くらぶとろぴか

きもちはいつもシパダンの海の中。シパダンとコタキナバル旅の備忘録、ときどき弾丸、そしてホームワークアウトおたく。

いま、インド洋に思うこと~アンダマン海編

2011-04-27 22:43:07 | Weblog
2009年1月、生まれ変わったバンダアチェ
2009年1月、スマトラ島プラウ・ウェーへの行き帰りに、バンダ・アチェを通過した。
ウェーは日本ではマイナーだが、マレー半島あたりのダイバーにはメジャーなサイトだ。KLダイバーの、「ジンベイやマンボウがかなりの確率で出るらしい」、というふれこみで行ってみたが、たぶんそれは激レア。現地のダイブマスターの口から、そんな生物名はついぞ語られることもなく、普通に魚影の濃い、アジア特有の緑がかった海だった。まあ、シミランの延長線上にあるので、悪くはない。

アチェから高速船で約1時間のウェーでも、津波の被害は大きかったが、幸い、ほとんど死者は出なかったそうだ。
ダイビング・サービスのあるギャパン・ビーチというといころは、超質素でよいといころ。
ビーチにあるダイビングサービスや食堂は皆、津波後、頑張って再建したのだ。
今では、ニワトリがほっつき歩いていたりのどか。でも、このあたり、家の土台だけ残っているから、波で持っていかれてしまったのかもしれない。



私が使ったダイビングサービス「ルンバルンバ」も、2階まで浸水したという。
こちらも幸い、建物の外枠が無事だったものをもとに、修復したらしい。
この建物の2階まで、津波をかぶったのだ。


ウェーでは津波の年、レアなメガマウスシャークの子どもの死体があがったことがあり、また、ジンベイやマンボウの目撃例もあることから、そんなのミラクルだとは思うけれど、はかりしれない可能性を感じる。と同時に、メガマウスなんて、本来、北海とか寒いところにいるものなのに、それがまわってくること自体が、天変地異の前兆だったんじゃないかなんて、かんぐってしまった。

ウェーで同じボートだった大陸系の人々は、興味津々でアチェのツナミ・モニュメントに出かけていった。
でも、私は、MAYAT DI BAWAH(まや・でぃ・ばわ)、「下に遺体」と書かれている船を、レジャーの帰り足に「ついで」に見にゆく感覚が、無頓着というか、無神経に思えた。捜索されないままの人びとが、そこに埋れたまま眠っているのだから。それに、ツナミモニュメントに行かなくたって、津波にやられたことが一目瞭然の場所も、まだまだ残っていた。それでも、アチェの復興には10年はかかるだろうと言われていたのに、4年後にしては、たいした再建ぶりだと私の目は映った。海に近づくと、まだ舗装がすんでおらず、砂利を敷いただけの道になっていて、護岸は整備されたてのようだった。堤防やテトラポットが、その新しさゆえに無機質に白っぽく、まわりの景色に溶け込まない妙な違和感があった。それはその場所に、以前あったものが根こそぎ失われてしまったことを明確に物語り、喪失感が漂い、不気味ですらあったが、これも再建できたからこそ。街中は、街路樹の緑と人びとの活気にあふれ、車も多く、活気のある東南アジアだった。

スマトラ沖地震とインド洋大津波が襲ったとき、アチェは、インドネシアからの独立をめぐっての長い紛争のさなかだった。地震と津波で壊滅的被害を受けたあと、人々は、争うことよりも、和平の道を選んだ。日本の外務省の安全情報も、以前の「渡航の延期をおすすめします。いつでも退避できるよう準備をおすすめします」から、「渡航の是非を検討してください」に引き下げられた。まだまだ安心できる響きではないけれど。

先日の産経新聞に、「6千キロのかなたから復興祈る 傷跡残るインドネシア・バンダアチェ」という記事が出ていた。 
日本の津波のニュースで、アチェの人びとに6年前のトラウマが甦ると同時に、日本の復興を祈ってくれている。そして、その記事の最後は、「津波で多くの住民が死んだ。また独立紛争となれば、多くの人が死ぬ。平和な方がいい」というアチェニーズの言葉で閉められていた。アチェは大惨事を乗り越えて、かつてよりも、よいアチェわりつつある。

