第二の人生を満喫!+愛犬ウィル(享年14歳)

還暦で娘・息子は結婚し孫がいます
様々な障害を抱え妻に支えられながら前向きに暮らしてます。

雑 踏 / 04’ in mid-June

2006-10-20 08:26:00 | 職場と正面から向き合って(終)
                  「人々は、ただ上を通り過ぎるだけ」


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04’6月21日(月)
妻が同行しJRで市外の病院まで通院した。
いつもは、調子が良いときに通院に行くのだが今日はあまり調子が良くなかった。
前日の夜中に発作が起き妻に救急病院に連れて行って貰い、ほんの先ほど帰ってきたばかりだ。
調子があまり良くなくても、薬が無くなるので行かざるを得なかった。

とにかくソラナックスを数錠一気に飲んだ。(何錠かは定かではない。)
妻も居るし。大丈夫だろうと思い。。。
JR快速に乗り込んだ。
乗ってドアが閉まる。
走り出す。
頭に不安が涌いてくる。助々に。少しずつ。
妻から大丈夫と目で合図される。
周りの乗客の人たちは自分が病気だというのを知らないと思った。
この中に自分と同じ様な病気か違う病気の人が、どのくらいいるのだろう。
と。考えた。
まだ、考える余裕があった。
電車が駅に着くたびドアが開閉する。
開くときはホッとするが閉まると、不安が増幅する。
頭の中に増幅器でも付いているかのようだ。

目的の駅に着く2つ前の駅から電車が走り出したとき
不安は大きくなり体に症状を出していた。
動悸。
目眩。
息苦しさ。
頭が絞められる。
手足が震える。
なんとか耐えなければ
妻も耐えてと。表情が強ばっている。

目的の駅に近づくに従い辛くなる。
もうダメか。
そう思った瞬間
意識は遠のいた。

目が覚めたら職場の病院
目の前にはI医師と妻
I医師からセルシンの静注しましたからと話された。
妻は本当に良かったとI医師にお礼を言っていた。


意識が無くなった後の話を妻から聞いた。
意識が無くなったのは目的の駅に着く5分前だったそうだ。
意識が無くなったとき電車の床で妻では起こすことが出来なかった。と。
目的の駅に着くと乗客は自分の上を跨いで降りた。と。
妻が駅員を呼び、駅員から救急車が呼ばれた。
救急車に妻も一緒に乗ると救急隊員の方から事情を聞かれ、
どこの病院に行くかと尋ねられ妻はとっさの判断でT病院に
電話しT病院に受け入れて貰えるように頼んだ。
T病院に受け入れが出来るとの連絡
T病院に着くと精神科のI医師が処置して下さったという事である。


倒れてから約3時間くらい過ぎた頃であろうか。
職場の科長Oさんが駆けつけてくれた。
自分の顔を見た第一声「大丈夫か。どうだ」
その言葉を聞き泣いてしまった。
言葉にならない声で
「すみません」と言った。
このときから科長Oさんに自分の身を預けようと思った。



この日から入院した。
妻は一旦、家に帰り入院に必要なものを準備して届けてくれた。
妻が届けてくれた感謝の気持ちより、始めての入院で気持ちが落ち着かなかった。
そして、乗客たちが跨いで降りていった他人の非情さに苛立っていた。







自傷行為 / 04’June

2006-10-20 08:25:23 | 職場と正面から向き合って(終)
                    「刃はときに狂気になる」




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「いじり」という言葉を知っていますか。
子供が物を「いじる」とかに使う言葉です。

Tという人
この職場に来たとき教材を担当していた。
一緒に仕事をしていた。

病気になってから2度の配置換えがありこの頃、部下の仕事の助手や
メモリアルルームなる資料室の仕事をしていた。
約1年、Tは何故か分からないが自分に文句を言いに来た。
文句を言う場所は決まって誰もいないとき。ところ。だ
科の中では決して言わない。 科に自分が守られているのを知っているから。
ある仕事のこと。
メモリアルルームの写真使用のこと。
その前は、消防の訓練でのこと。
Etc・・・・
一緒に仕事をしていたとき、「何か悪いことでもした」だろうか。
思い当たる節は無い。

