kouheiのへそ曲がり日記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

開化をもつことと開化されていること

2005-04-30 06:51:00 | 日記
野生の梨の木は、固くて味わえぬ酸っぱい実をつける。
これを園芸家が丹精をこめて、甘くておいしい食用の梨の実に栽培する。

これに対して、同じ梨の木から帆柱が作られた場合は、これを栽培したとは決して言わない。

両者の違いは何か。

つまり、前者の場合は人の手が加わっているとはいえ、結局梨の木が本来もっている自然の可能性を展開させたのである。

しかし後者の場合は、梨の木の本性には縁もゆかりもない目的体系から帆柱の形が付け加えられたにすぎないのだ。

これが人間の場合はどうか。

人間は、一人一人それぞれに、生まれながら魂を有している。
魂の本来の傾向にそって教育が施された場合、彼は文化的に開化されたといえるのだ。

これに対して、魂の本来の傾向とは無縁の目的体系から教育がなされ、彼の意識内部に知識なり道徳意識なりが植え付けられた場合、彼はなるほど開化をもつが、文化的に開化されてはいない。

日本の戦後教育においては、平等の強迫観念により魂の個性は無視され、開化されてはおらず、開化をもつにすぎない人間が大量生産されてしまった。

我々の課題は、自らの、そして未来を担う子供たちの魂の本来の傾向を見極め、一人一人の魂の自然的可能性を展開させる教育方法を見出すことだと思われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする