ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

日国ネット

2005年12月08日 | カ行
小学館から「国語大辞典」というのが出ています。随分前に初版が出て、最近第2版が完結したようです。収録語数50万を標榜している日本最大の辞書です。

その第2版の完成を記念してHP「日国ネット」を開設し、読者からの投稿を受け入れはじめました。それは約30年後になるであろう第3版のために、現在の同辞典に載っていない語、既に載っている語の語釈についての意見及び適切な用例、の3つを求めています。

かねて辞書のあり方について意見を持っています私は、ここで聞いてもらえるかなと思って早速入会(無料)しました。2回、語釈についての意見を出した後、この3点以外の点についての意見も出せるようにしてほしいと要望しました。

編集部員から「談話室みたいなものを作ろうと思っている」旨の返事をいただきました。

それから少しして、(2002年)8月2日に以下のメールを送りました。

 日国ネットの皆さんへ

前略、「その他」という項目も作ってどんな事でも提案できるようにしてほしいという私の投稿へのお返事をいただきました。ありがとうございます。

辞書のあり方についての私見を述べます。

私は自分のメルマガ「教育の広場」に時々「日本語疑典」というコラムを書いています。先日、そこに次のような文を載せました。

・・(2002年)7月4日の朝日新聞に船橋洋一氏の文章が載りました。ドイツのシュレーダー首相がW杯の決勝戦を見たいと言いだして、日本の政府専用機に小泉首相と一緒に乗ってきたことに触れた文章です。

その中に次の文があります。

「機中会談では、シュレーダー首相が『欧州でプレーする日本の選手の最初は(西)ドイツで活躍したオクデラでした』とサッカー通らしい蘊蓄(うんちく)を披露した。」

「蘊蓄を披露する」という言い回しはあるのでしょうか。

「蘊蓄」で辞書を引きますと、その第2の意味として「十分に積みたくわえた知識。深い学識」とあります。そして、用法としては「蘊蓄を傾ける」が載っています(以上、学研の国語大辞典)

つまり、「蘊蓄」と称するのは個々の知識ではなく、かなりの量のまとまった知識の集合だと思うのです。それを「傾ける」とは、全部ではないにしても溜めた知識の内のかなりのものを一気に吐き出すということだと思います。

しかも、その知識もかなり深い知識だと思います。

しかるにここで船橋氏の触れたのは一つの知識ですから、やはり「蘊蓄」とは言えなかったと思います。氏自身「一つの知識」だというおかしさを感じていたので、「傾ける」と言わないで「披露する」と思わず言ったのだと思いますが、「蘊蓄を披露する」はないと思います。

そもそも奥寺選手のことは「蘊蓄」と表現するほどの「深い知識」ではないと思います。最近のにわかサッカーファンならいざしらず、ある程度以上のサッカーファンならみな知っていることです。

 ここは次のように言ったらよかったと思います。

「機中会談では、シュレーダー首相が『欧州でプレーする日本の選手の最初は(西)ドイツで活躍したオクデラでした』と、サッカー通らしいところを見せた。」

朝日新聞を代表する名記者だった船橋氏を私は高く評価していますが、氏にしてなおこういう事があるのでしょうか。それとも私の方が間違っているのでしょうか。

 日国の編集方針等を見ますと、「意味用法を解説し」「極力実際の用例を示す」と書いてあります。しかし、実際に「用法」は十分に解説されているでしょうか。なぜ日国ネットの投稿項目に「用法」の項がないのでしょうか。

ひょっとすると「用例」と同じことを考えているのではないかと思いますが、そうだとしたら違うと思います。

私見では、「用法」は「その語の使い方」ですが、特に「決まった使い方」だと思います。従って、特定の「用法」の「用例」を提示するという事態もありえますし、必要ですらあります。

上の「蘊蓄を披露する」の検討から分かりますように、「用法」は「意味」の正しい理解にとって必要不可欠なのです。「蘊蓄」とは「ある程度以上の分量のまとった知識」だから(一つの知識について)「蘊蓄を披露する」という言い方は間違いなのだと思うのです。

では現存する国語辞典で「用法」は十分に解説されているでしょうか。不十分だと思います。その結果、間違った使い方が沢山あります。大学生が間違えるのではありません。小説家や新聞記者や大学教授といった模範を示すべき人達が間違えているのです。しかもたまに間違えるのではなく、頻繁に間違えているのです。

従って、辞書には多く見られる間違った「用法」も記して、「こういう使い方がよく見受けられるが本当は~です」と書く必要があると思います。

私の取り上げた例をもう一つ出しますと、「不明朗さが解けない」という表現がありました。「不明朗さ」は「解ける」ものなのでしょうか。私見では「晴れる」ものだと思います。しかし、辞書は教えてくれないのです。

皆さんは「意味」の理解と「用法」の理解との結びつきについてどう考えているのでしょうか。ご意見を承りたいと思います。

率直な気持ちをお伝えしました。言葉に不適切な点がありましたらお許し下さい。

よろしくお願いします。
                         草々

(2002年)08月02日               牧野 紀之

 これに対していまだに返事をもらっていません。

(2002年11月05日発行)


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