ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第 244号、ウィキペディアの人達とのやりとり

2006年10月19日 | 教育関係
教育の広場、第 244号、ウィキペディアの人達とのやりとり

 前号で述べましたように、私はウィキペディアの現状は余りにも
低すぎると判断し、自分の辞書として gooブログで「国語辞書・マ
クシコン」を始めました。

 この判断の発端となりましたのは、「ヘーゲル」の項への寄稿に
対する素人の皆さんの乱暴な「整理」でした。

 ようやく「マクシコン」にヘーゲル(邦訳とヘーゲル研究)の項
を、ウィキに投稿した原稿に加筆して、載せました。

 それと同時にウィキのヘーゲルの項の私の寄稿した部分(で削除
されなかった部分)を、私自身で削除しました。そして、この際、
ウィキの方にもこの事を述べて、「整理」とやらをしてくれた人に
、私見を説明しておきました。

 ブログの読者の皆さんにも全ての議論をお知らせします。

 私の「ヘーゲル」への寄稿に対する反応から始まります。ウィキ
には各語彙に「ノート」という欄がありますので、そこへの書き込
みです。意見番号は私が付けました。

 01, 折角ですが「主な著作」の部分は、記述を整理しないといけ
ませんね。──ケンチン 2006 年09月22日 (金)

 02, 整理しました。「訳者の姿勢は非学問的」とか「死骸をさら
す結果に終わっている」とか「虚名を高めた」とか、百科事典的で
ない表現が散見されたのでごっそり削除しようかとも思ったのです
が、ヘーゲルの各種翻訳をこれだけ詳しく比較検討できる人がいる
というのは素晴らしいことなので消さずにコメントアウトしておき
ました。

もし該当部分を執筆した方がこれをご覧になったら、どうか気を
悪くなさらずに、「それぞれの訳者の優劣」といった評価を下すの
ではなく「それぞれにどのような特色があるか」といった観点から
再度加筆していただければ、稀に見る立派な書誌になることと思い
ますのでよろしくお願いいたします。
──Darkmagus 2006年09月25日 (月)

03, (私の意見)Garkmagus さんの「整理」は「気を悪く」して
はいませんが、ひどいと思います。紙の事典と違っていろいろな人
が「個人的見解」を書いてこそ、読者がそれらを読んで自分の考え
を深めることが出来るのだと思います。これでは無味乾燥な一覧表
でしかなく、哲学するための事典ではなくなってしまいました。元
に戻してくれませんか。2006年09月29日、

 04, えーと。少しやりすぎかなとは思いましたし、当該部分を執
筆された方の不興を買うであろうことも当然予想していましたが、
その一方で自分の編集が間違っているとも考えなかったためにあの
ような形で手を加えましたので、ちょっと複雑です。

ただ、202.248.88.142さん〔私のこと〕の「「個人的見解」を書
いてこそ、読者がそれらを読んで自分の考えを深めることが出来る
のだと思います」とのご意見には賛同しかねるものがあります。

 正確にいうと、それに賛同できるかできないかに関わらず、また
「哲学するための事典」であるかないかに関わらず、Wikipedia の
公式方針としてそのような考え方は排されているためです(Wikipe
dia:中立的な観点を参照してください)。

したがって、申し訳ありませんが元には戻しかねます。取り繕う
わけではありませんが、誤解のないように申し述べておきますと20
2.248.88.142さんの執筆部分を削除することが私の目的ではありま
せん。上にも書いたとおり、これだけ詳しく書ける人がいることに
私は感服しており、(繰り返しになりますが)優劣の評価を下すの
ではなく、それぞれの特色などを中立的な観点から再度加筆してい
ただければ必ずや「無味乾燥な一覧表」以上のものになると信じて
いますので、少し表現を改めるなどして書いてほしいのです。

私の編集をひどいと感じられたことについてはもっともだと思い
ますが、上述した私の真意ならびに決して悪意があったわけでも軽
い気持ちで行なったわけでもないことをどうかご理解ください。 D
arkmagus 2006 年09月29日 (金)

 05, Darkmagus さんへ(私の今回の意見)

あなたの勧めに従って、「中立性」などの項を読みました。

 まず分かった事は、このウィキを始めたジミー・ウェールズさん
という人は、このような事に財産を投じた人ですから、それなりの
見識のある人だとは思いますが、学者ではないということです。経
歴からも分かりますが、説明の仕方でそれが分かります。

 中立性の項について言うならば、彼は認識論を知らないというこ
とです。言っている事は間違っていないと思いますが、説明が拙劣
で、理解力のない人が誤解しやすく書いています。

 あなたの誤解は次の点にあると思います。

 第1に、中立性は「百科事典」「一般用の百科事典」という目的
のための手段ないし前提条件であるという点を見落としています。
どういう百科事典を作りたいのかをほとんど説明しないウェールズ
さんの書き方も悪いですが、手段を目的と結び付けないで理解する
のは最低だと思います。

 第2に、それは3つの条件の1つであり、他の条件である「検証
可能性」及び「独自の見解の禁止」と「相補的である」という点を
見落としています。この3条件の中で科学的と言えるのは検証可能
性だけです。

