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芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

前九年の役

2006年07月22日 | Weblog
『陸奥話記(むつわき)』に安倍忠頼、忠良、頼良という俘囚の氏族が陸奥に善政をしいて三代、百年にわたって栄えていたという。安倍氏は、元々が、国司からは独立的で、多賀城の国府から郡司に任じられてはいたが、陸奥六郡に柵(さく)という城を造って一族で支配していた。多賀城の守、藤原登任(なりとう)は、国府に税を納めず、労役もつとめない安倍頼良を出羽の秋田城の介、平重成(たいらのしげなり)を先鋒にして攻撃したが、宮城県北部の鬼首で敗れた。
朝廷は平忠常の乱を収拾した源頼信の嫡子、頼義を永承六年(一〇五一)陸奥守に任命した。ところが、上東門院藤原彰子の病気平癒祈願のため大赦が行われ安倍頼良も許された。感謝した安倍頼良は源頼義と読みの同じ頼良の名前を頼時と改めて源頼義に帰服して、鎮守府将軍として胆沢城の鎮守府に来た頼義に駿馬、金宝を献じて仕えた。
源頼義はその射芸にゆえに、忠常の乱の追討使、平直方(たいらのなおかた)の娘婿にむかえられている。それにより、逢坂の関の東、関東の武士団が頼義に帰順するようになった。頼義は、陸奥の守についたので、陸奥においても武士団の棟梁としての地位を確立しようとしたらしく、部下の藤原の光貞・元貞が夜襲をかけられたのは、光貞の妹を妻に求めて、俘囚という卑しい地位ゆえに断られた貞任の仕業であるとでっち上げて、頼義は頼時・貞任父子と戦いの火ぶたを切った。頼時は戦死したが、貞任・宗任兄弟の活躍で頼義は苦戦を強いられ、出羽の俘囚の主、清原光頼・武則兄弟の加勢を得て、盛岡に近い安倍氏最後の拠点厨川の柵に追いつめ、貞任は戦死、宗任ら一族は降伏してとらわれ、京都に送られた。頼義が安倍氏を挑発してから康平五年(一〇六二)末に至る八年の戦い、これが前九年の役である。