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季節の変わり目

2010-10-04 15:56:30 | 日記
1994年8月に渡米してきた時には、日本に比べて湿度が低く気温もそんなに高くないと感動したものだが、2週間ほどして8月後半に入ると朝夕の冷え込みが思ったより厳しい。
セーター無しでは外を歩けない、と慌てて服を購入したことだった。
日本から送った秋冬物は、まだのんびりと船便で太平洋を渡っていた頃の話だ。

それに比べて、今年は9月いっぱい暖かく、ようやく昨日の朝(9月3日)から秋らしく冷え込んできた。
今日は家の暖房が日中から入ったくらいだ。
ニューヨークでは室温が基準値を超えて下がるのが違法なので、自動的にセントラルヒーティングのスイッチが入る。

今年の初夏は気温が低く、冷夏を予想していたが見事に外れた。
残暑も厳しく、玄関脇に毎年植えている花が今年はぐったりしていた。
今年は庭の菜園にナスとバジルを植えたが、トマトとキュウリにしておけば良かったと後悔した。
これも地球温暖化の影響だろうか。

そう言えば、二酸化炭素の排出と地球温暖化の関連を必要以上に強調した(科学的な基準で言うと虚偽の記載)というスキャンダルが新聞を賑わしていた。
地球の温度が上がったり下がったりするのは当然のことで、これまで何度も氷河期が存在したと多くの科学者が信じている。
さらに、現在よりも地球上の平均気温が高かった時期も数多くあったと推定されており、地球温暖化がこの世の終わりとは思えない。
ただ、人間の活動が地球環境に影響を及ぼしている事実をどう判断するかの問題だ。

これまでも地球上の生物が地球の環境を大きく変化させてきた。
元々地球上にはこれほど大量の酸素は存在しておらず、光合成を行う生物の活動によって蓄積されたものと考えられている。
地球環境が生物の活動で大きく変化した例だ。
善悪はどう判断すればいいのだろう。

人の活動も同様に地球環境に変化をもたらしている。
他の生物の受ける影響は甚大だ。
これだけ爆発的に人口が増加すれば、環境を変化させる速度が早くなるのは不可避だ。
ましてや、多くの発展途上国の人々が、いわゆる先進国の人々のような生活を目指している。
この要因を考えたら、京都会議での努力など全く無意味に見えてくる。
だからといって貧困にあえぐ彼らに今のままの生活を変えるべきだないと誰が言えよう。
言い換えると、既得権を有する社会(Population)が、これから発展しようとする国々に制限をかけることは倫理的に許されるのだろうか、という疑問を持つということだ。

Tragedy of the commons (コモンズの悲劇)が避けられないのは各種実験(社会実践或いは思考実験)で明らかとなっている。
地球資源を Commons と捉えるならば、conservation (資源保護)の為の規制が必要となってくる。
これまで無制限な消費を楽しんできた国や人がこの理由で資源保護のための規則を作る、という動きに違和感を覚える。
倫理的におかしいと感じるからだ。

一方、地球資源には限りがあり、このままの勢いで人口が爆発すれば、地球資源、特に biodiversity (生物多様性)の維持にとって、最大の障害となるだろう。
地球温暖化を防ぐために二酸化炭素の排出規制が必要という論理は、問題の本質に目をつぶっているとしか思えない。
もっと人口増加の弊害を叫ぶべきではないか。

さらに、この温室ガス効果については三つの問題がある。

一つは科学的根拠。
公表されたデータは、彼らの主張を正しく見せるために手が加えられている。
座標軸のゼロを省くなんてことは、まともな科学論文では考えられない。
データ捏造も厭わない人々が発表した論文がどれだけ信用できるだろうか。

二つ目は、現状の地球の温度変化はこれまでの地球の歴史から見て特別なものではないという事実。

最後に、実効上の問題。
京都議定書に記された規制が実行できたとして、長期的に実効性はあるのだろうか。
人口増加の勢いは止まろうとする気配すらない。
この状況でどれだけ二酸化炭素の排出を抑えていけるだろうか。
これは規制が必要かどうかという議論とは別物だ。

こうやってみてくると、自制の利かない数の増加という問題を抱えたヒトは、まさに地球上のがん細胞である。
自ら滅びるとも知らずに地球を食い尽くしている。
前例もある。
イースター島だ。