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使徒の働き13章

2018年03月16日 07時00分55秒 | 使徒の働き
使徒の働き13章以降は、パウロの伝道旅行のように思われるが、実際には、アンテオケ教会の宣教物語である。アンテオケは初代キリスト教史において重要な都市であった。エルサレム教会の最初の執事の一人はアンテオケの改宗者(使6:5)であり、アンテオケ教会は最初の異邦人教会となった。ステパノの殉教で、多くのキリスト者がアンテオケに集まり、ヘレニスト・ユダヤ人ばかりかギリシア人にも宣教して新時代を画している。イエスの弟子たちはこの市で初めてクリスチャンと呼ばれるようになった(使11:19-26)。またこの教会はパウロのチームを3度の伝道旅行に派遣した。そして、エルサレム会議に異邦人回心者の割礼の問題を提起して、ユダヤ主義に対する勝利を勝ち取っている(使15章)。
ともあれアンテオケ教会は、パウロの一向を祈りと断食によって送り出している。もはや迫害によって否応なしに散らされた結果、宣教が広まったというのではなく、この時から教会は、聖霊に導かれて明確な意思決定のもとに戦略的に宣教を進め、その報告会まで行うようになった。しかも、パウロは、次から次へと新しい宣教地へ出ていき、みことばの種をまき散らすように宣教を進めたわけではない。教会は戦略的ではあったが、神ご自身が、それぞれの地域の必要に応じて、パウロのチームを留まらせ、移動させ宣教を適度に導かれていた。パウロ自身は、やむを得ない事情の起こらない限り、各地域にキリスト者の共同体の基礎がしっかり出来上がるまで一つの場所に留まって宣教をしようとした(使徒14:3、5-7、20)。今日キリスト教会がこれだけ発展したのは、彼が最初から、語りっぱなしではなくて、教会の基礎を築き、その地域に根付かせるように粘着的な宣教をしたためである。そして神がその粘着度を適度にコントロールし、次から次へと地の果てに至るように彼の宣教を導いたのである。私たちは神に大いなることを期待することはできる、しかし実際の働きにおいては小さなことに忠実であり、しっかり取り組まなくてはならない。教会を建てあげ、完成するように心を傾けた宣教をこそ神は大いに祝し、導いてくださり、さらなる責任を任せてくださる、と理解したいところであろう。
さて4節、第一回宣教旅行において最初に足を踏み入れたのは、バルナバの故郷、キプロス島である。キプロスは、コッパー(銅)を意味する。たくさんの銅が採掘され、幸せの島とも呼ばれた。実際、幸せな生活のために必要とする資源はなんでも手に入ったという。そんな事情からなのだろう、キプロスは、エジプト、フェニキヤ、アッシリヤ、ペルシヤ、ギリシア、ローマと様々な国々に支配されてきたため、様々な偶像が乱立していた土地でもある。そこで彼らの巡回の旅では、回心者は全く起こされなかった。失望的な宣教の後、いよいよ、悪魔的な力と遭遇することになる(6節)。魔術師エルマ(バルイエス)が、パウロに敵対し、総督セルギオ・パウロの回心を妨げようとしたのである。パウロは、この問題に真っ向から立ち向かい、主の力を証する。
 ところで、パンフリヤのペルガに渡ったところで、ヨハネ・マルコが、チームを離脱した(13節)。なぜ彼は途中で引き返したのか、いくつか理由が考えられている。一つは、魔術師エルマとの対決の後、リーダーシップに変化が起こったことである。パウロがチームのけん引役となった。ヨハネはバルナバの親戚であり、その事態に困惑したのだろう。二つ目に、パンフリヤは極めて困難の多い所で、沿岸部のペルガはマラリアを含む病気が流行っていた。パウロも実際にマラリヤにかかっている。その体調を回復させるために、ピシデヤのアンテオケ(高原地帯)へ向かったと考えられている。こうした宣教に伴う現実の苦労に、ヨハネは耐え難いストレスを感じたというわけだ。しかし、宣教は、人につく働きではない。神のご計画に参画することである。また、後にパウロがテモテに教え諭すように宣教に困難な働きである(2テモテ)。自分をささげきる心がなければ、困難も乗り越えられない。
 16節より、パウロの初めての説教が記録される。つまり、イスラエルの歴史(16-23節)イエスの働き(24-30節)信仰による救い(31-41節)という三つのポイントがある。つまり、イエスが約束のメシヤとしてダビデの子孫として来られたこと、イエスの生涯は、その預言の成就であったこと、これを信仰によって受け入れるべきことが語られている。同じイスラエルの歴史を振り返りながら、ダビデよりも、モーセに多く言及し、イスラエルの不従順を指摘したステパノのメッセージとは違う(7章)。また、同じダビデを扱いながら、イエスの復活を証したペテロの説教に、それは、旧約預言の成就を語り加えている(3章)。福音の内容が丁寧に語られる必要が出てきたのは、ユダヤに住むユダヤ人以外の、つまり離散ユダヤ人、ディアスポラの民や、ユダヤ的背景を知らない異邦人を相手にするようになったためなのだろう。
ともあれ、パウロは福音を語った。神は約束に従って、イエスによって人々を救ってくださる。モーセの十戒を守る、行いによる救いではなく、キリストの十字架の恵みを信じることによる救いが語られる(39節)。つまり、正しい者の義認ではなく、不誠実な者の義認である(ローマ4:1-8)。キリスト教信仰を持つことは、哲学的な思索をし何らかの悟りを得ることでも、精進して何かしらの人徳を身に着けることでもない。神が、正しくない私たちのためにしてくださった出来事に気づかされ、それを信じることにある。神の一人子が十字架につけられ、罪が赦された、また神はイエスをよみがえらせ、新しい命の希望を与えられた、その恵みのメッセージを受け入れることに他ならない。


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