「いじり」はレベルが低いものがされると聞きます。
「いじる」方は「いじられる」方を何とか自分の都合の良いようにするのだろうか。
持続的かつ長期的に「いじる」

Tが自分に文句を言いに来たのを目撃した人は
言われる方にも原因がある=「いじられる」方にも原因がある。と
言っていたし、組織という集団も同じだった。

1年間も「いじられる」と抜け出したく、もがくんだけど抜け出す方法が見つからない。

科長Oさんに呼ばれ「何か辛いことがあるんじゃないのか」と言われた。
「いじられた」ことは話せなかった。妻にも。誰にも。
科長と話合っている最中、「いじり」が蘇ってきた。
とっさに、机にあった刃で自分の喉を突こうとし、みんなから止められた。

死にたい
死ニタイ
死に体
自分のこころと体は殻になっていた。
魂の殺人

この後、JRで倒れたのもあり長期の入院(閉鎖病棟)になった。

Yes Man / 04' May

2006-10-20 08:21:39 | 職場と正面から向き合って(終)
               「動物世界には主体性は無いのだろうか。」



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次は、「メモリアルルーム???」なる仕事が与えられた。
資料室と言った方がいいのかな。
7割くらい完成したところで、T長に廊下で話しかけられた。
週末に見にくるという。
それを、自分の上司が聞いていたらしく
自分が、T長と直接話をし俺をないがしろにしていると言う話があった。
その上司は、自分を呼び「何を直接話しているのか」と問いつめられた。
「T長から声を掛けられました」と話したら
上司は「それだったらいい」と言って立ち去った。

その後、メモリアルルームは、とりあえず完成したが、
T長まで見て貰うまで、3人に見て貰わなければならなかった。
あの上司が見に来て、大幅に変更になった。
メモリアルルームは中断になった・・・・
考えてみれば、メモリアルルームって何だったんだ???

このとき
T長=将軍様であり、「お前ごときが直接話をしてはいけない」と無言の圧力
T長=将軍様は、何をやっても誰からも言われないし怒られない。

この組織の社会では、自分の個性や考えを持つことが自らの不利益になることを
みんな知っている。
将軍様のお気に召すような仕事をやり個性を出せば、将軍様より目立って気に障
ると大変な事になる。
不利益にならないため、目立たないようコツコツと仕事をするのが無難だと思って
いる人間は多い。

NHKの番組で社会責任制度というのを見た。
会社の評価が株の投資に繋がるという内容
社会に奉仕し安全である会社の業績は伸びる。それには厳しい基準をクリア
しなければならない。
今までのように会社員が「Yes Man」では会社の業績は伸びないという。

「Yes Man」しかいない組織は、Topの判断が良かろうが悪かろうが「Yes」
なのである。

それでは、社会に奉仕できない組織。

「職場のTOP」のこと/04' in mid-ARRIL

2006-10-20 08:19:16 | 職場と正面から向き合って(終)

           「職場のTOPが着任 桜の季節でした」

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職場の改編と同時にTOPが着任した。


T長 2004年4月19日訓辞このときの


T長の訓辞

①行為に対する責任は取ってもらう。
②訓練間の飲酒、未成年の喫煙・飲酒は禁止
③人や組織は起こしたことで非難されるのではなく 
  起こしたことに、どう対応したかによって非難される。
④迅速な意志決定と行動
⑤徹底した情報開示
⑥社会的視点からの判断


それから間もなくした2004年5月26日廊下に聞こえ
るほどの大声で部下を怒っていた。


この後、現在まで組織的に私を休職にしたT長が
自らの行為に対する責任は、いまだに取っていないし
まさか、この人に組織的に休職にさせられるとは思って
ませんでした。
今考えると言うここと行動は別なのか?


毎日の様に『お前は目の上のタンコブだ!』と言われ
続けていました。


そんなに私は邪魔なんですか?

