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「永遠の0(ゼロ)(百田尚樹)」という本はとてもオススメ!

2014年03月07日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

「永遠の0(ゼロ)(百田尚樹)」の購入はコチラ

 この「永遠の0(ゼロ)」という本は、太平洋戦争初期に大活躍した日本の戦闘機「ゼロ戦」にまつわる小説です。
「0」とはゼロ戦の「ゼロ」ですね。
この小説は最近映画化され、私は先に映画を観たのですが、ほぼ同じ内容でした。

 この小説のテーマとしては、大部分の迎合する人と違う考えを持ち行動をしていたとしても、それが正しいことであれば、それを見ている人は必ずいて、そして報われるということでしょうか。

 小説と映画のあらすじはほぼ同じでしたね。
ただ映画では時間が限られるので、いくつか省かれる部分があるのは仕方ないですが、ラストが省かれていたのには驚きました。
不発の部分は省略だったんですね。
 また映画では空母「赤城」の威容には感動しましたね。
美しいCGの技術には驚きました!

 この本は平成の現代に生きる青年が、ゼロ戦に乗って特攻で戦死した祖父の生きざまを求めて、その証言を集めるという内容ですが、その太平洋戦争の戦闘の推移や実態だけでなく、日本の敗因、特攻の実態等についても真実に迫った内容が書かれていて、特に戦争を知らない世代にはぜひ読んで頂きたい内容だと思います。

 こういった歴史があって今の日本があり、そしてその反省を踏まえて
未来をより良くする努力が必要かと思います。

 特にこの本を読んで驚いたのは、ゼロ戦操縦士は過酷な戦いをずっと強いられていたというだけでなく、その結果、すさまじい神業の操縦士も数多くいたこと。
 そして、士官と下士官には想像以上に大きな差があり、下士官は過酷な反面、特に将官は失敗したとしても責任が問われず、それが戦争の敗因にもつながっているのではと思われていることです。
 3.11の原発問題を含めて、現在の日本の官僚にもつながっているのではないかと感じましたね。

 また、海軍の長官の勲章の査定は軍艦を沈めることが一番のポイントで、輸送船や石油タンク、艦艇修理用のドックを破壊しても査定ポイントにならなかったということには、とても驚きましたね。
 だから、真珠湾攻撃やソロモン海戦、レイテ海戦等では途中で引き上げてしまい、戦争に勝つための戦果の拡大を図れなかったんですね。

「永遠の0(ゼロ)」という本は、太平洋戦争の歴史の勉強だけでなく、これからの日本を考える上でも参考となり、読むのをとてもオススメします!

以下はこの本のポイント等です。

・飛行訓練を終えて最初に配属になったのは横須賀航空隊でした。横空に2年以上いて「赤城」の乗組員になったのは昭和16年の春でした。その時初めて新鋭戦闘機零戦に乗りました。そうです、ゼロ戦です。ただ当時私たちは新型戦闘機とかレイセンと読んでいました。-なぜ「零戦」と呼ばれたか、ですか。零戦が正式採用となった皇紀2600年の末尾のゼロをつけたのですよ。皇紀2600年は昭和15年です。今は誰も皇紀など使う人はいませんね。ちなみに、その前年の皇紀2599年に採用となった爆撃機は99式艦上爆撃機、その2年前に採用になった攻撃機は97式艦上攻撃機です。いずれも真珠湾攻撃の主力となりました。零戦の正式名称は三菱零式艦上戦闘機です。零戦は素晴らしい飛行機でした。何より格闘性能がずば抜けていました。すごいのは旋回と宙返りの能力です。非常に短い半径で旋回できました。だから格闘戦では絶対に負けないわけです。それに速度が速い。おそらく開戦当初は世界最高速度の飛行機だったのではないでしょうか。つまりスピードがある上に小回りが利くのです。本来戦闘機においては、この2つは相反するものでした。格闘性能を重視すると速度が落ち、速度を上げると格闘性能が落ちます。しかし零戦はこの2つを併せ持った魔法のような戦闘機だったのです。堀越二郎と曾根嘉年という情熱に燃える二人の若い設計者の血のにじむような努力がこれを可能にしたと言われています。また機銃は通常の7.7ミリに加えて強大な20ミリが搭載されていました。7.7ミリ機銃弾は飛行機に穴を開けるだけですが、20ミリ機銃は炸裂弾でしたから、敵機に当たると爆発します。相手は一発で吹き飛びました。ただ20ミリは発射初速が遅く、弾数が少なかったのが難点でした。しかし零戦の真に恐ろしい武器は実はそれではありません。航続距離が桁外れだったことです。3千キロを楽々と飛ぶのです。当時の単座戦闘機の航続距離は大体数百キロでしたから、3千キロというのがいかにすごい数字か想像つくでしょう。

