今日(8月23日)は会津人にとっては忘れることのできない日です。
「今日は何の日」ネットで検索したら、一番に「白虎隊自刃の日」と出てきました。それででしょうか、ラジオでも「今日は何の日、白虎隊自刃の日」と紹介していました。「白虎隊自刃の日」が150年以上経った今日までこうして語り継がれていることに、会津人としては喜びです。
旧暦の8月23日は、新暦ではもう10月8日でした。北国の会津では秋雨が降り、肌寒い日だったのです。
前日、母成峠が破られ、西軍が猪苗代に突進してきた。
会津藩としては、成人部隊は日光、越後方面に出払っていたため、残っていたのは少年と老人だけ。まさに風雲急を告げ、君公(松平容保)自ら、老人と少年の白虎隊を率いて滝沢本陣に向かった。
わが家の先祖の牧原一郎(300石)は63歳、隠居の身だったが、殿(松平容保)の供廻りとして滝沢本陣まで出向いた。そして白虎士中二番隊の50名と、僧侶や神主、相撲取り、郷士、百姓まで駆り集めて総勢数百名が戸の口原に散開して塹壕を掘った。
弟の牧原奇平 (150石) 61歳は、郡奉行として強清水(こわしみず)に向かい、近郷の村々からの食料調達に回った。しかしすでに村々は焼き払われ、食料の調達はままならなかったようだ。
戸の口原に布陣していた白虎隊は 「隊長 日向内記が強清水まで食料調達に出かけたまま帰らず、氷雨降る中、空腹のまま一晩を過ごした」と生存者の飯沼貞吉は語っている。
その晩から翌23日朝にかけて、西軍の砲撃は激しく、所詮、鉄砲も刀も持たない農民、僧侶たち、敵の砲撃に為す術もなく逃散してしまった。牧原奇平は、その責任を負って、強清水で自刃した。
昭和35年ころだったか、強清水村の県道の傍ら、小高くなっているところに、村人たちが、戦死した会津藩士22人と16人を埋葬したという塚が発見された。
牧原奇平も たぶんここに埋葬されたのであろうということになった。
牧原一郎は 敵が滝沢峠を越えてきたとの報に、「急ぎ殿を城へ!」と配下の者に命じ、「自分は老齢の身、逃げるにも殿の足でまといになっては」と、その場で自害しようと脇差で喉を突いた。すると君公は「君 あわて早まるなかれ」と一声かけ、城へ向かって馬を走らせた。牧原一郎は殿の言葉に感激し、血の噴き出る首を抑えながら甲賀口の自邸にまで引き上げ、家にいた孫の豊四郎に介錯を頼んで絶命した。
牧原邸の隣家が「井上丘隅」。TBSの 年末時代劇『白虎隊』では、森繁久弥が演じた。ドラマでは、井上丘隅は最後まで生き延びるが、事実は井上丘隅も甲賀口の戦いで自刃する。
ドラマでもあったように、甲賀口を守ったのは年寄りと子供たちだった。あのシーンは一番泣けた。
■土佐藩士「氷室隼人」の手記に「この時の(甲賀口の)戦に、七十歳ばかりの老人 槍を引っ提げ躍り出て、味方の一人を刺し、引き込む槍の石突で他の一人の腰を突いたので、遂に鉄砲で撃ち倒した。
それと同時に十四、五歳の少年が 槍を構えて手向かって来たので、其奴を生け捕れ、生け捕れと叫んだが、またぞろ一人が刺されたので、鉄砲で射殺した。
その夜は 酒の宴に その少年の首を大皿に乗せ、“愉快極まるこの夜の酒宴、中にますらお美少年”と歌って、一同、大いに酒を飲みほした」と。その老人と少年は、甲賀口郭門の門番役 佐藤與左衛門(74歳)と孫の「勝之助」十四歳であった。
井上丘隈の娘が、青年家老「神保修理」の妻となった雪子。神保修理は、鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜と松平容保が将兵を置き去りにして江戸に逃げ帰った責任をとらされて切腹。西軍の乱入に雪子は薙刀を振るって防戦するも、敵に捕らえられ、「辱めを受けるよりは」と自刃する。会津戦争中最も悲劇の1シーンだ。
こうした混乱の中、飯盛山で 白虎隊士 の何人かが自刃した。
当時、牧原勘太輔の妹として、会津坂下町中町に住んでいた。
同御池田村の佐藤家(御供番百石)に嫁ぎ、佐藤家は、武田家の貸家に入り、忠孝は小学校の教師をしました。
武田家は農民の力士隊長白糸惣吉で、後妻に士族の妻を迎えました。次男の武田惣角が、大東流合気柔術を創始した武術家で、近代最強といわれ、私が本を書きました。次回作も発表予定です。
農民の身分を隠したために、子孫の代になった身近な関係者は史実から消されてしまいました。忠孝の六女ノブが教師をして百歳まで生きて先祖のことが明らかになりました。
やおさんは忠孝との間に、三男六女が生まれ、明治40年3月14日死去(50歳)零号八尾姫 青津村亀ヶ森墓地とあります。
その後、隣の青木村に移転し、正徳寺に佐藤家の墓があり、やおさんの銘があります。
子孫佐藤家の家がありますが、時江さんは高齢のため子供がいる京都におられるとお聞きしました。
戊辰戦争前の若松城下絵図には、甲賀町口の金撞堂前に「牧原一郎」の名がありました。