邪魔だから休職にしたんだろうなぁと今は思います。

 

 

 


心の友(先輩、後輩) / 04' APRIL

2006-10-20 08:16:10 | 職場と正面から向き合って(終)
                     「桜は謳歌する」


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違う科に配置されてから
違う科のHさん。(先輩です)
文書のTさん。(後輩です)
に、色々と面倒を見て貰いました。

この科のHさんは
熱血っていう感じでした。
怒られたこともありましたが
面倒も見て頂きました。
具合が悪くなったとき
率先して面倒を見てくれましたし
通院のとき
必ずどうだったって聞いてくれました。
Hさんがいてくれたお陰で自分が
孤立した感じじゃなかったなぁ。。。

文書のHさんは
おとなしいんだけれども生真面目な感じで
彼女と付き合っていて正社員になったら
結婚すると言っていた。
文書の整理やスタンプ押しの仕事をくれた。
誰かの役に立っていることが嬉しかったなぁ。。。

この科のみんなと点検のときの清掃も一緒にやったなぁ
孤独にならなくて、楽しかった記憶が蘇って来くるなぁ。。。本当に

2度目の配置換え / 04’March

2006-10-20 08:13:07 | 職場と正面から向き合って(終)
                   「水晶は塵を受けず」



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水晶は塵を受けず
清廉、潔白な人が不正や不義を憎む喩えです。

2004年3月28日
職場は改組により格上げ
資料科は解散

職場のTOPも異動した。
資料科上司kは異動
自分は同じ職場の違う科へ

職場のTOPの見送りのとき、体を治せと言った。

病気になって2度目の配置換え
それも、自殺未遂後、追い打ちを掛けるように
どうして、この科なのか。と
問うても無駄なこと。
病人(障害者)は言うことは出来ない。
ただ、黙って従うだけ。

新たな科上司Oさんが言った。
「俺が科の上司でいるのは
訓練科員を守るためにいるのだと」

耳を疑った。
本当か?
以前、健康なとき下部組織の担当だった自分は
配置換えになったこの科の上司Oさんと仕事上やり合った。
自分も下部組織の人間を守るために。。。

配置換えになった科の上司Oさんから妻が呼ばれ、これからのことが話し合われた。
自分も同意した。

早速、仕事が来た。
パワーポイント作成 etc・・・

このとき、配置換えになった科の上司Oさんのことを、私はまだ信じてはいなかった。


孤独ー誰にも分かって貰えない / 04’SPRING

2006-10-20 08:09:53 | 職場と正面から向き合って(終)
               「葉が枯れる。水を欲しがっているんだ」


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職場のEさん以外、他人は誰も分かってくれない。
分かろうともしていない。
「俺は一人なんだ」「自分でなんとかしないといけないんだ」

この頃の自分の直属上司Oは、
具合が悪いとき職場の人間の車を使うな。
タクシーか奥さんに運転して貰って行け。
と言われた。
上司Oは執拗に民間の病院から職場の病院に変えろ。
指導と称して、そんな話をする。 病院を変えるのが指導or命令?
指導をEさんに変えて欲しいと上司Oに話したら
「その方が良い」  部下の面倒を見る気が無いんだ。 放棄?
今まで経済的、精神的に追いつめて最後はこれか。
病気になり資料科に来て、上司Oは一度も見に来てはくれなかった。

資料科の上司K
睡眠障害。。
同じような病気なはずなのに
衝突する。
殆ど同じような精神病だ。
精神病者同士が何が辛いのかを気付かなくなったり
一方の病気が良くなっていけば人間の本質が出るのか。
仕事という名の下での強制(押しつけ)が気に留めることなく行われる。

この環境での「不信感」「猜疑心」は不安を増長する。
不安と毎日、闘っている自分は押しつぶされそうになる。

やはり信じれるのは自分
独りしかいないのか。

自殺未遂をしてからは孤独に苛まれました。
そんな時、心の支えになったのは家族だけです。



死ぬとき / 04’WINTER/FeeL a sign o f SPRING

2006-10-20 08:06:37 | 職場と正面から向き合って(終)
                   「時は、ただ過ぎて行く」


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「答えも出ないこと」や「何の解決もしないこと」を頭の中で堂々巡りをする。
「何を考えているのか」と聞かれても、自分でも何のために考え何を考えているかも分からないただ、何かに不安があり、それが自分に考えさせ出口の見えない堂々巡りをさせている。


確かに、症状は以前よりも良くなっていて回復の兆しは見える。
大きな発作が減っても、目に見えない不安が自分を苦しめ、家族を苦しめている。
遣りきれない気持ちになる。
自分という存在そのものが自分から離れていき頭の中は混乱する。
人格が。病気が。
そうさせているのか? 何がそんな気持ちにさせているのか? 分からない。。。


