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妄念の凡夫

日々是称名

【メモ】大命将終悔懼交至

2010-03-21 00:56:06 | インポート
 ときの世人、心意ともにしかなり。愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず。仁ならず、順ならず、天地に悪逆してそのなかにおいて僥倖を望し、長生を求めんと欲すれども、かならずまさに死に帰すべし。


世間の人々の心も意思もともにこのようである。道理が分らず愚かでありながら、自分は智慧があると思っているのであって、人がどこからこの世に生れてきたか、死ねばどこへ行くかということを知らない。思いやりに欠け、人のいうことにも耳を貸さない。道にはずれたものでありながら、得られるはずもない幸福を望み、長生きしたいと思っている。しかし、やがては必ず死ぬ。

慈心をもつて教誨して、それをして善を念ぜしめ、生死・善悪の趣、自然にこれあることを開示すれども、しかもあへてこれを信ぜず。心を苦きてともに語れども、その人に益なし。心中閉塞して意開解せず。


(佛はそれを)哀れに思って教え諭し、善い心を起させようとして、生死・善悪の因果の道理があることを説き示すのであるが、これを信じようとしない。懇切丁寧に語り聞かせても、それらの人には何の役にもたたず、心のとびらを固く閉ざして、少しも智慧の眼を開こうとしない。

大命まさに終らんとするに、悔懼こもごも至る。あらかじめ善を修せずして、窮まるに臨んでまさに悔ゆ。これを後に悔ゆともまさになんぞ及ばんや。天地のあひだに五道、分明なり。恢廓窈窕として浩々茫々たり。善悪報応し、禍福あひ承けて、身みづからこれに当る。たれも代るものなし。数の自然なり。


いよいよこの世の命が終ろうとするとき、(これまでの)悔いと(死後への)恐怖が、かわるがわる沸き起こる。生きているうちに善い行いをせずにいて、そのときになってどれほど後悔しても、もはや取り返しはつかない。この世界は五道輪廻の因果の道理が明白であって、それは実に広く深いものである。善い行いをすれば自分自身にしあわせをもたらし、悪い行いをすれば自分自身にわざわいをもたらす。(自分の他に)だれもこれに代わるものはない。数のように当たり前のことだ。

その所行に応じて、殃咎(おうぐ)、命を追うて、縦捨を得ることなし。善人は善を行じて、楽より楽に入り、明より明に入る。悪人は悪を行じて、苦より苦に入り、冥より冥に入る。たれかよく知るものぞ、独り仏の知りたまふのみ。教語開示すれども、信用するものは少なし。生死休まず、悪道絶えず。


自分の所業に応じて、咎(とが)は、命を追いかけて、さっと捨て去ることはできない。善人はよいことをして楽の世界から楽の世界へ入り、明るい世界から明るい世界へ入る。悪人は悪を行って、苦しみから苦しみの世界へ入り、地獄から地獄へ入る。この道理を誰がよくわかっているのか。1人佛だけが知っていらっしゃるだけである。佛が教え知らせているのに信用する者は少ない。生れ変り死に変りして、悪道を絶えず経巡るだけである。

かくのごときの世人、つぶさに尽すべきこと難し。ゆゑに自然の三塗の無量の苦悩あり。そのなかに展転して世々に劫を累ねて出づる期あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず。これを五つの大悪・五つの痛・五つの焼とす。勤苦かくのごとし。たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。


そのような世間の人(のようす)は、つぶさに語り尽くすことがむずかしい。ゆえに三途(地獄・餓鬼・畜生)で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、そこから逃れることができない。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第五の大悪、第五の痛、第五の焼という。みな苦しみはこのようである。たとえば燃えさかる火が身を焼き焦がすようである。

人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端しくし念を正しくして、言行あひ副ひ、なすところ誠を至し、語るところ語のごとく、心口転ぜずして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、その福徳・度世・上天・泥の道を獲ん。これを五つの大善とす」と。


もし、このような迷いの世界の中で、身も心も正しくし、言行を一致させ、行いも言葉もすべて誠実で、思いと言葉が相違せず、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第五の大善というのである 。


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