・「真珠湾では残念なことがありました」「何でしょう」「我々の攻撃が宣戦布告なしの「だまし討ち」になったことです」「たしか宣戦布告が遅れたのでしたね」「そうです。我々は、宣戦布告と同時に真珠湾攻撃すると聞かされてきました。しかしそうはならなかったのです。理由はワシントンの日本大使館職員が宣戦布告の暗号をタイプするのに手間取り、それをアメリカ国務長官に手交するのが遅れたからですが、その原因というのが、前日に大使館職員たちが送別会か何かのパーティーで夜遅くまで飲んで、そのために当日の出勤に遅れたからだといいます。」「そうなのですか」「一部の大使館職員のために我々が「だまし討ち」の汚名を着せられたのです。いや日本民族そのものが「卑怯きわまりない国民」というレッテルを貼られたのです。我々は、宣戦布告と同時に真珠湾を攻撃すると聞かされていました。それが、こんなことに-これほど悔しいことはありません」「当時、アメリカは日本に対して強い圧力をかけていましたが、国内世論は逆に戦争突入には反対だったといいます。我々が戦前聞かされていたのは、アメリカという国家は歴史もなく、民族もバラバラで愛国心もなく、国民は個人主義で享楽的な生活を楽しんでいるというものでした。我々のように、国のため、あるいは天皇陛下のために命を捧げる心はまったくないのだ、と。山本長官は緒戦で太平洋の米艦隊を一気に叩きつぶし、そんなアメリカ国民の意気を完全に阻喪せしめおうとしたのです」「まったく逆の結果に出たわけですね」「その通りです。卑劣なだまし討ちにおり、アメリカの世論は「リメンバー・パールハーバー」の掛け声と共に、一夜にして「日本撃つべし」と変わり、陸海軍にも志願者が殺到したということです」「更にいえば、戦術的にも大成功だったかと言えば、実はそうとも言えなかったのです。それは第三次攻撃隊を送らなかったことです。我が軍はたしかに米艦隊と航空隊を撃滅しましたが、ドックや石油備蓄施設、その他の重要な陸上施設を丸々無傷で残したのです。これらを完全に破壊しておれば、ハワイは基地としての機能を完全に失い、太平洋の覇権は完全に我が国のものとなっていたでしょう。飛行隊長たちは第三次攻撃を具申しました。しかしそれは受け入れられませんでした。司令長官南雲忠一中将は退却を選んだのです。今にして思えば、南雲長官は指揮官の器ではなかったと思いますな。その後、太平洋の至るところで、日本海軍は何度も決定的なチャンスを逃しますが、これらはすべて指揮官の決断力と勇気のなさから生じていると思います」

・ミッドウェーの作戦は米軍にすべて筒抜けだったのです。それは暗号が解読されていたからです。ただ、この時米軍の暗号解読チームも、日本軍の攻略目的地「AF」と呼ばれている場所がどこなのかはわからなかったのです。そこで米軍はミッドウェーの基地から平文で「蒸留装置が故障して真水が不足している」とニセ電文を送ったのです。日本軍はその日のうちに「AFは水が足りない様子」と暗号で送り、そこで米軍は「AF」がミッドウェーであることを知ったわけです。米軍は手ぐすね引いて我が軍を待ち伏せていたのです

・曳痕弾というのは燃えながら飛んでいく弾で、機銃弾4発の中に1発入っています。光りながら飛んでいくので、弾道が確認でき、搭乗員はそれを見ながら照準を修正していくのです。敵機の機銃にも曳痕弾はあり、撃たれた場合は曳痕弾がこちらに向かって飛んで来るのが見えます。