時に意味もなく怒ってみたり、そうかと思うと泣き、笑ってみたり
俺は一体どんな人間なのか? こんな人間が正常と言えるのか?
完全に治るという保証はどこにも無い。
こんな状態が、あと何年も続くと考えただけでも恐怖と不安
そして訳も分からないものと闘う自分がいる。


発作が起これば病気の妻や子供たちに看病してもらう。
自分一人では何もできない腹立たしさと悔しさ、情けなさが込み上げてくる。


母親は電話口で泣きそうな声で病気が早く治るように願を掛けていると言った。
涙が出た。


こんなにも多くの人に支えられているのに迷惑ばかり掛けている。
何をどうして欲しいのか自分でもわからず、ただ訳も分からない不安が無くなって欲しい。


昨日も今日も、それ以前から、これからも、この不安は堂々巡りをさせる。
周りの人を不幸にしている。


もう。嫌だと思った瞬間、自殺しようとして川に飛び込みました。
こどもと他人に助けられた。
こどもが泣きながら、俺の服を引っ張っていたのを記憶にある。
その後は、意識がなく、気がついたときは、病院のベッドの上でした。
なぜ?生きてるのか。涙が出た。



数日して、病院から退院家に着くと、こどもが妻にすがって泣いた。
自分は部屋に戻り、どのくらいの時が過ぎたか分からないが
涙が込み上げ、泣きました。



苦しさに負けた自分に。



「死のう」と自殺未遂・・・


職場は、それを知っていながら、ただ見ていただけでした。


こんな職場に25年もいたのかと無念さが込み上げて来ました。


組織の一員として / 03'-04' winter

2006-10-20 08:03:13 | 職場と正面から向き合って(終)
                  「大空は大きいと感じた」


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03’も終わろうとしていた。 03’12月にドグマチールが増えた。
薬の量が増えている。  本当に治るのか。
パキシル30mg、ソラナクッス、リボトリールそしてドグマチール50mg
      
資料科の仕事は相変わらず、何をやっているのかよく分からない。
周囲からは、「タバコを止めろ。」等とストレスが掛かることを言われる。
仕事をしているというより、机にいると言ったほうが良いかも知れない。

パニック障害を発症してから約3ヶ月である。
なぜ、発作が起こるのか? 原因を考えた。
① 妻と口論のとき
② 動きすぎて疲労が蓄積しているとき
③ 上司から不安を与える言動があったとき
④ 薬が合わないとき
      
発作防止のためのソラナックスの使用法を考えた。
多用は、疑問であるが、不安や恐怖の感じがするとき、前もって飲んでいた方が良いかも知れないと考えた。

生活サイクルについても考えた。
①  疲れ、薬が切れかかるとき、発作症状が出やすくなる。
②  生活サイクルで余りストレスを受けない。無理しない。
③  確実に薬を飲む。
④  疲れと緊張があるとダウンし、起床が早くなる。
    
04’の干支は「甲伸(さる)」
1月2日に寝る前に気付いたことがある。
自分は、「その場」での対応力の無さにふと気付いた。それで、どうすれば良いのか考えたら
① 「急な対応」は状況が分からないので、まず「人の話を良く聞く」そして、状況を確認する。
② 状況を確認したら、後日「状況判断」する。

1月3日に風呂場で気付いたことがある。
もしかしたら、自分は以前から病気だったんではないか。それで、何かにとらわれ、こだわっていたんじゃないか。
       
こだわっていたこと
① 他人の性格や行動、仕事、たわいもない些細なこと
② それが、自らを追い込み縛り続けていた。
③ だから、頭の中は、こだわりで一杯だ。
④ こだわりで、頭の切り替えが出来ない。
⑤ すぐに、行動出来ない。
⑥ 結果、その場での行動が出来ない。

    
  「こんな小さなことを考えるのは,苦しいから。
 
      この苦しさからどうやっても逃れられないから。
  
         苦しくても、家族のため組織の人間として
  
              やらなければいけない自分がいる。」

他の科へ異動!04’

2006-10-20 08:00:00 | 職場と正面から向き合って(終)

 

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2004年(平16)3月23日(火)

