現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

怖い女の嫉妬

2021-07-19 20:07:25 | 会津藩のこと

会津藩祖保科正之が「婦女子の言は一切聞くべからず」と
家訓に遺したにもかかわらず、3代藩主正容も、側室に
苦しめられた。

正容の正室は輿入れ後2年あまりで亡くなっている。
それで、正容は6人の側室を召抱え、9男4女をもうけた。

この正容の6人の側室のうち4人が、男子を産んだ後、
家臣に下げ渡されるという、特異な事件があった。

殿様が参勤交代で江戸詰めの時、「お祐」と「おもん」の
二人の側室がおり、相手が懐妊すると、呪詛するなど、
火花を散らしていた。先に懐妊したのは「おもん」だが、
あまりの気性の激しさに、殿の勘気を被り、「おもん」は
会津に移され、御使番神尾家に下賜された。しかし
「おもん」は逆上して、夫に連れ添おうとはせず、扱いに
困った神尾家では 17年も「おもん」を座敷に押し込める
こととなった。

「おもん」は自分を下賜させた側用人の杉本源五右衛門と
牧原只衛門を呪詛し、両家とも嫡子が早世し断絶した。
この話は柴田錬三郎の『妬心』と、柴桂子の『会津藩の
女たち』に詳しく書かれている。

側室「お吉」は第5子正房を生んで、家臣 堀半右衛門に下賜された。
「おれつ」は第6子万吉を生んで、篠沢儀右衛門に。
「お佐久」は第8子容章を生んだ後、下賜される前に自ら進んで
宿下がりし、兄の下に身を寄せた。

「お佐久」が容章を産む前、「お市」が第7子「容貞」を産み、
物頭笹原家に下賜されていた。

当時は子供の成育はなかなか難しかった。次々に早世し、順番で
「お市」の産んだ容貞が、4代目藩主となった。そこでまた悲劇が
起きる。「藩主の生母が家臣の妻でいるわけにはいかない」と、
「お市」が嫁いだ 笹原家は お家断絶、離縁させられるのだ。

さて、「下賜妻」とは、殿様の身勝手と思い込んでいたが、柴桂子
女史の『会津藩の女たち』を読むと、事の真相が明らかにされている。

3代藩主「正容」の最初の側室「お祐」の嫉妬だ。
側室のうち「お祐」だけが 江戸の下屋敷におり、他の側室は、皆
会津にいる。殿様が会津に帰国した時だけの側室だった。そして、
男児を出産すると「お祐」の指図で、子供を取り上げられ、家臣に
下げ渡されていたのだ。

結果的に「お祐」の生んだ子は二人とも早世してしまって「お祐」は
世継ぎの母親にはなれなかったが、側室を家臣に下賜することで、
側室が生んだ子を引き取り、正容の正室の如くふるまっていたのだ。
おそるべし。

「お佐久」の生んだ末子容章は、分家として76歳まで生き、その孫
容住 が会津6代目藩主となっている。


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