・草の陰から一人の男が何かを持ち上げています。男は宮部小隊長でした。小隊長は上半身裸になり、右手で壊れた飛行機の機銃の銃身を掴み、それを何度も持ち上げていました。私はこっそり忍び寄った手前、名乗りを上げるわけにもいかず、それを覗き見るはめになりました。宮部小隊長は全身を真っ赤にさせていました。最後は、悲鳴のような声まで上げました。しばらく休止すると、今度は近くの木の枝に足を引っかけ、逆さ吊りのような格好になりました。そしてその姿勢のままひたすら耐えているのです。顔が真っ赤になり、額の血管が浮き出てくるのが見えました。今にも破裂するのではないかと思えたほどでした。どれほどやっていたのでしょうか。覚えていませんが、とてつもなく長い時間そうやっていたと思います。ようやく私にも宮部小隊長がなぜそんなことをやっているかがわかりました。空戦のための鍛錬です。戦闘機は旋回や宙返りする時には、Gがかかってものすごく操縦桿が重くなります。Gというのは操縦中にかかる重力のことです。戦闘機乗りは重くなった操縦桿を片手で操りながら、戦うわけです。私たちも普段から腕の力を鍛えるために腕立て伏せや懸垂は欠かしませんでしたが、こんな鍛錬は見たことがありません。また逆さ吊りは、これも空戦のさなかの旋回と宙返りの時に頭に血が上る時のための鍛錬でしょう。宮部小隊長が立ち去った後、私は小隊長の持っていた銃身を掴んで持ち上げようとして唖然としました。まったく持ち上がらないのです。どれほど力を込めても、銃身は地面に張りついたように動かないのです。

・艦隊司令長官にとって最高の名誉である金し勲章のための査定ポイントで、最も大きいものは海戦によって軍艦を沈めることだそうです。戦艦を最高点として、以下、巡洋艦、駆逐艦と続いていくらしいですが、輸送船などは何隻沈めてもまったく点数にならないそうです。しかし艦艇を失えば大きなマイナスになります。三川長官が巡洋艦並びに駆逐艦を撃沈した後、輸送船など目もくれずにとっとと引き上げたのはそのためか、というのは言い過ぎでしょうか。とにかく三川艦隊の撤退はガダルカナルの戦いで大きな悔いを残しました。

・昭和17年の後半から米軍の零戦に対する戦い方が変わりました。これまでも米軍は零戦にまともに向かってくることは少なかったのですが、17年以降ははっきりと零戦との格闘を避け始めました。徹底した一撃離脱と、そして二機一組の攻撃、こうした米軍の新戦法は我々を戸惑わせました。戦後かなり経ってから知ったことですが、米軍は17年の7月に無傷の零戦を手に入れ、それを調べることによって、対零戦の戦法を編み出していたのでした。

・米軍の航空関係者はテストの結果に愕然としたと言われています。イエローモンキーと馬鹿にしていたジャップが、真に恐るべき戦闘機を作り上げていたことを知り、驚いたのです。そして彼らは、現時点において零戦と互角に戦える戦闘機は我が国には存在しないということを認識したといいまう。それは彼らにとって恐るべき答えだったようです。しかし米軍は同時に零戦の弱点も見抜きました。防弾装備が皆無なこと、急降下速度に制限があること、高空での性能低下などです。そして米軍は零戦の弱点を徹底的に突く戦法を編み出したのです。米軍は零戦に対してしてはならない「3つのネバー」を全パイロットに指示したそうです。すなわち「ゼロと格闘してはならない」「時速300マイル以下で、ゼロと同じ運動をしてはならない」「低速時に上昇中のゼロを追ってはならない」の3つです。この「ネバー」を犯した者はゼロに墜とされる運命になる、と。こうして米軍は零戦に対して徹底した一撃離脱戦法に切り替えました。そして一機の零戦に対して必ず二機以上で戦うことが義務付けられました。この戦法を可能にしたのは米軍の物量でした。戦闘機の大量生産をバックにしたこうした新戦法の前に我々は消耗させられていったのです。