資料科から、また違う科へ異動した。

この異動した科には現在も籍を置いています。

 

この頃、職場の改組に伴い職場の長も交代である。

予定は

同年3月28日(日)科の廃止式

同年3月29日(月)組織完結式

であった。

 

勤務環境が変るのは、私自身の病気からしても

すぐには対応出来ませんでした。

それよりも

新たな科になることで、私を知らない人が多くいたという

事でした。

職場の改編は、2つの組織が一つになることでした。

前からいた職場の人は私を分かっていましたが、

もう一つの別の職場の人は私を知りませんでした。

 

しかし

2004年(平16)3月、4月は、それなりの

仕事が貰えたときでもありました。

それは

O科長が妻と話し合いをして貰い、

病気を理解して貰えたからにほかなりません。

 

2004年(平16)3月31日に新しく着任したT長の挨拶がありました。

また

新しく私を知らない人からは、

『健康を害しているのに、何故たばこを吸っているのか。

 本当に治す気があるのか!』と正面から毎日のように

言われました。

それに対し、

私は心の中で「耐えるんだ」と言い聞かせていました。

『病気だから仕方無いんだと』心の中で念仏のように唱えていました。

 


2004年(平16)年1月の勤務は

19日間の勤務中

発作3回(1/8日,1/14日,1/22日)であった。

原因は対人関係でした。

 

2004年(平16)年2月の勤務は

20日間の勤務中

発作3回(2/3日,2/4日,2/5日)

原因は分からない。

 

2004年(平16)年3月の勤務は

23日間の勤務中

発作2回(3/4日,3/29日)

原因は、組織の改編が影響していると思われる。

 

この期間、体力が落ちていたので

片道約3Kmを駆け足(徒歩)通勤をしていました。

とにかく

1日も早く病気を治したい一心でした。

 

次回は着任して来たT長について書きます。

 

 

 

 


配置換え  資料科? / 03’autumn/winter

2006-10-20 07:55:54 | 職場と正面から向き合って(終)

   「秋風から運ばれた赤く色づいた葉は晩秋を知らせてくれる」

 

 

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突然の配置換えまで

出勤は妻の付き添いで2ヶ月(9月~11月)ほど続いた。 

朝夕の付き添い。

1人で車を運転できない。

発作で職場に1人で行くのが不安  

行動範囲がまた狭くなっている。

職場ではただ、ただ机にいるだけ。 

人形のように。発作のときは机にうつ伏せになり耐える。 

周りは坦々と仕事 なぜ自分が・・・      

 

 

2003年9月2日(火)

資料科に、2004年3月22日(月)まで在籍

その後、資料科が廃止になった。

 

職場の改組のために資料科を新設し職場の記念誌を

作れとの事である。

 

突然であった。

どこに なにを なにをすればいいのか?

臨時に出来た科(病人の集まりの場?) 

上司は睡眠障害 

部下は健康だが、高血圧

私を含め科員は3名

 

史料の編纂が仕事? 

何かよく分からない。 

虚しい。 

障害者?だと思っているからか・・・

 

 

仕事で上司は、何故か?職場のトップに怒られている。 

理由はよく分からないが何度作成して持って行っても

ダメだと怒られたと言っていた。

部下は、いじめだと常に言っていた。

本当に記念誌が作れるのか不安だったが

職場の長も2004年3月に転出だったので

何とか記念誌は2004年2月末には、出来上がり

パソコンで作成していたのでプリンターで印刷し、

3月19日(金)までに7部印刷を終了した。


資料科の上司や部下も頑張れと言い残し転出した。


私はこの後、またまた突然、違う科に配置換えを

命ぜられました。

      

 

このときの通院は週2回 

市外の病院へ妻の付き添いで

薬はこの2ヶ月(9月~11月)で

パキシル30mgに増え、

ソラナックス、リボトリール

体重は60kgから55kgへ身体がきつい。      

 

 

日々が不安との闘い。 

どうなっているのか?

