徳川光圀の死後1年たった元禄14年(1701)にできた「桃源遺事」にある話です。あまり歴史の流れにかかわりそうにないものばかりですが。「桃源遺事」は、光圀を育てた三木之次(ゆきつぐ)の孫・之幹(ゆきもと)や、宮田清貞、牧野和高等が編纂に携わったそうです。(写真は千波公園の光圀像です)
生まれたとき、顔は面長で、額は広くて両方に角があり、鼻柱が通っていて、普段の目は細く見えたものの、目を見はると一般より大きかったそうです。
中山備前守信吉(のぶよし)が、頼房の後継を光圀と指名した話も載せられています。選んだ理由として、光圀が熨斗(のし)をとって爺(じじ)とよんで信吉にくれたからというものと、寵愛していた青と白の石を爺(じい)にやるといって人を通じて信吉にくれたからというもののふたつの話が別々の場所にでています。
寝たときは、目が半眼になっていて、深く眠ると目の玉がまわったそうです。
寝ているときに、そばで声高で話しても起きないのに、小声でひそひそ話すと必ず目覚めたそうです。
地震、大雷、大火などにさわぐといった様子を見せることはなかったそうです
力は普通を越えてはいたけれど、見せることはなかったそうです。
和学・漢学など、普通の学問は言うまでもなく、天文・地理・動物・草木の名、武器・楽器の使い方等々を覚えていて、細工、絵、料理なども自身でおこなったそうです。
髭を蓄えたのは西山に隠居してからだそうです。
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