・ガダルカナル島の空戦で撃墜された米機の搭乗員が我が駆逐艦に拾われ、そのまま捕虜になったのですが、彼の話は驚きでした。何と彼らは一週間戦えば後方にまわされ、そこでたっぷり休息を取って、再び前線にやってくるというものでした。そして何ヶ月か戦えば、もう前線から外される、と。その話を漏れ聞いた時は、我々搭乗員たちは何とも言えない気持ちになりました。我々には休暇などというものはなかなか与えられません。連日のように出撃させられるのです。実際、熟練搭乗員も櫛の歯が欠けるように減っていきました。いや、むしろ熟練搭乗員から死んでいきました。というのは経験の浅い搭乗員だと撃墜されて貴重な飛行機を失う可能性が高いという理由で、熟練搭乗員が優先的に出撃されたのです。搭乗員よりも飛行機を大事にしたのです。繰り返しますが、片道3時間以上の距離を移動して、敵の待ちかまえる空で中攻隊を援護しつつ戦い、また3時間以上かけて戻るのです。それが連日繰り返されるのです。体力、集中力の低下は免れません。我々は一度でもミスしたら終わりなのです。失敗は繰り返さなければいいという甘い世界ではないのです。一度の失敗が、すべてを終わらせてしまうのです。

・トニーは悪戯っぽく笑いました。「だが、俺も含めてみんなゼロに墜されている。スミス、カール、フォス、エバートン、海兵隊の誇るエースたちはたいてい一度はゼロに墜とされているんだ。日本のエース、ジュンイ・ササイを撃墜したカールだってやられている。俺たちが生きているのはホームで戦ったからだ」「そうか、笹井中尉を撃墜したマリオン・カールも一度は撃墜されたのか」トニーは頷きました。「ゼロのパイロットはすごかった。これはお世辞ではない。何度も機体を穴だらけにされた俺が言うんだ。本物のパイロットが何人もいた」私は思わず涙がこぼれました。彼は驚いたようでした。「ラバウルの空で死んでいった仲間たちが今の言葉を聞けば、喜ぶと思う」彼は何度も頷きました。

・その秘密兵器は「近接新管」と呼ばれるものだった。「マジックヒューズ」とか「VTヒューズ」というあだ名を持つこの信管は、砲弾の先が小型レーダーになっていて砲弾の周囲何十メートルか以内に航空機が入ると、その瞬間に信管が作動して爆発するという恐ろしい兵器だった。これらもすべて戦後何年も経ってから知った。米軍はこの「VTヒューズ」の開発にマンハッタン計画と同じくらいの金をかけたという。マンハッタン計画とは原爆の開発計画だ。それを知った時、米軍と日本軍の思想はまったく違うものだったのだと知った。「VTヒューズ」は言ってみれば防御兵器だ。敵の攻撃からいかに味方を守るかという兵器だ。日本軍にはまったくない発想だ。日本軍はいかに敵を攻撃するかばかりを考えて兵器を作っていた。その最たるものが戦闘機だ。やたらと長大な航続距離、素晴らしい空戦性能、それに強力な20ミリ機銃、しかしながら防御は皆無。「思想」が根本か違っていたのだ。日本軍には最初から徹底した人命軽視の思想が貫かれていた。そしてこれがのちの特攻につながっていったに違いない。日本軍は、当時この「VTヒューズ」のことはまったく気づいていなかった。だが生き残った彗星鑑爆隊の連中は本能的に「VTヒューズ」の仕組みを知ったようだった。「突然、目の前で爆発するんだ。砲弾が俺たちの近くに来ると爆発する仕掛けk何かがあるようだ」これは帰還した彗星鑑爆のある操縦員がわしに言った言葉だ。彼は真珠湾以来の生き残りの鑑爆乗りだった。それだけに言葉に重みがあった。しかし参謀たちは、前線の搭乗員たちがいくら言おうと、謎の新兵器の存在を信じようとしなかった。ただ対空砲火の数を増やしたのあろうというくらいにしか考えなかったようだ。もっとも仮に「VTヒューズ」のことを知ったとしても効果的な対策が練られたとも思えない。

