ある日、だれかにふとめぐり合って、その人を愛するようになると、のどの渇いている者が水にしがみつくように、やたらに執着するようになってしまう。執着すれば、苦しみをまぬがれるわけにはいかない。だから、執着心から生じる過ちや患いをあらかじめ見透かして、犀牛のように何ごとも単独で行うのがよい。
ある日、だれかにふとめぐり合って、その人を愛するようになると、のどの渇いている者が水にしがみつくように、やたらに執着するようになってしまう。執着すれば、苦しみをまぬがれるわけにはいかない。だから、執着心から生じる過ちや患いをあらかじめ見透かして、犀牛のように何ごとも単独で行うのがよい。
たとえ他人にとってはいかに大事でも、他人の目的のために自分本来のつとめを捨て去ってはならない。人間は自分の最高の目的を見きわめて、自分のつとめに専念しなければならない。
頼りになるのは、自分自身だけである。自分自身のほかに、だれが自分の救護者になりえようか。われわれは、よく整えられた自分自身の中にこそ、自分の救護者を見出さなければならぬ。
ちょっとした気の緩みが身を滅ぼす。足ることを忘れ、欲に変ったときが危険である。人間の欲望は余りにも強いからであろう。
心の中から湧き上がってくる欲望はなかなか抑えるのが難しい。心の働きを抑制することがこれ程までに困難なものとは想像することさえできなかった。元気で心健やかに過ごせることが最高の喜びのはずなのに。
人間の不完全さは心の働きをなかなかコントロールできないことだ。心が乱れても直ぐに平静心に戻せるようにすることだと頭で分かっていてもなかなかできない。別の方向に意識が移り、平静心を取り戻すことを忘れてしまう。
人間とはなんと哀れな動物なのだろうか。
人間はバランス感覚に優れた生物です。何かを求めているときには、その何かが自分に不足しているからです。今のように不安定な時代には人は安定を求めたがります。安定した職業、給料、待遇などです。しかし、そんなものは幻想にすぎないのです。
物質的な物事は常に移り変わっていくものです。物を信じていると物に裏切られます。真の安定は自分の中にあるのです。自分の力を信じて、自分の可能性を引き出していくことです。なかなか難しいことですが、自分の内面に価値を問うとき、はじめて扉が開かれるのです。自分の状況が変らなくともあきらめないで進むことです。
人はなぜあら捜しをするのが好きなのだろうか不思議に思う。嘘をつくことは善いことではないが、馬鹿正直も困ったものです。人の欠点を見つけては、そのことをすぐに相手に話す人がいます。困ってしまうのは話している本人が正しいことをしているのだと思っていることです。相手を思うまごころがあれば、相手の心を傷つけるような話し方は避けるようにするのだが。人は欠点を指摘されるよりも、善いところを褒められるほうが気分もよいものです。欠点を探すことに慣れてしまうと、善いところを見つけ出そうとする意欲が減退してしまうようです。思ったことを正直に話すことも大事ですが、相手のことを思って話さないようにする心持も大切だと思います。また、人の善いところを見つける能力を高め、褒めることを心がけたいものです。
街中を歩くと、人間が考えたモノで溢れています。人間が想像したものを形にしたビルディングが建ち並び、人間の視界に入ってくるのは、広告で一杯です。赤・黄・白・黒・緑の縁取りと文字で埋めつくされた、看板、旗などの広告が目に入ってきます。電柱にも広告が貼ってあります。電車に乗ると社内広告があり、車窓を見れば広告が目に入ってきます。何か買わなければいけないのかという衝動に駆られます。大量生産大量消費の時代は終わったのですが、これほどまでに消費を促すモノはないです。
街中には街路樹が植えてありますが、全体に占める割合が少ないのでしょう。視界に入ってこないのです。人間が作り出したモノは心温まる安らぎを与えてくれないのでしょうか。人間が作り出したモノは、地球にある自然のモノを使っていますが、何故か安らぎを与えてくるものがすくないように思います。不思議です。街中には公園が作られ、樹木や花が植えられ、噴水などの構造物も作られています。しかし、郊外の自然のような安らぎが感じられないのです。人間が考え、形にしたモノのためなのでしょうか。
人間が考え、形にしたものでも、旧藩主の邸宅などを公園とした古いものには心を和ませてくれる何かがあります。自然とともに生活するという考え方がそこにあるのかもしれません。自然の姿をそのままにして、その中に人が考えたモノをひっそりと配置するという心遣いが働いているのかもしれません。
誰もが喜ぶことができるのは褒められて嬉しいと感じるときだと思います。また、人が嬉しいと思ったその表情をみるときも嬉しいものです。
人はやらされていると感じればストレスとなって、態度や行動に現れます。心が豊かであれば褒める行為も心からの表現となって満ち溢れています。心が豊かであれば人に対してその豊かさを分かち合えることもできます。
豊かな心は神様の心を反映したものともいえましょう。慈悲の心は誰が触れても心が和むものです。赤ちゃんを見て心が慰められるのも神様の心が映し出されているからともいえましょう。
人はいろいろな考え方を持ち、いろいろな価値判断を形成します。これも、時間の経過とともに変わります。人は思うようにいかない時、ストレスを感じます。特に、人と人との関係において、自分の考えと異なる言動に対して不快感を覚え、ストレスを強く受け、表情や言動に表すことがあります。私も例外ではないのですが。時々、相手に自分の価値判断を相手に押し付けているような場面に遭遇することがあります。
インターネットという便利な道具が普及し、誰もが自由にいろいろな情報を投稿することができるようになりました。この便利な道具のおかげで、いろいろな記事を読ませていただけるようになりました。いろいろな考え方があることが解り感謝している次第です。
これは私が勝手に感じていることなので、申し上げることではないのかもしれません。ならば書くなとお叱りを受けるかもしれません。
いろいろな記事を読ませていただくなかで、読者の判断に任せたほうがよいのではないかと思われる表現をとっていない記事に出会います。何か自分の価値判断を押し付けられているようでもあり、一定の枠にはめられるような気もするのです。書き手はそのようにする意思を持って書いているのではないと思うのですが。私の気のせいなのかもしれません。
特に、生活や生き方については、相手(読者)に対する気遣いが求められるのではないでしょうか。
どのような環境や境遇であろうとも、力強く、イキイキと行動している人の表情をみると豊かな気持ちになります。そして、勇気づけられます。
何かの用事で外出することがあります。そのとき車内の人たちの表情を拝見するのですが、何か力強いものを出している人の表情をみると、こちらの心も力強くなり、豊かな気持ちとなります。
心に何か不安があるのでしょう。深刻な面持ちで座っている人がいます。その人の表情をみると、こちらの心も暗くなり心が痛くなるのを覚えます。
以前、「人の心の苦しみがわかる。人のやるせない気持ちがわかる。そのように他人のもつ真実のものを共感できるのは、地球上の生き物の中で人間しかいない。動物は自分の痛みはわかる。仲間のもつ痛みや死の不安などがどれほどのものかはわからない。」と書いたことがあります。
豊かな暮らしを願うものとして、このことを思い出しました。いつも心を豊かにし、心安らかにして、笑顔を忘れないようにしようと決意した次第です。