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芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

カーネへリーKanheri石窟寺院

2012年12月23日 | Weblog
20日、朝食後、インド中央鉄道の一番近いByculla駅にホテルで教えられた通りにタクシー代60ルピーで行き、階段の上り下りもせずに1番ホームに入れた。ところが、確認せずに乗ったために、電車が途中駅止まりで、結局乗り換えに階段の上り下りをする羽目になった。私も初めて降りるターネ駅に着くと、ここも1番線でそのまま駅の外に出られた。デリーのホテルとは関係ないらしいが、同じ名前のAlkaホテルに投宿した。明早朝アジャンタに行くのに7時発のゴーラクプル急行に乗るため、Thane 駅前のホテルを選定したのだ。荷物が多いのに、このホテルの4階迄の部屋には、エレヴェータがなく、外出には階段の上り下りであり、外国人の泊まり客に慣れていないせいもあり、旅券を3度も出させられた。ここからオートリキシャでサンジャイガーンディー国立公園に行ったが、公園の反対側にあるボーリヴィル駅側迄走ったので、片道400ルピーにもなった。グーグル地図ではターネ側からも道があるので入れると思ったのだが、入園料30ルピーを払うとき確認したら、ターネ側からは入れないことが分かった。公園内にはオートリキシャは入れないことも分かったので、オートリキシャは返し、片道30ルピーのバスで公園中央部にあるカーネへリーKanheri石窟寺院に行った。第1窟は立派な石窟寺院が残っていて、彫刻の保存状態もいい。2窟は見るべきものがないが、3窟も良く、そこから後ろの山の上に登った。37窟のあたりは、保存状態が良い上に、石窟入り口の天井に赤い絵の書きかけの仏陀像の下絵があった。
石窟寺院を背景に映画の大掛かりなロケーションがあり、真っ白なサーリーを着たきれいな女優が撮影されていた。
公園の門の向いからバスが出ていることが分かったので、ターネに大人一人28ルピー、3歳以上の子供は半額のバスで帰れた。インドでは、汽車は5歳以上の子供は有料である。飛行機は、1歳迄の子供はわずかな料金だが、2歳以上は、大人並みである。
夕食は、ホテルの向かいのケンタッキーフライドチキンでハーバーガを食した。ムンバイ郊外のターネのレストランはワルダと違い、電気も明るく、客層も都会ッ子で賑わっていた。


ムンバイのタクシー代

2012年12月19日 | Weblog
Hotel Balwas Internationalは、有料か無料か分からないが、部屋でインターネットが出来ることが分かった。ただ、そのワイファイのアンテナが、廊下にあるため、直ぐ、切れてしまい、その度に、支配人に電話したり、1階迄行って、支配人に頼んだりであり、ワイファイは使えるのだが、それほど、好調ではない。私が、古い客で、特別に使わしてもらっているのかもしれないが、デリーのパハールガンジのホテルはどこもワイファイが無料で使える。南インドはまだそこ迄行っていないようだ。
昨日、エレファンタ島から、GATEWAY OF INDIA に戻り、クロフォードマーケット迄タクシーで行ったら、そのタクシー代は、200ルピーであった。あさの100ルピーで乗ったのに比べ、距離はもっと短いのに高い。食料品を売っているクロフォードマーケットで買い物してから、ホテル迄帰るのに、タクシー代は、やはり、朝よりは、近いのに、150ルピーであった。理由は込んでいるからだと言う。


インド人のほうが、かなり裕福になっている

2012年12月19日 | Weblog
Hotel Balwas International から、朝食後タクシー代100ルピーで、Gateway of India に行き、そこから、久しぶりにエレファンタ島に行った。2階建ての船は、150ルピー、平舟は、120ルピーである。2階建てのは、Gateway of Indiaの真ん前から出ていたが、脇から出る120ルピーのに乗った。ところが、なかなか人が乗ってこず、その間に2階建てのは、次々と一杯になって出て行った。50分ほど待ってやっと出た。帰りも同じで、2階建てのが一杯になって次々と出て行ったのに、やはり、50分ほど待たされて、一杯にはならないまま出航した。2階建ての船の係に30ルピー余計に払えば、直ぐ出るから乗せてやると言われたが、それなら、最初から150ルピー払って乗ってくれば良かったのであって、今更、変更するのはいやなので、誘いには乗らなかった。
2階建ても、乗っているのは、殆どインド人で、平舟は、中国の上海から来たという若い女性二人と私等の外国人で、昨日迄大学宿舎で一緒だった、イタリアからの留学生もたまたま、一緒であるから、私たち外国人よりインド人のほうが、かなり裕福になったということだ。

