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使徒の働き9章

2018年03月12日 07時35分50秒 | 使徒の働き
イエスが予告されたように、福音は、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで広められていった(1:8)。すでに8章で、ユダヤとサマリアでどのような宣教がなされたのかを見た。ここ9章では、いよいよ地の果てまで広められていくための立役者であり、別名パウロと呼ばれる人物がいかにして福音に触れたかについて、ルカは記録する。彼は、初めからイエスの信奉者であったわけではない。福音書記者が記したような素直な弟子たちではなかった。むしろ、イエスを憎み、イエスの信奉者を害虫のように見なし、駆除しようとした残忍な男として登場する。しかしそれにはサウロなりの理屈があったのだろう。当時ユダヤの最高学府で学問を身につけた人物からすれば、無学な漁師や女性たちを中心とする熱狂的なナザレ派の主張など耳を貸すようなものではなかったであろう。十字架で処刑されるような者は、神の呪いを受けた者であって(申命記21:23)、師と仰ぐような者ではなかった。ところが、このサウロの理屈を180度変えていく出来事が起こったのである。サウロは、イエスに直接出会う経験をしたのだ。彼は否が応でも、それまで否定し、敵対視していたキリスト者の主張を、受け入れざるを得ない出来事に遭遇した。彼は、キリスト者を弾圧することによって神に仕えていると信じていたのであったが、実はそうではなく、むしろ神に敵対していたことを認めさせられるのである。というのもイエスは死んだのではない、今尚、生きている。また、十字架につけられたイエスは、単純に神に呪われたのではない、私たちの罪を赦すために身代わりとなって呪われたのである、と悟らされていくのである。こうして、イエスに対する反対者であり、迫害者であったサウロは、イエスに従い、イエスを伝える宣教者となった。ユダヤの律法を厳格に守ることを教えるパリサイ人は、神の愛と恵みを体験し、神の愛に生きることを語っていくキリスト者となった。
なおサウロの回心は、非常に劇的で、今日普通の人が体験するものとは異なっている。直接神の声を聞いたり、神の臨在の光に包まれるような超自然的な体験もなかったりして、人は信仰を持つことがある。たとえばエチオピアの宦官のように、理知的に聖書を読み理解し信仰を持つ人もあれば、テモテのように家族3代に渡る従順な信仰継承者として信仰を持つ人もある。信仰の持ち方は人それぞれである。しかし、サウロの回心の本質的な経験は、神の家族として共有されるものがある。つまり、人は聖書を読むことで、自分の罪のために死んでくださったイエスの存在を知り、そのイエスにある罪の赦しを、信仰を持って受け入れる決断をしているからだ。
さてサウロを導いたアナニアの働きに注目しよう。聖書の中では、この箇所にのみ出てくる人物である。もし、サウロの回心という出来事がなかったら、アナニアは、教会史の中に埋もれていたに違いない無名の聖徒であった。しかし、教会史においては非常に重要な役割をはたしている。神は、サウロの回心のためにペテロでも、ヨハネでもなくアナニアを用いられた。そしてこのアナニアの信仰的な応答と従順がなければ、サウロの新しい出発もありえず、当時の世界の隅々にまで影響を与えた、サウロの働きもありえなかった。神は、最も影の薄い聖徒に最も重要な働きを委ねられたのである。アナニヤがいかに大きな働きをしたかを認めないわけにはいかない。神への従順は、私たちの著名度に関らず、私たちの想像を超えた未来を切り開くことになる。1855年エドワード・キンバルという牧師は、一人の少年を救いに導いた。その少年こそ、後にムーディ聖書学院を開き、アメリカで実に大きな働きをしたD.L.ムーディだったと言われている。ムーディの働きは多くの人々の記憶に残ったが、キンバルの名は記憶されていない。だがキンバルは偉大なことをした。一人の魂をキリストに導くことは、決して小さな働きではない。私たちは、その結果を必ずしも知るわけではない。だが、そこに神の計画が計り知れぬ計画があることを覚えて、どんなに小さな働きであれ忠実に、信仰的に応答したいところではないか。全てキリスト者は、神の重要な働きを委ねられている。
さてサウロは、即座に伝道を開始した。これまで激しく迫害していたことから一変して、今度は、大胆にイエスキリストが神の子であることを宣言した。「かなりの日数がたち(23節)」、ここに、ガラテヤ1:15-17の出来事があったと考えられている。つまりサウロはアラビヤに出て行き、そこに再びダマスコに戻っている。しかし、ダマスコでの伝道(2コリント11:32)は妨げられ、サウロはエルサレム、カイザリヤ、そしてタルソに逃れていき3年が経過していた(30節)。
 9章終わりに、ペテロの活躍が描かれている。アイネヤとタビタに起こった主の奇跡である。「イエスがあなたをいやしてくださる」ペテロは、主の権威を強調した。「タビタ。起きなさい」イエスの生き写しであるペテロの姿がある。私たちは主のしもべであり、主の生き写しである。主の力が私たちを通して豊かに現される。だからこそ、私たちは祈らねばならない。主と交わらなければならない。主の足元に跪き、主の教えを乞い、主の御力を受ける、そんな時が必要である。主が生きておられればこそ、主の業をなす僕として、主と心ひとつにして用いられることを祈っていくこととしよう。




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