この2ヶ月(9月~11月)で救急病院のお世話に

ならなかったのは十日間だけ。

 

この頃の心境は、

『晩秋から移りかわる初冬の空は重く感じる。

 自分のこころも。』 

という感じであった。

 

 


病気や人間関係との闘いの始まり

2006-10-20 03:00:00 | 職場と正面から向き合って(終)

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前回までは、

「予兆」や「病名」が分かるまでの事を書きました。

そして

『2003年(平15)7月31日を始点として

病気との闘い

心ある人の応援と病気を理解しない人との狭間にあっての

職場での人間関係での闘いでもありました。』

と前回は言いました。

 

2003年(平15)8月1日(金)から12月31日(水)までを

書きたいと思います。


札幌のK心療内科で「パニック症候群」と診断されました。

服薬について

8月30日(土)まで

パキシル   20mg

リボトリール  1mg

ソラナックス   頓服(0.4mg)

 

8月31日(日)から12月31日(水)まで

パキシル   30mg

ソラナックス   頓服(0.4mg)

ツムラ黄連解毒湯エキス顆粒7.5g

 

仕事(出勤)状況について


仕事(出勤)すべき日数 89日
                ↓
(夏季休暇、年末年始休暇、土、日、祭日などを除く。)

仕事(出勤)日数     80日

休んだ日数         9日(具合悪く通勤出来ず。)

休んだ日の処置は、有給休暇処置
               


 

配置換えなどについて


9月2日(火)資料科(新設)へ配置換え → 病人を隔離した部屋な感じ。。。

 

選挙における投票などについて

11月9日(日)衆議院選挙の投票

 


大まかに

2003年(平15)8月1日(金)から12月31日(水)まで

を外観しました。

特に

9月2日(火)に病気を発症した部隊から新設された臨時の

資料科というところに配置換えになりました。


病気である私を直接、応援してくれた方は、

この当時、E総務科長でした。

この方が居なければ、今の私は無いという位、

お世話になりました。

具体的には、

配置換え先には、保健室のような場所が無く

仕事中に具合が悪くなったら、机に俯せになるしか

なく、その都度、上司から指導を受けていました。

それを

健康管理室のベットを使えるようにして頂いたり、

家族や私の悩みをE総務科長夫妻が相談に乗って

くれましたし、職場の長にも掛け合ってくれました。

感謝しています。

 

配置換えの前の職場

資料科に来る前の職場は、

病気が発症後、

補職をすぐに換え、私は宙に浮いた存在になりました。

そして

同僚から仕事も無いのに、

毎日のように仕事をしろと言われていました。

それを上司が、ただ見ているだけでした。

また

上司は、札幌のK心療内科の通院から職場の病院へ

変えるよう強く言って来ました。

その度に、妻から話をして貰いました。

 

2003年(平15)7月22日に発症してから

配置換えになる9月2日まで

私は、針のむしろでしたが、

妻や子らのため

そして

生活のため

と耐えるしかなかったと思います。

ときに、

理不尽な対応から激怒したこともあります。

そんなときは、周りから止められ、

上司から強く指導を受けました。

「病気である」が故に

何を言われても仕方がないと思っていました。

 

 

次回は、配置換えになったときを書きたいと思います。

 

 

 


病 名 / 03'summer

2006-10-20 02:45:27 | 職場と正面から向き合って(終)

    「枯葉の中に、はたして命の息吹が宿っているのだろうか」

 

この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。
投稿日時も、そのままにしています。

過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。

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前回は、

2003年7月31日、朝3時頃に具合が悪くなり

市内のC救急病院へ行った後その日の朝一番で

札幌のK心療内科に妻に付き添われ電車で行き

状況を妻から医師へ話をした。

医師から「パニック症候群」と診断され、

医師からの説明は、気長に行きましょうと話されました。

そしてパキシル、ソラナックス、リボトリールを処方された。

職場への説明は妻からして貰ったくらいのところまで書きました。

 

札幌のK心療内科には、病院の重複もありますが

2004年(平16)7月頃まで、広場恐怖のため

妻に付き添われながら通院しました。

 

病気が分かった安堵感といつ治るのか分からない

不安感が交錯しました。    

 

病気が分かった心境を文字にすると

『夏から秋の気配が木々から感じ取れた。 

 枯葉が風で揺られ落ちていくのを立ち止まり見ていた。』

こんな感じです。

妻も同じ気持ちだったのかな?