 この事典(およびウィクショナリという国語辞典)はどういう性
質のものなのでしょうか。つまり、既成の紙の事典とただ媒体及び
書き手が違うだけでいいのでしょうか。

 私はそうは思いません。事典とは本来どうあるべきかから根本的
に考え直すべきだと思います。その時、フリーのウェブの持ってい
る特長が活かせると思うのです。

 具体的に言うならば、これは「正解」を教えるものでなくていい
と思います。というより、「正解」は固定したものではなくて歴史
的に作られていくのだということです。

 実際にはどうなるかと言いますと、或る事柄についてAさんが或
る記述をします。それはAさんの「個人的見解」です。この時、「
個人的見解を書くのは正しくない」としてBさんが削ったとします
。こういう事は沢山行われていますが、私は考え直すべきだと思い
ます。すべては「個人的見解」なのです。

 BさんがAさんの「個人的見解」に賛成できないなら、自分の「
個人的見解」を「異論」として書き加えればそれで好いと思います
。読者は両方の見解を知ることが出来て考えを深めることが出来ま
す。

 ウィクショナリの「逸話」をご覧になると、そのようなやり方で
異論が書かれています〔これは私が書いたものです〕。これでいい
と思います。

 つまり、この事典は「読者が自分の考えを深めるのに役立つ事典
」であるべきだと思います。そのためには、議論をそのまま載せる
ことがその目的に叶っていると思います。そして、これを可能にす
るのが紙の事典との最大の違いだと思います。

 ついでに言っておきますと、学校教育の間違いも、教師という名
の「先生」とやらが「正解」を教えると思い込んでいるところにあ
ると思います。教師の教えている事は8割は間違っています。

 いつの時代の知識も後の時代によって乗り越えられます。完全に
否定されるものもありますが、多くは完全に否定されるのではなく
て、捉え直されるのです。より正しい真理の部分として変形されて
包摂されるのです。これが認識の発展です。

 ですから、この事典に書く人も自分の「個人的見解」が絶対的真
理だなどと思わないで、「1つの見解」として謙虚に提出するべき
だと思います。

 ウィキでは寄稿者は「精通している人」と「学習しようとしてい
る人」とされています。では、この両者は同じ発言資格(発言権と
発言資格とは違います)を持っているのでしょうか。私は違うと思
います。

 「本文」に書く資格を持っているのは「精通しいてる人」だけで
、「学習しようとしている人」は疑問などを「ノート」に質問とか
の形で書くべきだと思います。これが専門家と素人の関係だと思い
ます。

 専門家の考えは全て正しいとは限りませんから、素人が疑問を出
したりするのは自由です。これをきちんと聞かない専門家が多いで
すが、それはもちろん間違いです。

 しかし、素人が専門家に質問する時はそれなりの聞き方をするべ
きだと思います。これが常識だと思います。

 サッカーの規則は18則しかないが、そのほかに「書かれていない
規則」として「常識」がある、と言われています。ウィキでも同じ
だと思います。

 ウェールズさんもこれを自覚していれば、規律に関する文章も現
在のような長ったらしいものにしないで、簡潔に必要最小限度の事
をまとめて、後は「常識」にまかせるというやり方をしただろうと
思います。

 あなたが「百科事典的でない」とした「非学問的」とか「虚名を
高めた(これは間違いで、本当は「虚名を博した」と言うべきでし
た)」とか「死骸をさらす結果に終わっている」とかいった私の表
現も、「ノート」でその根拠を質問してくれたらよかったと思いま
す。

 当の事柄に精通していないにもかかわらず本文に書き込んだり、
精通している人の書いた本文を削除したり書き換えたりした場合に
は、その人が「虚名を博して」、その後は誰にも相手にされなくな
るような常識がこのウィキの運動で確立してほしいと思います。

 最後にもう1つ。百科事典に何かを書くというなら、下書きをし
推敲して完成したものをコピーするというようにしたらどうですか
。パソコンならそれも簡単に出来ると思います。私はそうしていま
す。

 私は今回、自分の辞書として「国語辞書・マクシコン」を gooブ
ログの1つとして作りました。私は今後もウィキに協力しますから
、原則として、いったんは両方に書きますが、大きな改変をされた
場合には、私の原稿部分を削除しようと思います(この「ヘーゲル
」についてもそうしました)。小さな改変は放任しようと思います
。私の元の考えを知りたい人は「マクシコン」を見てください。

 なお、あなたが削った後の記述(今日まで載っていた記述)も「
評価」を含んでいます。特に「論理学の研究書」の所などは「偏向
」もはなはだしいものです。逆に、あなたが求めているような記述
なら、私以上の適任者がいます。本当です。調べてみて下さい。

 ウィキの運動が良識あるものに発展していってほしいと思ってい
ます。(引用終わり)

 私はこれ以上、議論はしないつもりです。ウィキとマクシコンを
平行してやっていこうと思っています。

 この次は「関口存男」の項に寄稿するつもりです。

 ブログ「国語辞書・マクシコン」
  http://blog.goo.ne.jp/maxikon2006/

ホームページ「哲学の広場」
  http://page.freett.com/philoplatz/