないことをし、 いってはならないことをいい、 思ってはならないことを思ってしまうのです。 往生のさまたげにはならないからといって、 人に対して悪意をもって、 してはならないことをし、 いってはならないことをいうのなら、 それは煩悩に狂わされているということではありません。 わざとしてはならないことをするのは、 決してあってはならないことです。


 鹿島や行方の人々の悪い行いをやめるようにいい、 またその土地の人々の中のとりわけ誤った考えを正してこそ、 こちらで真実の教えを聞いたもののすがたといえるでしょう。 
何であっても心にまかせてするのがよいなどといったそうですが、 嘆かわしいことです。 この世の悪も捨て、 嘆かわしい行いもしないようにしてこそ、 この迷いの世界を厭い、 念仏するということなのです。 長年の間念仏している人が、 他の人に悪いことをしたり、 いったりするのなら、 それはこの迷いの世界を厭うすがたではありません。


 ですから、 善導大師は 『観経疏』 に、 「悪を好むような人から、 気をつけて離れなければならない」 と、 「至誠心」 を解釈するなかでいわれています。 いつ誰が、 自らの悪い心にまかせて悪い行いをするのがよいなどといったでしょうか。 経典や祖師がたの書かれたものを少しも知らず、 如来のお言葉も知らない人々に対して、 悪は往生のさまたげにならないなどと決していってはなりません。 謹んで申しあげます。

 十一月二十四日                    親鸞