2010年 南インド
昨年、ゾウと泳いだインド領アンダマン諸島は、インド洋大津波で地図の書き直しが必要なほどだったという。このインド領に行くゲートウェイとして通過したインドのチェンナイも、海岸線が変わるほどすさまじい被害だったそうだ。アンダマン諸島は、ポートブレアでも、津波の話はまるで聞かなかった。WW2では日本軍が上陸したってのは聞いたけど。それにクルーズに乗っている限り、何もわからない。チェンナイはゴミゴミした大都市で、唯一下車したのが広大なマリーナビーチ。そこはローカルでにぎわっていて、そんな大惨事があった場所だなんて、思いつきもしなかった。津波があったことを知ったのは、バスがビーチ付近のスラムを通ったとき、まるで半壊したかのような灰色の集合住宅が、上半分と下半分で変色してるのを見て、「あっ!ここもインド洋だから、このスラムの人たちは、被災したんだ!」と見た瞬間にわかった。チェンナイが、自動車産業やIT産業で栄えていることや、モルディブやアチェがきれいになっいることを思うに、そのスラムだけ、時がとまってしまっているかのように見えた。生活が改善しない人びと。それでも、そこの人びとは、貧困の中、たくましくやっているように見えた。

2011年 そして日本
あの日、会社の休憩室で先にテレビを見ていた人から、「東北がスマトラのときみたいになってる!」という言葉を聞いても、映像を見るまでは、現実のこととしてとらえられなかった。私がテレビの前に行ったとき、海岸近くに建った、ダイビングフラッグの書かれたブロック塀が、波に呑まれてゆく光景があった。それをただただ、オンタイムで呆然と眺めるだけだった。
私たち日本人は、子どもの頃から、地震や津波のリスクについて教えられてきた。あってほしくない、と願いつつ、いつあってもおかしくない、とも言われてきた。それでもまさか、スマトラほどの規模の天災が、日本にふりかかろうとは…
今年はモルディブ、去年は南インド、おととしはバンダアチェ。なぜか3年連続で、インド洋大津波の跡を訪れていた。私は、津波の被災地の復興後といった、上っ面しか見てはいないが、アチェの立ち直りを思えば、日本の復興はきっと早いと確信した。3月11日には。
ところが原発問題が発覚して、その期待は大きく揺らいだ。
いまも一進一退。
放射性物質は、北米を越え、グラスゴーでも観測された。
外資系航空会社のフライトの多くは、香港やソウル経由になったり、運休になった。
日本からの到着便や旅客に、放射能のスクリーニングを行う国が多という。
ヨーロッパの取引先へ出張しようとしたら、先方から「日本は汚染されているから来るな」と言われた人もいる。
原発はエコだと推進してきたものが、すっかりHAZARDOUSになってしまった。
万が一原発事故が起きれば、取り返しのつかない危険なもの、という認識を、小さい頃から漠然と持っていたので、おそれていたことが現実になったという思いだ。
危険区域の人々、置き去りにされた家畜やペット…。
万が一のことが現実となり、どれだけの人びとの生活や健康、動物の命が脅かされていることか。
環境省の試算によれば、風力発電で原発40基分の発電ができるということで、「へ?」という感じだ。
なんで、最初から風力にしてくれなかったの?
過去に原発を推進した政治家、その人たちを選挙で選んだのも国民ではある。
風力発電は、短期的にはむずかしいとは言うけれど、最初からこっちに力を入れてりゃ、今頃は、エコ・安全な電力供給源になってたかもしれないのに。必要は発明の母と言うし。それに、東京電力の請求書には、たとえ微々たる負担でも太陽光促進付加金もしっかりとってるんだし、なぜ原発が選ばれてしまったのだろう。
汚染水垂れ流しで、根つきの魚だって、通りかかるイルカやクジラだって、海洋生物たちは、そこが汚染水域だなんて知らない。そして、海洋生物といえば、震災から1週間ほどたった頃、「福島の水族館で魚類など絶望」という記事が出ていた。いわき市小名浜の「アクアマリンふくしま」では、電源設備が水没し、電源の燃料がつき、サカナは徐々に弱って死んでいる、海獣系は他へ避難させたものの、魚類や植物22万点がこのまま死ぬ可能性が強い、ということだった。また、「マリンピア松島水族館」では、地震でポンプが故障し、水質悪化と温度調整ができなくなったがために、コマッコウとマンボウとビーバーが死んでしまったという記事を見て、水族館がますますいやになった。いまは、ペンギンが生まれただの、避難先の新潟の水族館で、タツノオトシゴが生まれただの、おめでたいニュースにわいてはいるが、複雑である。