・わしが到着してしばらくしたある夜、下士官以下の搭乗員が総員、指揮所前に集合させられた。集まった搭乗員を前にして、副長は言った。「諸君に集まってもらったのは他でもない。今、日本は未曾有の危機である。戦況は極めて厳しいと言わざるを得ない。そこで、今後は、米軍に対して必殺の特別攻撃を行う」どういう意味かすぐにわかった。体当たり攻撃せよというのだ。「しかし特別攻撃は十死零生の作戦であるから、志願する者だけがこれに参加することとする」空気が張りつめた。息をするのも苦しいような重い静寂が指揮所の周囲を覆った。「志願する者は一歩前へでろ!」副長の横にいた士官が大声で言った。しかし誰も動かなかった。はい、そうですかと動けるものではない。「今ここで、死ぬ者は名乗りを上げよ」と言われて、即答出来るはずがない。いかに死を覚悟していようと、そのことは別だ。「行くのか、行かないのか!」一人の士官が声を張り上げた。その瞬間、何人かが一歩前に進んだ。つられるように全員が一歩前に進んだ。わしも気がつけば皆に合わせていた。戦後になって、この時の状況が書かれた本を読んだ。士官の言葉に搭乗員たちが我先に「行かせてください」と進み出たことになっていたが、大嘘だ!そう、あれは命令ではない命令だった。考えて判断する暇など与えてくれなかった。わしらは軍人の習性として、上官の言葉に反射的に従ったようなものだ。

・特別攻撃隊は「神風特別攻撃隊」と名付けられた。カミカゼではない、その時は「しんぷう」と読んだ。もっともそれ以降は「かみかぜ」と呼ばれるようになっていたが。そして隊ごとに「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と命名された。これは本居宣長の「敷島の大和心を人とはば朝日にほふ山桜花」という歌を由来にしたものだった。

・関大尉たちの敷島隊の5機は全機体当たりに成功し、護衛空母を3隻大破させるという大戦果を挙げた。このことはセブ島基地からの電報でわかった。史上初の特攻は大成功に終わったのだ。戦果報告をしたのは西澤飛曹長だった。なお、この時の西澤の報告は非常に正確なもので、戦後、米軍の発表では一隻沈没、二隻大破というものだった。西澤飛曹長は敵戦闘機から敷島隊を守りきり、対空砲火の猛火の中でその突入を見届けた上、追いすがるグラマンF6Fを二機撃墜して、セブ島の基地にたどり着いたのだった。これは後にセブ島の基地にいた搭乗員から聞いた話だが、零戦から降り立った西沢飛曹長のまとう異様な殺気に誰も声をかけられなかったという。ちなみに終戦まえ行われた航空特攻作戦だが、この時の攻撃が最大の戦果を挙げたものだった。米軍の意表を衝いたことがもっとも大きな成功要因だったが、西澤という日本海軍随一の戦闘機乗りが援護したということも大きな理由だっただろう。皮肉なことに、この時の大戦果が軍令部に「特攻こそ、まさに切り札」と信じさせたかもしれない。

・翌日、マバラカット基地に戻ろうとした西澤飛曹長に、基地の指揮官は「零戦を残して置け」と言い、搭乗員だけでマバラカットの基地に戻ることを命じた。西澤は他の二人の搭乗員とともにダグラス輸送機に乗りマバラカットに向かった。そして、その輸送機が敵戦闘機に撃墜されたのだ。米軍パイロットたちか「ラバウルの魔王」と怖れられた男のあっけない最期だった。西澤はどれほど無念だったことだろう。零戦の操縦桿を握っていれば絶対に墜とされることはなかったはずの男が、生涯最後に乗っていたのは、武器を持たない鈍足の輸送機だったのだ。こうして日本海軍の生んだ最高の撃墜王が、特攻の翌日に死んだ。24歳の若さだった。

・関大尉は軍神として日本中にその名を轟かせた。関大尉は母一人子一人の身の上で育った人だった。一人息子を失った母は軍神の母としてもてはやされたという。しかし戦後は一転して戦争犯罪人の母として、人々から村八分のような扱いを受け、行商で細々と暮らし、最後は小学校の用務員に雇われて、昭和28年に用務員室で一人寂しく亡くなったという。「せめて行男の墓を」というのが最後の言葉だったという。戦後の民主主義の世相は、祖国のために散華した特攻隊員を戦犯扱いにして、墓を建てることさえ許さなかったのだ。

