現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「松平容保」の正室・側室たち

2013-01-02 21:36:09 | 会津藩のこと
テレビ『白虎隊』では、会津藩主「松平容保」と
義姉の「照姫」とが懇ろの関係であったかのように
設定しているが、それはジェームス三木の作為。
では「容保」に妻や側室はいなかったのか。

「容保」は病弱だったため、“おなご”を寄せ付け
なかったかのように、どのドラマも描いている。

「容保」の女性関係に触れた本は ほとんどない。。
ところがどっこい、Wiki-pediaには載っている。

正室は 8代「松平容敬」の娘「敏姫」。「容保」は
「8代松平容敬」の娘と婚約し、婿養子だったのだ。
その正室「敏姫」は早世し、継室は「前田慶寧の娘
浦乃局(礼姫)」。

側室もいた。佐久田代孫兵衛の娘「佐久」と、
川村兵衛の娘「名賀」。継室、側室の3人については
「会津通」の私でも、書いたものを見たことがない。

そして、会津が開城した翌明治2年(1869年)6月に
側室の「佐久」が「容大」を出産している。
会津戦争のさなか、殿様は側室と同衾していたのだ。
このことはタブーなのか、どの本にも書かれていない。

養子の「喜徳」こそ気の毒。会津戦争の時の名目上の
「藩主」で、辛酸を舐めさせられ、「容大」が生まれ
たら、水戸に帰されたのだから。



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2 コメント

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古い記事に恐縮ですが (通りすがり)
2013-08-15 17:54:59
僭越ながら、少し引っかかったことがあったので調べてみました。

容大の生年月日から新暦・旧暦の誤差を計算しつつ受胎日を逆算すると、側室の佐久が長男を身篭ったのは新暦9月11日に一番近い排卵日の前後三日間ということになります。
慶応四年(明治元年)には閏月がありますので、旧暦で言うと7月25日前後2~3週間ぐらいの間の排卵日ということになりますね。

これを史実に照らし合わせますと、容保は旧暦7月28日に藩兵の士気を鼓舞するため白虎士中一番隊を扈従し津川方面へ出馬、高久村の本陣に到着していますし、その後野沢村へ移り、城へ戻ったのが旧暦9月28日ですから約2ヶ月間、戦場に篭もり城を留守にしたことになります。
この事実より、当時の常識的に考えて戦場での殿様の世話役は小姓の勤めでありますし、側室が戦地の本陣にまで出張ることはありえないので、おそらく受胎されたのは7月28日より前だということが推察できますよね。

つまり二本松が陥落(7/29)する前であり、新政府軍が新潟の長岡藩攻略に苦心し、奥羽列藩同盟もまだどうにか頑張っていたときに当たります。
ですからその時期に容保が側室と同衾していても、なんら不思議なことではなく、部下たちの士気にも影響があるとも思えませんが…。

むしろ既に養子を迎えていたとて、汚名を雪ぎお家の血を繋ぐことが武家の頭領の務めでもあるので、家臣たちがそう熱心に進言したことも充分ありうると思います。

ちなみに継室は浦乃局ではありません。
文久2年(1862年)10月に加賀前田家の14代藩主前田慶寧の長女と婚約、11月に幕府の許可を得た禮姫です。
しかし12月に京都守護職として上洛し京に長期滞在したため婚儀は延期され、戊辰戦争の会津降伏、容保長男・容大の誕生などを経て、明治4年(1871年)、正式に婚約解消したとされています。
禮姫は金沢に在住したので容保と逢うことは無かったそうです(後に榊原政敬に嫁いでいる)。

浦乃局(関山通子)は、柴桂子『会津藩の女たち』で会津松平家に奉公し、側室だった可能性をあげられておりますが、公式記録にはありません。

Unknown (通りすがり)
2013-08-15 18:22:06
それともうひとつ。
喜徳は「容大」が生まれたから、水戸に帰されたのではありません。

明治6年(1873年)8月11日、実父の徳川斉昭(元・水戸藩主)の二十二男である前松川藩知藩事・松平頼之が死去したため、8月22日に喜徳は容保との養子縁組を解消し、己の実弟である頼之の養子となって、その家督を相続したはずですが。

史実を知らない方が読まれたら色々誤解を招きかねない記事でしたので、老婆心ながらコメントさせていただきました。
お気に障りましたら申し訳ありません。

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