ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第 163号、加藤周一さんの限界

2005年09月08日 | その他
教育の広場、第 163号、加藤周一さんの限界
      
 朝日新聞の夕刊に月に1回くらいのペースで加藤周一さんの
「夕陽妄語」というコラムが載ります。私には読みにくいもの
で、たいてい途中で止めてしまいます。しかし、〔2004年〕03
月16日付けの「『オウム』と科学技術者」と題する文章は珍し
く最後まで読めました。

かつて地下鉄サリン事件が起きてそれがオウム真理教の犯罪
だと分かり、更にその他の様々な犯罪もオウムのものだと分か
った時、「このような犯罪を理科系の高等教育を受けた人がな
ぜするのか」と不思議に思う意見が多かったのに対して、加藤
さんは「なぜ不思議なのか」と反問します。

 この考えを批判するために、加藤さんはこの考えを一般化し
ます。それは、医者などの専門家にその専門領域以外の事柄に
ついても、その人達の「高学歴」が一般の市民以上の判断能力
を保証するだろうと考えることだ、とします。

 そして、このように考えれば、全体としては気違いじみた計
画や目的のために高等教育を受けた科学者たちが協力すること
はいくらでもあるとして、次の例を挙げます。

 東アジア全域への国家神道の強制、ヨーロッパ全土からのユ
ダヤ人の一掃、全知全能とされる独裁者の下での一国社会主義
の建設、そしていくら探しても見つからぬ大量破壊兵器の脅威
を除くためのイラク討伐等々。

 これらの「狂気」には多数の傑出した科学者や技術者が含ま
れていた。だから、科学技術者と集団的狂気とは、「オウム」
の場合にかぎらず、必ずしも相互に不適合とはいえない、と言
います。

 「集団」の側は、自分の目的の正当化のために歴史家や社会
科学者を、それの実行のためには技術者を必要とするし、科学
技術者の側では、専門領域では合理的実証的な思考をしていて
も、専門外の事では合理的な立場から批判することができない
、というわけです。

 ではどうすればこういった事の再発を防げるか。加藤さんの
答えは次の通りです。「合理性の個室と非合理な信念の個室と
の障壁を取り払えばよい。そのためには科学的個室で養われた
合理的思考を、いつどこでも徹底的に貫くほかないだろう」。

 私は加藤さんの問題提起には興味を持ちましたが、答えには
がっかりしました。それを詳しく述べましょう。

 オウムについて人々の疑問とした事をこのように一般化した
ことは優れた着眼だと思います。私もこういった事はこれまで
論じてきましたが、それは、部分的事実と全体的真実(あるい
は虚偽)の関係と言うことができます。部分的事実は必ずしも
全体的真実と結びつかないのです。

 又、偽善の問題でもあると思います。偽善というのは言行不
一致と理解されることが多いようですが、そうではなく、「大
きな悪を隠すための小さな善」のことだと思います。この点に
ついては、HP「ヘーゲル哲学辞典」の偽善の項を見てくださ
い。エルヴェシウスの言葉を引いてあります。

 もう少し小さな事で言いますと、精神分析学者(だと思う)
の岸田秀さんは「部分精神病」というのを指摘しています。

・・精神病の一種に部分精神病というか部分妄想狂というか、
ある一点だけが狂っていて他の点ではすべて正常というのがあ
る。たとえば、自分は天皇の落胤だという誇大妄想をもってい
て、誰が何と言おうが頑として受け付けず、いささかも確信は
ゆるがないが、世間の常識とか社会人としての義務とか礼儀作
法とか、その他の点はまったく正常で、したがって社会生活を
営む上では差し支えのない人というのがいるが、一時代前の西
欧の一部の理論家はこの種の精神病だったのではないかと思わ
れる。

 L・ボルクにしても、人類の進化を猿の胎児化現象として説
明するとき、なるほどと思わせる具体的な証拠をいろいろ挙げ
、実に明晰に緻密な論理を展開するのだが、その進化の過程で
白人は黒人より上の段階にあると言い始めると、とたんに判断
力に霧がかかったかのようになり、明々白々な反証が目に入ら
ず、論理の飛躍に気がつかないらしいのである。(『性的唯幻
論序説』文春新書)・・

 私の考えでは、これと同じように、「一時的精神病」もある
のではないかと思います。「自分はなぜあの時あんなバカな事
をしてしまったのか」と後悔した経験は多くの人が持っている
のではないでしょうか。