汽車に飛び乗って買ったばかりのサモサを落とす

2012年12月18日 | Weblog
昨夜、いつものオートリキシャを呼んで、ワルダ駅迄乗った。最近、宿舎の他の留学生に乗車代を高くふっかけているそうではないかと、たしなめて、先日は、オートリキシャのマハーラーシュトラ州のストライキの時、私が乗ったのに対して、ストライキで違反すると罰金を取られるからと、いつも200ルピーのを300ルピー取ったではないかと云い、今日は、150の所100にしておくように要求したら、なんだかんだと言っていたけれども110ルピーで折り合った。
夜行列車で翌、18日にムンバイ近いナーシクで、汽車から降りて、サモサを買っていたら、汽車が走り始め、あわてて、走りながら閉まった戸を開けて汽車に飛び乗ったら、40ルピーで4つ買ったサモサのうち3つを床に落としてしまった。やむを得ず、それは、外に蹴落として、一つだけ食べた。ナーシクは、12年に一度クンブメーラーというお祭りをする所で、葡萄の有名な所であり、車中からもその葡萄棚がたくさん見られたので、停車時間が長いと思ったのが間違いの元であった。失った30ルピー分のサモサの元を取る為に、いつもなら、チャトラワースシヴァジー駅迄乗って行くのをBalwas International Hotel に近い、ムンバイ中央駅で降りることにして、ダーダール駅で乗り換えた。ところが、Mumbai Central 駅は、西武鉄道の駅だということで、一旦駅の外に出て、西武鉄道のダーダール駅駅迄少し、階段等歩かねばならなかった。スーツケースがあったので、その重い荷物をたんがいて、というのは、田舎の言葉であって、よいしょと持ち上げて、ムンバイ中央駅でもたんがいて階段を上がらねばならなかった。それでもそこからホテル迄は、なんと、30ルピーのタクシー代で、ワルダでも考えられない安さであった。これで、サモサを落とした悔しさは解消。


政権交代からの逆戻り

2012年12月17日 | Weblog
民主党が、昨日の衆院選で惨敗である。前回衆院選で圧勝して、政権を取ってから、その一番の実力者、小沢一郎をこき下ろして、労働組合の勢力争いを国家の舞台に持ち込んで、権力闘争に終始した結果であるから、敗北して当然だ。
四国や東京からのその権力闘争の張本人たちも落選したらしい。
なんのための政権交代か分からないままで逆戻りである。
がっかりした人達は、選挙に行かなかったであろう。
自民党は圧勝であるから、尖閣諸島問題で煽った中国批判の鉾先をどうするかによっては、日中関係がさらに悪くなるかもしれない。
日本を将来どうするかという視点に欠けたままでは、国家の方向性も決まらず、ずるずると行くしかなく、これで一件落着とはならないであろう。
こういう結果を喜んでいるのは、米国知日派という人達だけである。

留学生が少しずつ減って行く

2012年12月16日 | Weblog
昨日、ドイツからの留学生が、ここを引き払って、プネー大学に行くのを見送った。一昨日は、ベルギーから来ていた女性留学生が、三ヵ月のヒンディー語研修を終えて、帰った。今、イタリアから、5名ほど三週間の研修に来ているが、その学生達には、授業をして、中国や日本人には、授業をしていないし、まともに取り合わないと言う。それは、インドが、長いこと英国の植民地だったため、白人コンプレックスがあるからであると、説明して上げた。
我々東洋外国人に対しては、アウトカースト並の対応で、白人の話しは、よく聴くというのだ。シラバスもなかったのに、ドイツ人留学生が、自分のヒンディー語自習本を提示したら、たちまち、その自習本を教科書にしたのだ。昨日、ドイツ人留学生は、別れ際に、ここは周りの環境は良いが、勉強するところではないといっていた。プネー大学の入学手続きを済ませて、数日前に荷物をとりに帰って来た。彼は、授業料を毎月払いにしているから、12月まで払って、ここを辞め、プネー大学で学ぶことにしたのだ。弘前大学から来ている留学生は辞めたくても、1年間前払いさせられたから、辞められずにいて、語学部の悪口を言いながら、やむを得ず居残っている。
私は、明日からムンバイに出て、アジャンタ、エローラ、ハイデラバードに行く。明日の汽車が一緒なので、大学の車が出るならそれに一緒に乗りたいとベルギーのもう一人の留学生に言ったら、責任者の教官とあまり話したくないから、車のことは分からないと言う。そして、私に聞いてくれと言う。私は、オートを頼んであるが、大学側が、学生にジープを出すなら、それに同乗させてもらい、オートを断ろうと思うのだが、どうなるやら。