 

2003年(平15)7月31日を始点として

病気との闘い



心ある人の応援と病気を理解しない人との狭間にあっての

職場での人間関係での闘いでもありました。

 

 

 

 

 


発 症 / 03' July 

2006-10-20 01:00:00 | 職場と正面から向き合って(終)

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「しゃくやくは、毎年おなじ花を咲かせてくれる。季節を知らせ感じる」

 

 

1996年(平8)から2002年(平14)までの7年越しの

「予兆」は、2003年(平15)に医師の診断により発症

していることを知ります。

 

2003年(平15)7月22日夜8時頃のこと


仕事から帰ると妻と2人の子どもたちがいる。 

いつも通りの光景帰って制服から日常着に着替える。 

何も変わってはいない。

応接椅子に座り夕方のニュースを見る。

事件が多いなと感じる。


妻が夕食を持ってくる。  

子どもたちは口喧嘩  

元気だ。


風呂に入り1日の疲れを落とす。 

妻は食器を洗っている。

風呂から上がって椅子に座る。 

妻がビールとコップを持ってきた。

妻から注がれながら今日も一日が終わったと感じる。

瞬間急に動悸がする。 


何だ! 慌てた。息苦しい。息が出来ない。

意識が遠のいていく。憶えていない・・・


救急車が呼ばれ市内のC救急病院に運ばれる。


気がつくと病院のベット 

心配そうに妻が傍らにいた。


妻から心電図、血液検査は異常なし。 

過換気症候群と聞いた。


右腕が鬱血 点滴痕 少し痛む。

病院から出ると太陽は昇りかけていた。

まだ、ふらふらする。 

点滴か?


妻に運転してもらい家へ帰る。

家に帰り朝食、ふらふら感はない。

救急病院以外はいつものように出勤       

心の奥底に不安感を感じていた。 

なんの病気か?

 

同年、7月31日朝3時頃のこと


肩胛骨が痛み眠りから醒めた。

起き上がろうとしたが起き上がれない。

寝返りも出来ない。


声は出せる。

妻に「肩胛骨が痛い」と叫んだ。

妻は起きて「大丈夫」と言った。

私は「病院へ連れていって」と言った。

 

市内のC救急病院へ連れて行って貰った。

X線などの検査では異常なし。

原因が分からないまま、処置は無く帰宅した。


その日の朝一番で

札幌のK心療内科に妻に付き添われ電車で行く。

状況を妻から医師へ話をした。

医師から「パニック症候群」と診断され、肩胛骨に

ブロック注射をし、ソラナックスを飲んで少し寝ました。

寝ているとき、

パニック症候群」って何?と思っていました。

 

午前中には、肩胛骨の痛みが取れて、若干回復し

札幌から帰り、そのまま着替えて出勤した。

午後から、まずまずの調子だ。

夜6時に仕事中、職場において過換気になり職場

の車で市内の救急病院に運ばれた。

市内の救急病院では、心電図をとりホリゾンの点滴

の処置

 


この日から

パニック障害の治療と

職場における病気の説明が始まりました。

とりあえず、職場への説明は妻からして貰いました。

 

 

 

 


予兆 ⑤

2006-10-20 00:50:00 | 職場と正面から向き合って(終)

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いよいよ「予兆」と言えるのも最後になりました。

 

2001年(平13)12月頃に、家で強い動悸に襲われ

市内のC救急病院へ妻に連れて行って貰いました。

このとき過換気症候群と診断されました。

ストレスが原因で起こることがあるとの事でした。

 

行動半径も飛行機や狭いところがダメだったのが、

気がつかないうちに徐々に電車に乗れなくなり映画館

でも動悸や目眩に襲われました。

 

病院巡りも心臓・循環器から始まり、内科、脳外科など

2002年(平14)には、数十カ所に及んでいました。

 

この2年間は、過換気症候群に苦しめられながらも、

何とか勤務をこなしていました。

上司に「過換気症候群でした」と報告しても

「あ!そっ」の返答でしたし部隊の健康診断でも異常

無しでした。

 

 

過換気症候群という聞き慣れない病気を診てくれる

病院が精神科であるとは、調べて知っていました。

精神科は私にとって、敷居が高い場所で行くことは

この時、ありませんでした。

 

 

2003年(平15)には、遂に医師の診断により発症

していることが分かりました。

また

このときから症状は、更に酷くなり救急車のお世話になりました。