年金暮らしの自由人

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私の好きなアーチスト(ルイ・アームストロング)について(第10弾)

2010年06月01日 08時43分56秒 | JAZZ

LP、CDを合わせると、10枚程度所持していて、好きなトラッペッター及びボーカルの一人であるルイ・アームストロングについて簡略的に触れてみます。1 2 3 4  5

 

 

 

ルイ・アームストロング (Louis Armstrong, 1901年8月4日[1] - 1971年7月6日、69歳没)は、アフリカ系アメリカ人のジャズミュージシャンで、サッチモ(Satchmo)という愛称でも知られ、20世紀を代表するジャズ・ミュージシャンの一人です。

個人的にはエンターテイナーとしても尊敬する人物で、1970年代に英語の教科書でも紹介されています。映画界では世界的に有名なオートリー・へップバーンと並びサッチモ(愛称)は音楽活動で得た収入の一部を孤児院に寄付するなどで恵まれないアメリカの黒人の子供に大きな夢を与え社会的に影響を与えた人です。

サッチモという愛称は「satchel mouth」(がま口のような口)というのをイギリス人記者が聞き違えたとする説や、「Such a mouth!」(なんて口だ!)から来たとする説などがある。その他、ポップス(Pops)、ディッパー・マウス(Dipper Mouth)という愛称もある。

アームストロングが生まれ育ったのは、ニューオーリンズのアフリカ系アメリカ人が多く住む比較的貧しい居住区であった。子供の頃に祭りで浮かれ、ピストルを発砲して少年院に送られた。その少年院のブラスバンドでコルネットを演奏することになったのが、楽器との最初の出会いとなった。その後、町のパレードなどで演奏するようになり人気者となる。

1923年、シカゴに移りキング・オリヴァーの楽団に加入。同年、初のレコーディングを行う。1924年にはニューヨークに行き、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に在籍。この時期、ブルースの女王ベッシー・スミスとも共演。その後シカゴに戻り、当時の妻リル・ハーディン・アームストロング(ピアノ)らと共に自分のバンドのホット・ファイヴを結成。同バンドが1926年に録音した楽曲「Heebie Jeebies」は、ジャズ史上初のスキャット・ヴォーカル曲として知られる。

1930年代にはヨーロッパ・ツアーも行う。第二次世界大戦時には慰問公演も行った。しかし人種差別が法的に認められていた当時のアメリカでは、公演先でも白人と同じホテルへ泊まれない他、劇場の入り口さえ別々というような差別を受け続けた。
1950年代には「バラ色の人生」や「キッス・オブ・ファイア」等が大ヒット。また、1953年には初の日本公演を行う。1956年にはエラ・フィッツジェラルドとも共演。1960年代、時代がビートルズを代表とするポップ・ミュージック一色となる中でも、「ハロー・ドーリー」はミリオン・セラーとなり、多くのアメリカ国民に受け入れられた。

1967年には、「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」が世界的なメガヒットとなった。1968年にはウォルト・ディズニー映画の名曲を取り上げたアルバム『サッチモ・シングス・ディズニー』を発表し、ジャンルに縛られない柔軟な姿勢を見せ付けた。

高い音楽性と、サービス精神旺盛なエンターテイナーぶりが評価され、映画にも多く出演した。代表作はフランク・シナトラやビング・クロスビーと共演した『上流社会』や『5つの銅貨』、『ハロー・ドーリー』等が有名です。