去年の2月20日に書いて下書きにはいったままになっていたものです。
昨日の朝のABCのニュースで知りました。 小野田さんは先日1月16日に亡くなられました。 ご冥福をお祈り申し上げます。
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阿川佐和子さんの小野田さんとの対談、読み直してしまいました。
わたしにとっては小野田さんと横井さんは戦後もジャングルにとどまっていた人、という点で同じだったのですが
父が、小野田さん(少尉)と横井さん(伍長~最終階級は軍曹)は階級がまったく違うという話をしていたことを覚えています。
小野田さんが将校となるまで。
『上海の商事会社で働いていた1942年、現役兵として歩兵第61連隊(和歌山)に入隊。転属等を経て、陸軍甲種幹部候補生に合格、陸軍予備士官学校に入学、卒業後、中国語や英語が堪能だった事から、当時軍の情報学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校として育成され「卒業」ではなく「退校命令」を受領する(Wikipedia)』
『(陸軍中野学校は)他の陸軍学校と違って、何故天皇を崇拝するのか、など議論することが自由だったそうだ。そういう教育を受け、日本がいずれは負ける、本土は侵略されるという情報を上から秘密裏に教えられ、ゲリラとして、いずれ日本が勢力を盛り返す時のためとして、フィリピンに送りこまれる (最後の日本兵 小野田寛郎)』
軍隊の階級 | |
---|---|
将官 | |
佐官 | |
尉官 | |
准士官 | |
下士官 | |
兵 |
対談後、 阿川さんが一筆御礼の中で下記書いていらっしゃいます。
『奥様とご一緒に部屋に入ってこられた時も、ソファに腰をかけてお話なさるときも
背筋の伸び方、座って両手を膝にちょこんとのせ、膝頭を話すことなく
じっと同じ体勢を崩されないご様子...どれをとっても
ああ昔の礼儀正しい日本人ってこういう感じだったということを思い出しました』
阿川さんは中曽根元首相の対談のあとも姿勢のよさについて述べていらっしゃいました。
『物腰も語り口も穏やかながら、語られる言葉は重く鋭く
これほどに厳しい人生を、実際に体験しなければわからないことがあるものだと。。。』
すごいのは単にジャングルでサバイバルしたというのではなく、
ジャングルにいた29年間は小野田少尉にとっては
戦時中であったということですね。
フィリピンの警察官と打ち合いをしています。
二人殺しています。
でもフィリピン政府は犯罪者としては扱っていないんですね。
日本の政府とのやりとりがあったのかもしれないですね。
小野田さんの靖国神社感というのも、わかりました。
『われわれ戦争に行った人は「靖国で会おう」が合言葉なんですよ~中略~
今度別の慰霊碑をつくることになるのなら死んだ人に嘘をつくことになる
日本人はまず「死んだ人に嘘はつけない」という考えなんですね。
死んだからといって約束を反故にすることは不義理なんです』
そして小泉元首相の「心ならずも戦死された~」という言葉にもひとこと。
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『戦わざる得なかったから戦ったのに
帰ってきたら戦争が悪になっていた
なんで僕が軍国主義の亡霊みたいに憎まれなきゃならないのかと思って』
『「葉隠」の教えでは「理屈はいずれにもつくものなり」
「武士道とは死ぬこと見つけたり」なんですね』
『帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や現地住民との銃撃戦によって多数の住民が死傷した出来事が明らかになった事(フィリピン政府当局の判断により、小野田への訴追は行われなかった)、また本当に敗戦を知らなかったのかという疑問が高まるに連れて、進歩的なマスコミや文化人からは「軍人精神の権化」、「軍国主義の亡霊」といった批判も当然にあった。
小野田に対し、政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。天皇との会見も断り(自身が勝手に潜伏していたので、陛下は声の掛け様が無いだろうと判断)、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を参っている(Wikipedia)』
昔はこういう人が多かったのでしょうね。
この世代とその次の世代の方々は
今の日本に繁栄をもたらした方々ですね。
その次の次の世代で下り坂になっていますね。
自分の世代!?(≧∀≦)
日本は敗戦国で、戦争をした国に良し悪しはないという言葉もありますが
いまでも国全体が戦争犯罪国みたいな言われ方をされてますよね。
そうだったじゃない、と言われそうでもありますけど。
世界大戦に参加した人はオーストラリアではヒーロー。
日本の元兵士さんたちはパレードをされることもなく、また、パレードでもしようものなら
各国からたたかれるのは目にみえていて。。
毎年アンザックデーになるとちょっとやるせない気持ちになっています。
(と、何回か書いてきました)
Wikipedia: 小野田寛郎
数少なくなってきた生き証人であられます。
小野田自然塾では子供たちを対象にキャンプをしていたそうですが
『親があんまりで子供をキャンプから返してからどういう接し方をしているかわからなかったから』
(親から教育しなおそうと)親子のキャンプにされたそうです。
*福島県にあるようなのですが、そのせいかどうか今は
『親子及び子どもキャンプ一時休止し、これに替えて、これまでに養成した指導者により各地において実施される青少年の自然教育キャンプ活動の協力支援』となっていますね。
今年91歳、これからの日本のためにも、お身体の続く限り
発言し続けてくださいませ。
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追記:Googleで探して
日本会議というところで桜井よしこさんたちが発言されているなか
小野田さんも来賓として祝辞を述べていらっしゃいます。
オイルについてのべているところがなんだか小野田さんらしいです。
(WWIIは経済制裁で日本が石油の道を断たれたのも発端の一因になっていますよね)
http://www.nipponkaigi.org/about/10years
この巻ですね。 さっきみたら、9巻目も発売されていました。
阿川佐和子の会えばなるほど―この人に会いたい〈6〉 | |
(文春文庫) | |
文藝春秋 |
Nikkei Asian Review
Former Japanese army straggler Hiroo Onoda dies at 91
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