・戦争が終わって村に帰ると、村の人々のわしを見る目が変わっていた。けがれたものでも見るような目で眺め、誰もわしに近寄ろうとはしなかった。村人たちは陰でわしのことを「あいつは戦犯じゃ」と言っていた。ある日、川の土手を歩いていると、村の子供たちが「戦犯が歩きよる」と言ってわしに向かって石を投げた。悔しくてたまらなかった。昨日まで「鬼畜米英」と言っていた連中は一転して「アメリカ万歳」「民主主義万歳」と言っていた。村の英雄だったわしは村の疫病神になっていたのだ。父は亡くなっていて、わしは跡を継いだ兄の家の離れで加江と暮らしていたが、兄は明らかにわしを厄介者扱いにした。誰かが流したデマだろうが、真珠湾攻撃に参加したパイロットは戦犯として絞首刑になるという噂が広まった。戦犯を匿った者や村も罰せられると。それを聞いたわしは腹をくくった。そんなある日、兄が5升の米を餞別代わりにくれ、これで東京へ逃げろと言った。体のいい追い出しだった。

・わしは自分で商売することを決めた。様々な商売に手を出した。何度もだまされ、何度も裏切られた。戦後の人々は戦前の人々とはまるで違う人たちだった。人にだまされた夜、戦争で死んだ戦友たちを思いだし、彼らの方が幸せかもしれないと思ったこともあった。こんな日本を見なくてすんだ彼らの幸運を羨んだ。しかしそれは終戦直後の混乱と貧困による一時的なものだった。多くの日本人には人を哀れむ心があり、暖かい心を持っていた。自分が生きるのでさえ大変な時にも人を助けようとする人がいた。だからこそ、わしたち夫婦もあの悲惨な時代を生き延びることができたのだと思う。東京に小さいながらもビルを持てたのも多くの人に助けられたからだ。本当に日本人が変わってしまったのはもっとずっと後のことだ。日本は民主主義の国となり、平和な社会を持った。高度経済成長を迎え、人々は自由と豊かさを謳歌した。しかしその陰で大事なものを失った。戦後の民主主義と繁栄は、日本人から「道徳」を奪ったと思う。今、街には、自分さえよければいいという人間たちが溢れている。60年前はそうではなかった。

・「弱気というのか、慎重というのか-たとえば真珠湾攻撃の時に、現場の指揮官クラスは第三次攻撃隊を送りましょうと言ってるのに、南雲長官は一目散に逃げ帰っている。珊瑚海海戦でも、敵空母レキシントンを沈めた後、井上長官はポートモレスビー上陸部隊を引き揚げさせている。もともとの作戦が上陸部隊支援にもかかわらずよ。ガダルカナル緒戦の第一次ソロモン海戦でも三川長官は敵艦隊をやっつけた後、それで満足して敵輸送船団を追いつめずに撤退している。そもそもは敵輸送船団の撃破が目的だったのに。この時、輸送船団を沈めていれば、後のガダルカナルの悲劇はなかったかもしれない。ハルゼーが言っていたらしいけど、日本軍にもう一押しされていたらやられていた戦いは相当あったようよ。その極めつけが、レイテ海戦の栗田長官の反転よ」「なぜ、そんなに弱気な軍人が多いの」と僕は聞いた。「多分、それは個人の資質の問題なのだろうけど、でも海軍の場合、そういう長官が多すぎる気がするのよ。だからもしかしたら構造的なものがあったと思う」「将官クラスは、海軍兵学校を出た優秀な士官の中から更に選抜されて海軍大学校を出たエリートたちよ。言うなれば選りすぐりの超エリートというわけね。これは私の個人的意見だけど、彼らはエリートゆえに弱気だったんじゃないかって気がするの。もしかしたら、彼らの頭には常に出世という考えがあったような気がしてならないの」「出世だってー戦争しながら?」「うがちすぎかもしれないけど、そうとしか思えないフシがありすぎるのよ。個々の戦いを調べていくと、どうやって敵を撃ち破るかではなくて、いかにして大きなミスをしないようにするかということを第一に考えて戦っている気がしてならないの。たとえば海軍の長官の勲章の査定は軍艦を沈めることが一番のポイントだから、艦艇修理用のドックを破壊しても、石油タンクを破壊しても、輸送船を沈めても、そんなのは大して査定ポイントが上がらないのよ。だからいつも後回しにされる-。「でも、だからって、出世を考えていると言うことはないんじゃないかな」「確かにうがちすぎた考えかもしれない。でも十代半ばに海軍兵学校に入り、ものすごい競争を勝ち抜いてきたエリートたちは、狭い海軍の世界の競争の中で生きてきて、体中に出世意欲のことが染みついていたと考えるのは不自然かな。特に際立った将官クラスはその気持ちが強かったように思うんだけど-。太平洋戦争当時の長官クラスは皆、50歳以上でしょう。実は海軍は日本海海戦から40年近くも海戦をしていないのよ。つまり長官クラスは海軍に入ってから、太平洋戦争までずっと実戦を一つも経験せずに、海軍内での出世競争だけで生きてきた-。