『竹取物語』の書かれたか背景

2012年12月15日 | Weblog
『竹取物語』の書かれたか背景については、このブログの欄で、1995年9月初旬に三回に亘って『あとがき』風に書いている。
天智天皇と中臣鎌足の関係についてや、壬申の乱で、勢力図が変わって天武天皇の時代になり、その正当化のため、『日本書紀』が書かれていることなどである。
かぐや姫に求婚する王子達は皆、その壬申の乱の功労者達の名前であるが、物語の中では、皆茶化されている。

宮崎駿アニメ新作「風立ちぬ」と高畑勲監督のアニメ映画「かぐや姫の物語」の同日公開

2012年12月14日 | Weblog
斎藤攻兄から、来夏、宮崎駿アニメ新作「風立ちぬ」と高畑勲監督のアニメ映画「かぐや姫の物語」の同日公開されるという情報をメールで教えてもらった。
宮崎駿作品については、知っていたが、高畑勳アニメ作品と同日公開というのは初めて知った。
私の一連の『現代語・ヒンディー語訳・竹取物語』デリーで出版の『竹取物語』ヒンディー語訳、それに、今回、デリーで印刷した『竹取物語』ウルドゥー語訳を念頭に、教えてくれたのであろう。
私の最初の現代語・ヒンディー語訳・竹取物語』が2004年であるから、それから9年経って、リヴァイヴァル・ブームになるということだ。
『竹取物語』は当初から、『かぐや姫の物語』ともいわれていたことは、『源氏物語』の中で書かれている。しかも、単なる、子供の絵本とは違うことは、壬申の乱に関心がある著者が、それを遠回しに批判していることで分かる。高畑勳アニメ作品がそれをどう表すか、興味持たれる。

ラヴィシャンカル逝く

2012年12月13日 | Weblog
ラヴィシャンカルが、亡くなった。今朝のマラーティー語新聞一面に大きく載っていた。
新宿厚生年金ホールにその演奏を聴きに行ったことがある。
彼の晩年、と言っても20年くらい前になるか、高柳さんがNHKに勤めていて、ラヴィシャンカルを取材したいので、私がインドに行った時に事前取材して来て欲しいと言われ、デリーの家に行って彼と逢った。若い奥さんとその娘さんがいて、奥さんは彼の仕事の面倒を見、娘さんにシタールを指導していた。デリーとロンドンの間を行き来していて、丁度デリーにいる頃だった。
しかし、今回の報道で、彼が米国サンディエゴの病院で亡くなったことを知った。植民地インド人の彼に取って、宗主国英国よりは、米国のほうが住み良かったのだろうか。合掌

どんな就業条件になるか

2012年12月12日 | Weblog
13日迄試験休みらしく、学生達ばかりでなく教師達も、殆どいないようだ。
現在、ナーガールジュナ宿舎の食堂が、催亊で来ている人に占拠されていて、我々は、以前の食堂で食べるようにいわれて、Father Camil Bulcke 宿舎の食堂で食べている。そこでは、留学生が特別室で食事しているが、食堂を移るように言われて来ているほかのインド人がまだ非常に少ない。私は、インド人並みの食事であり、給与は、インド人以下である。私が旅行に行く時は、全部持ち出しであるが、インド人は自前で旅行に行ける余裕がある。
出版社勤務の時は、それなりの給与で、休日は、全て、インドのことに費やしても余裕があったが、今は、インドのことに持ち出しで費やしている。今、声がかかった次の就職先、インド情報技術デザイン、製作、ジャバルプル校は、どんな条件を出してくるか。日本政府がこの学校に支援をしていると言うが、金を出し惜しみしていれば、私の就業条件も悪いであろう。兎も角学校からは、かなり遅れてしかも悪条件を提示して来るのではあるまいか。