黄門神社入口にある光圀像
大日本史編纂のために才能ある人を任官するに当たって、拾芥抄(しゅうがいしょう)をすませたかという質問をしたそうです。自分の及ぶところではないと答えた人を英才だといって採用したそうです。医師・山科道安は、そのことで光圀を「えせもの(一筋縄ではいかない人)」と書いているそうです。拾芥抄は中世に書かれた、今でいう百科事典だそうです。
天和3年(1683)に、碁や神道を通して知りあった渋川春海(はるみ)に命じて天球儀を作らせて、将軍綱吉に献じたそうです。綱吉はそれを自身が官学の府としてつくった、湯島の大成殿に保管させたそうです。渋川は、日本で初めての地球儀も作っているそうです。
中年の頃から万葉集の注釈を思い立ち、契沖に命じて書かせたのが万葉集代匠記だそうです。約6年かかったそうで、元禄3年(1690)完成時に光圀は、白銀1000両・絹30匹を与えたそうです。歌人で国文学者だった佐々木信綱は、「我等国文に従事する後学は、今日尚(なお)隠然公(光圀)の恩恵を被(こうむ)りつゝあるものと言ふて宜(よろ)しからうと思ふ」といったそうです。
光圀は江戸土産を忘れることがなかったそうです。西山荘時代の元禄8年(1695)の帰藩時、久昌寺の僧・日乗には氷砂糖や屏風を、付属寺院などの僧や中間(ちゅうげん)にも筆墨、火うち、煙管(きせる)などを、さらに、近隣の村に住む住民までにも茶碗、煙管などが贈られているそうです。
光圀は、道路や寺社の門前に街路樹を植えさせたそうです。水戸街道は松だけだと冬に日をさえぎるからと、サクラなどの落葉樹を植えさせたそうです。
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