・「当時の海軍について調べてみると、あることに気がついたのよ。それは日本海軍の人事は基本的に海軍兵学校の席次、ハンモックナンバーって言うらしいけど、それがものを言うってこと」「卒業成績が一生を決めるってことだね」「そう。つまり試験の優等生がそのまま出世していくのよ。今の官僚と同じね。あとは大きなミスさえしなければ出世していく。極論かもしれないけど、ペーパーテストによる優等生って、マニュアルにはものすごく強い反面、マニュアルにない状況には脆い部分があると思うのよ。それともう一つ、自分の考えが間違っていると思わないこと」「戦争という常に予測不可能な状況に対する指揮官がペーパーテストの成績で決められていたというわけか」「私は、日本海軍の脆さって、そういうところにあったんじゃないかなと思うの。」

・「アメリカはどうなの?」「出世に関してはアメリカも同じみたいね。海軍大学の卒業席次が大きくものを言う。ただしそれはあくまで平時の場合で、いざ戦争になったら、戦闘の指揮に優れた人物が抜擢されるらしいの。太平洋艦隊司令長官のニミッツは何十人とごぼう抜きしたわ。もちろん失敗の責任もきちんと取らされる。日本軍の攻撃によって真珠湾の艦隊を撃滅されたことで、太平洋艦隊司令長官のキンメルは解任された上に、大将から少将に降格させられている。真珠湾での敗北は、はたしてキンメルの責任なのかどうか微妙なんだけど、アメリカ軍には、失敗にはきっちりと責任を取らせるというケジメがあるみたい。もう一つ、アメリカ海軍に弱気な指揮官はほとんどいない。皆、驚くほどアグレッシブよ」

