教育の広場、第260号、論争の鑑賞法
たしかにこのブログにはかなり論争があり、面白いと思います。
しかし、論争を鑑賞する(言葉が少し悪いかもしれませんがお許し
ください)場合、論争の内容だけに着目している方が多いと思いま
すが、その形式に着目するという鑑賞法もあります。
それは、司会のあり方と論争の内容との関係に着目するという態
度のことです。
このブログですと、Aさんが司会者ですが、Aさんは論争の一方
の当事者になることも多いです。その2つのあり方をどう意識し、
どう使い分けているか。それが論争のレベルとどう関係しているか
、ということを見るのです。
Aさんの場合は特別な理論があって行動しているとは思えません
が、まあこれまでの経験の中で自然に身についた態度で両者を使い
分けているようです。別に下手という程のことはありませんが、特
に優秀という程でもないと思います。
これは大学などのゼミでも同じで、教師が司会者を兼ねながら意
見も言う場合がそれに当たります。残念ながら、ほとんどの教師は
この問題についての自覚がなく、経験的に振る舞っています。自分
の立場を利用して自説を押し通そうとする人も少なくありません。
たまには自覚のある教師もいます。東芝の常務か何かをした森健
一さんという人が昔、朝日新聞に書いていました。東大の工学部で
、先生が「討論の3原則」を定めて学生に討論を奨励したが、それ
がとてもよかったので、自分も東芝でキャップになった時、それを
実行した、という話でした。
私自身、司会者のあり方と発言者の態度の問題では随分失敗もし
、その認識論的根拠について考えたものです。
(これも或るブログへのコメントです)
たしかにこのブログにはかなり論争があり、面白いと思います。
しかし、論争を鑑賞する(言葉が少し悪いかもしれませんがお許し
ください)場合、論争の内容だけに着目している方が多いと思いま
すが、その形式に着目するという鑑賞法もあります。
それは、司会のあり方と論争の内容との関係に着目するという態
度のことです。
このブログですと、Aさんが司会者ですが、Aさんは論争の一方
の当事者になることも多いです。その2つのあり方をどう意識し、
どう使い分けているか。それが論争のレベルとどう関係しているか
、ということを見るのです。
Aさんの場合は特別な理論があって行動しているとは思えません
が、まあこれまでの経験の中で自然に身についた態度で両者を使い
分けているようです。別に下手という程のことはありませんが、特
に優秀という程でもないと思います。
これは大学などのゼミでも同じで、教師が司会者を兼ねながら意
見も言う場合がそれに当たります。残念ながら、ほとんどの教師は
この問題についての自覚がなく、経験的に振る舞っています。自分
の立場を利用して自説を押し通そうとする人も少なくありません。
たまには自覚のある教師もいます。東芝の常務か何かをした森健
一さんという人が昔、朝日新聞に書いていました。東大の工学部で
、先生が「討論の3原則」を定めて学生に討論を奨励したが、それ
がとてもよかったので、自分も東芝でキャップになった時、それを
実行した、という話でした。
私自身、司会者のあり方と発言者の態度の問題では随分失敗もし
、その認識論的根拠について考えたものです。
(これも或るブログへのコメントです)