図書館のカード番号で世界中の新聞を閲覧できるという
Libary.pressdisplay.comをたずね本日配布の毎日新聞を読んでみました。
いろいろな新聞の記事の中には一生忘れそうもないものがあるけれど
自分にとって このご家族のお話もそのひとつになるでしょう。
この記事を書かれた萩尾信也氏は毎日新聞の記者であり執筆多々のジャーナリストでもあられるのですね。
群馬県前橋支局の時代、(この毎日新聞の特集3日目によると)事故の翌日より御巣鷹山の現場から取材をされています。 当時30歳。
この記事を読んだ日、山崎豊子さんの沈まぬ太陽(3) 御巣鷹山篇を読みかえしてみました。
田淵さんご家族のことを参照にされたと思われる記述が324ページ(新潮文庫版)にでてきます。
長女の方の年齢が小説では20歳になっていたので、別なご家族のことかもと思ったのですが、
小説の中にでてくる、弔問に来た社長が3人の名前を答えられなかったというエピソードが、次の日の毎日新聞に記されていました。
毎日新聞によるとお顔が残っていたのは次女の方だけで、長女と三女の方は歯型からの認証となったそうです...。
この小説の中で社長堂本氏が冷たく描かれています。
当時、実際に日航の社長であられた高木氏はそうではなかったようです。
『(当時日航の社長であった高木 養根氏 (たかぎ やすもと、1912年7月7日 - 1999年1月9日) 山崎豊子の小説「沈まぬ太陽」に登場する国民航空社長・堂本信介のモデルとされるが、人物像は大きく異なる
在任中に日本航空350便墜落事故(1982年2月9日・羽田沖)、日本航空123便墜落事故(1985年8月12日・御巣鷹)などの重大航空事故が続き、その責任を負って1985年退任した。
その後も個人の資格で遺族への慰問行脚をしたほか、毎夏、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に慰問登山を続けた』
気がつくと12時過ぎていました。
My関連ブログ
読破 山崎豊子 2006.06.02
ここに書いた通り、御巣鷹山編をはじめて読んだときは、遺族の方のお話のところで
本を読んでこれほど泣いたことはないというくらい泣きました。
また泣くのかなと思っていたのですが、夕べは泣かなかったですね。
飛行機で一番安全な席 - SBS「Survivors Guide to Plane Crashes」 2008.01.10
ここにはないですが、御巣鷹山編では、乗客のシートベルトで身体がふたつに千切れてしまった話がたくさんでできました。
腰の部分だけの乗客のシートベルトとは異なり、乗務員のシートベルトは車と同じ肩からになっているそうです。
またヘルメットをつけていれば頭頂部の破壊を防げた可能性のある遺体も多かったそうです。
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