一方、この原発事故がレベル7となったものの、ホワイトデーの頃よりも、東京の人びとは、目に見えない放射性物質に対して、神経質でなくなっているように思う。雨の中、ランニングするサッカー部の高校生の一団、雨に打たれながら区議会戦の候補者が、駅前であいさつ…。みんな風評にすぐに踊らされるが、なれるのも早いもんだ。


Japan, you need a break!
先日、Air Asiaからこんなメールが来た。
羽田→KL片道16,000円のスペシャルプロモーションだった。
今週は、TO JAPAN WITH LOVEというプロモーションで、KLまで片道15,000円というのが来た。
それこそ、バンダアチェに行ったときにしか使ったことのないAir Asiaであるが、Air Asiaが運航を開始して何年かは、0リンギットのプロモーションがよくあったので、インフォメーションメールは受け取るようにしている。会社が成長し、大きくなった今では、フリーというのはみなくなったけど。ちなみに、マレーシアから日本へのボランティア隊は、Air Aisiaでやってきた。

あの日以来、船酔いも窒素酔いもせず、二日酔いだってめったにしない私が、地震酔いになった。
日々、空を見ると、曲がってしまった東京タワーのアンテナにブルーになる。
自粛モードの今の日本では、このAir Asiaのメールをよしとしない人もいるかもしれないが、私は激しく同意する。
被災地でなくても、長引く余震の不気味さと、次々と問題が露見する原発事故への健康不安で精神的に疲れている日本人。雇用だって先がみえず、不安だらけだ。自粛と過度の節約から、倒産したり、危機にたたされてた企業も多い。今、BREAKをとれる時間と財力がある人は、BREAKしたってよいと思う。リフレッシュしたら、仕事がある人は仕事して、少しでも日本経済に貢献して、ボランティアする人はボランティアするもよし、ゆとりのある人は、寄付をすればよい。私は、iPhoneアプリの購入金が義捐金になる程度の寄付しかできないけれど。iPhoneアプリは義捐金にもなるし、趣味と実益。一石二鳥。

東京は、駅が暗いことくらいをのぞいては、以前とあまり違いを感じなくはなった。
これまで東京の駅は明るすぎた。
ヨーロッパの地下鉄に乗ると、本当に日本の照明はムダだと思う。
なにしろ、国鉄ナポリ駅からチルクムベスビアーナ鉄道のナポリ駅の間のコンコースなんて、「清水トンネルの中?」と思うような感じだった。
むだなネオンを減らして、東京で星のひとつも多く見えるようになればいい。
震災と原発事故の、あってはならない大惨事の中で、転んでもただでは起きない精神で、少しでも、プラスの要素を生み出せたらと思う。今回、節電意識が高まり、そう生易しくはないが、温暖化に少しでも歯止めがかけられればよいと思う。

今年も桜は咲いた。
ブルーシートが敷き詰められ、酒臭くない公園のほうが、快適に散歩できた。
ただ、ブルーシートで場所とりをしている人をたまに見つけると、毎年あるはずの光景にほっとしたのもまた事実。
そして桜は散り、新緑がうりうりしている。
ツバメもちゃんとやって来た。
今週末はもう、ゴールデンウィークだ。
旅行業界と自分のため、私は例年どおり、旅に出る。
ただ、震災や原発事故の影響でフライトがキャンセルになったり、いまだバタバタしている。
去年は混雑しすぎててとれず、今回は、おそらく集客不足でフライトキャンセル…。

天災なんて、ないのがいい。
でも、誰もが悪夢であればと思っていることが現実である以上、かつてのアチェやモルディブが、立ち直っただけでなく、むしろ、かつてよりよくなりつつあることに希望を見出していきたい。
余震よおさまれ、そして、原発問題を乗り越え、一刻も早く、復興できますように。

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