・「日本海軍の高級士官たちの責任の取り方だよ。彼らは作戦を失敗しても誰も責任を取らされなかった。ミッドウェーで大きな判断ミスをやって空母4隻を失った南雲長官しかり。マリアナ沖海戦の直前に、抗日ゲリラに捕まって重要な作戦書類を米軍に奪われた参謀長の福留中将しかり。福留中将は敵の捕虜になったのに、上層部は不問にした。これが一般兵士ならただではすまなかったはずだ。」「兵士には、捕虜になるなら死ねと命じておいて、自分たちがそうなった時は知らん顔するのね」「高級エリートの責任を追及しないのは陸軍も同じだよ。ガダルカナルで馬鹿げた作戦を繰り返した辻政信も何ら責任を問われていない。信じられないくらい愚かなインパール作戦を立案して3万人の兵士を餓死させた牟田口中将も、公式には責任をとらされていない。ちなみに辻はその昔ノモンハンでの稚拙な作戦で味方に大量の戦死者を出したにも関わらず、これも責任は問われることなく、その後も出世し続けた。代わって責任は現場の下級将校たちが取らされた。多くの連隊長クラスが自殺を強要されたらしい」「ひどい!」「ノモンハンの時、辻らの高級参謀がきちんと責任を取らされていたら、後のガダルカナルの悲劇はなかったかもしれない」「でも、どうして責任を取らされないの?」「もしかしたら官僚的組織になっていたからだと思う」「そうか-責任を取らされないのは、エリート同士が相互にかばい合っているせいなのね。仲間の失敗を追求すれば、自分が失敗した時に跳ね返ってくるってわけね」「それはあったと思う。インパール作戦で牟田口の命令に反して兵を撤退させた佐藤幸徳師団長は軍法会議にかけられず、心神喪失ということで、不問にされた。軍法会議を開けば、牟田口総指令官の責任問題に及ぶ。だから牟田口をかばうために、佐藤師団長の気がふれたことにして、軍法会議は行われなかったんだと思う。更に言うと、軍法会議になると、牟田口の作戦を認めた大本営の高級参謀たち、つまり自分たちにも責任が及ぶからだ。ちなみに牟田口のインパール作戦を認めた彼の上官、川辺中将は大将に昇級している」「責任の話のついでに言うと、真珠湾攻撃の時、山本五十六長官が「くれぐれもだし討ちにならぬように」と言い残して出撃したにもかかわらず、宣戦布告の手交が遅れて、結果的に卑怯な奇襲となってしまった原因は、ワシントンの駐米大使館員の職務怠慢だったって話したこと覚えてる?あの後、気になって調べたら、戦後、責任者は誰もその責任を取らされていない」「たしか上の人たちって、パーティーか何かしてたのよね」「そう、送別会で飲みまくって、翌日の日曜日に遅れてやってきたんだ。前日に外務省から「対米覚書」という13部からなる非常に重要な予告電報が送られていたにも関わらず、それをタイプすることもしないでパーティーで遊んでいたんだ。翌朝届いた宣戦布告の電報を見て、慌てて「対米覚書」からタイプにとりかかったが、遅れに遅れて、それをハル国務長官に手交したのは真珠湾攻撃開始後だった。宣戦布告の電報だけなら、わずか8行だったのに」「懲戒免職もののミスね」「それ以上だよ。そのミスのせいで「日本人は卑怯なだまし討ちをする民族」という耐え難い汚名を着せられたんだ。それがどれほど大きいものか。たとえばアメリカには原爆を使用したことに関して「卑怯な日本に当然の仕打ちだ」という主張があるんだ。9.11の時もアメリカのマスメディアは「このテロは真珠湾と同じだ!」と言ったらしい。日本という国にこれほどの汚辱を与えたにも関わらず、当時の駐米大使館の高級官僚は誰も責任を問われていない。あるキャリア官僚はノンキャリの電信員のせいにしようとした。前日「泊まりこみましょうか」と申し出た人をだ。それを「不要」と帰らせた男が、戦後、彼に責任をなすりつけようとしたんだ」「結局、当時の高級官僚は誰も責任を取らされていないばかりか、何人かは戦後、外務省の事務次官にまで上り詰めている。もしこの時、彼らの責任をしっかりと問うていれば日本人の「卑怯な民族」という汚名はそそがれ、名誉は回復されたかもしれない。アメリカ人も「あれはだまし討ちではなかったのだな」と理解したはずよ。しかし今に至るも外務省は公式にミスを認めていないから、国際的には、真珠湾奇襲は日本人のだまし討ちということになっている」

・訓練中も私たちが乗るのは「赤トンボ」と呼ばれる複葉の練習機か旧式の96式艦戦だった。それらの練習機に粗悪なガソリンや松の根から取った松根油、エチルアルコールなどを使って飛んでいたのだ。後に聞いたが、実戦機にもオクタン価の高い航空ガソリンは使えなかったそうだ。余談だが、戦後、米軍が日本の戦闘機の性能テストをした時、陸軍の四式戦闘機に米軍の高オクタンのガソリンを入れるとP51ムスタングよりも高い性能を示したという。P51は第二次大戦の最強戦闘機と言われている飛行機だ。その話を聞いた時、つくづく戦争とは総合力だと思った。一つ二つが優れていても、どうにかなるものではない。

<目次>
プロローグ
第1章 亡霊
第2章 臆病者
第3章 真珠湾
第4章 ラバウル
第5章 ガダルカナル
第6章 ヌード写真
第7章 狂気
第8章 桜花
第9章 カミカゼアタック
第10章 修羅場
第11章 最期
第12章 流星
エピローグ

面白かった本まとめ(2013年下半期)

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