 このように、部分と全体の関係でも、或る分野と他の分野と
の関係でも、人間は必ずしもそれほど首尾一貫しておらず、十
分に整合的ではないのだと思います。ではどうしたら好いので
しょうか。

 この難問に対して加藤さんは実に「科学的個室で養われた合
理的思考を、いつどこでも徹底的に貫け」と教えてくれるので
す。これで答えになっているでしょうか。

 これが言われただけで簡単に出来るくらいなら間違いは起こ
らないと思います。自分の専門とする「科学的個室」で養われ
た合理的思考でも、専門外の領域で貫くことは難しいからこそ
、間違いが起きているのではないでしょうか。

 これはいわゆる「専門バカ」の問題だと思います。私はこれ
を人生における「幅と深さ」の問題として捉えます。人間は誰
でも一方で沢山の事を知りたい経験したいという思いと、他方
で一つの事を深く掘り下げたいという気持ちとを持っていて、
その矛盾に悩むと思います。

 特に青年時代にはそうですが、限りある人生でこの2つを両
立させることはとても難しいことだからだと思います。それは
、多分不可能ではないかとさえ思われるからです。

 加藤さんの答えを読んで、「この人は本当にこの問題で悩ん
だことがあるのかな」「専門外の事でしったかぶったために間
違えた経験はないのかな」と思いました。

 私は加藤さんという人をほとんど知りませんが、知っている
範囲で実例を挙げましょう。ドイツ文化協会では数年前からレ
ッシング翻訳賞というのを始めました。その第1回には長谷川
宏さんの訳したヘーゲル「精神現象学」(作品社)が選ばれま
した。その発表を新聞記事で読んだすぐ後、私は、その選考委
員の一人が加藤周一さんだったということを知って驚いたこと
を覚えています。

 加藤さんはあの長谷川さんの翻訳を自分できちんと読んだ上
で本当にレッシングの名を冠した翻訳賞に相応しいと「合理的
に」判断したのでしょうか。しかも、その後も自分の判断は正
しかったと思っているのでしょうか。

 実際にあの翻訳を読んだ人達の間では、「長谷川さんの訳で
は分からない」という声が多数聞かれることを知っているので
しょうか。又、何人かの哲学教授からは詳細な批判が発表され
ているのを知っているのでしょうか。

 もう1つ別の実例を挙げましょう。部分と全体の関係という
ならば、加藤さんは自分が朝日新聞に寄稿していることをどう
思っているのでしょうか。朝日新聞は今では創価学会批判をほ
とんど載せなくなりました。逆に、創価学会系の雑誌や本の広
告を沢山載せています。

 こういう新聞に定期的に評論を載せることは、その評論が「
合理的思考」だとしても、新聞全体の「狂気」を覆い隠すこと
にならないのでしょうか。加藤さんは朝日新聞のこの偏向を批
判したことがあるのでしょうか。

 私はこの「部分と全体の問題」はとても難しい問題だと思い
ます。だから加藤さんが朝日新聞に寄稿するのを一概に悪いと
は思いません。私自身、朝日新聞を定期購読しています。

 NHKについても、特にイラクへの自衛隊の派遣に関しては
、それを宣伝する役割の方が強くなっていると思います。しか
し、だからといって、NHKの多くの良心的な番組が多くの視
聴者に歓迎されていることも事実です。

 何だかまとまらない文章になりかけましたが、私の言いたい
ことは、加藤さんの今回の文章を読んで、特にその結論部分を
読んで、思想家であるための条件というものを考えたというこ
とです。

 第1に、自分の経験を踏まえた考えを言わなければならない
のではないか、ということです。

 第2に、火中の栗を拾わなければならないのではないか、と
いうことです。

 たしかに加藤さんは、アメリカの今回のイラク侵略について
触れていますが、火中の栗を拾うと言うならば、将棋の名人を
1期つとめた人が引退後、教育委員になって君が代・日の丸の
押しつけに狂奔しているといったことに触れるべきではないか
と思うのです。

 私は、この意味でサルトルは本当に思想家だったと思いま
す。彼は共産党に対する自分の態度でも、スターリンの問題で
も、ベトナム戦争の問題でも、進んで火中の栗を拾ったと思い
ます。

   (2004年03月24日発行)

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