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現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

婦女子の言は一切聞くべからず

2021-07-19 20:08:19 | 会津藩のこと

会津藩祖保科正之が定めた『家訓』15箇条

その第一条は『大君の儀一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処するべからず。若し二心を懐かば、すなわち我が子孫にあらず。面々決して従うべからず』

大君すなわち徳川将軍家にはひたすら忠勤に励み、決して背いてはならないというもの。これが幕末

他国の例にならって決めるべからず。徳川宗家に背く者は我が子孫に非ず。家臣の面々はそのような藩主には従」というもの。

 

その中に「婦女子の言は一切聞くべからず」の

一条を定めた。それは正之の室「聖光院お万」の所業に懲りたからだ。

「聖光院お万」は京都上賀茂神社の神官の娘で、東福門院和子の侍女
だった。東福門院和子は、徳川秀忠の五女。後水尾天皇の后として入内
していた。尚、保科正之も秀忠の子であり、和子の兄となる。

そんな関係からか、正之の室となったお万は、なにかと藩政に口出しを
するようになった。

さらに、とんでもない事件が起きる。お万の娘「媛姫」は上杉 30万石に
嫁いでいたが、側室の生んだ「松姫」が加賀100万石前田家に嫁ぐことと
なり、お万は、嫉妬して「松姫」を毒殺しようとしたのだ。


「松姫」が婚礼の挨拶に訪れた際、「媛姫」も同席して食事となった。
「松姫」の膳に毒を盛ったのだが、松姫の侍女が機転をきかせて、
「媛姫様の方が姉君ですので、どうぞお先に」と、毒の入った膳を「媛姫」
の方に回した。そのため、お万の娘「媛姫」の方が死んでしまったのだ。

この事件で、家老の成瀬が閉門幽閉となったが、「お万」はお咎めなし。
その代わり、正之は、女の業の恐ろしさに「婦女子の言は一切聞くべからず」
の家訓を遺したのだったが・・・・。

正之が亡くなり、お万の子「正経」が二代藩主となると、お万は、藩主の
生母として、ますます藩政に口出しするようになった。家老たちは正之公の
『遺訓』を盾にとって、必死に抵抗したが、お万は、甥の藤木弘隆を京都から
呼び寄せて家老に取立て、その妹を筆頭家老 保科民部正興に嫁がせて、藩政を
牛耳ろうとした。

ところが、藩主正経は病弱で、弟の正容に三代目を譲って早世してしまう。
三代目の藩主となった「正容」は側室の子だった。そうなると「お万」の
権勢は地に落ち、お万は江戸の上大崎に閑居、甥の藤木弘隆はお役御免と
なって京都に帰る途中亡くなり、保科民部は水沢村に幽閉となった。

さて、元禄3年、お万は71歳で淋しく生涯を閉じた。葬儀に藩主「正容」が
参列し、帰ろうとしたところ、「棺の中から青白い手が伸びて、正容の袴の
裾を掴み、棺に引きずり込もうとした」という怪談話まで伝えられている。

これって、まさに『鳥刺し』のラストシーンではないか。

と ここまで書いて、「投稿」をクリックしたら、突然画面が真っ白に
なって消えてしまった。一瞬からだが凍りつき、頭がクラクラしてきた。
再度 初めから書き直した次第。女の恨みはおそろしや、ゾォー。





怖い女の嫉妬

2021-07-19 20:07:25 | 会津藩のこと

会津藩祖保科正之が「婦女子の言は一切聞くべからず」と
家訓に遺したにもかかわらず、3代藩主正容も、側室に
苦しめられた。

正容の正室は輿入れ後2年あまりで亡くなっている。
それで、正容は6人の側室を召抱え、9男4女をもうけた。

この正容の6人の側室のうち4人が、男子を産んだ後、
家臣に下げ渡されるという、特異な事件があった。

殿様が参勤交代で江戸詰めの時、「お祐」と「おもん」の
二人の側室がおり、相手が懐妊すると、呪詛するなど、
火花を散らしていた。先に懐妊したのは「おもん」だが、
あまりの気性の激しさに、殿の勘気を被り、「おもん」は
会津に移され、御使番神尾家に下賜された。しかし
「おもん」は逆上して、夫に連れ添おうとはせず、扱いに
困った神尾家では 17年も「おもん」を座敷に押し込める
こととなった。

「おもん」は自分を下賜させた側用人の杉本源五右衛門と
牧原只衛門を呪詛し、両家とも嫡子が早世し断絶した。
この話は柴田錬三郎の『妬心』と、柴桂子の『会津藩の
女たち』に詳しく書かれている。

側室「お吉」は第5子正房を生んで、家臣 堀半右衛門に下賜された。
「おれつ」は第6子万吉を生んで、篠沢儀右衛門に。
「お佐久」は第8子容章を生んだ後、下賜される前に自ら進んで
宿下がりし、兄の下に身を寄せた。

「お佐久」が容章を産む前、「お市」が第7子「容貞」を産み、
物頭笹原家に下賜されていた。

当時は子供の成育はなかなか難しかった。次々に早世し、順番で
「お市」の産んだ容貞が、4代目藩主となった。そこでまた悲劇が
起きる。「藩主の生母が家臣の妻でいるわけにはいかない」と、
「お市」が嫁いだ 笹原家は お家断絶、離縁させられるのだ。

さて、「下賜妻」とは、殿様の身勝手と思い込んでいたが、柴桂子
女史の『会津藩の女たち』を読むと、事の真相が明らかにされている。

3代藩主「正容」の最初の側室「お祐」の嫉妬だ。
側室のうち「お祐」だけが 江戸の下屋敷におり、他の側室は、皆
会津にいる。殿様が会津に帰国した時だけの側室だった。そして、
男児を出産すると「お祐」の指図で、子供を取り上げられ、家臣に
下げ渡されていたのだ。

結果的に「お祐」の生んだ子は二人とも早世してしまって「お祐」は
世継ぎの母親にはなれなかったが、側室を家臣に下賜することで、
側室が生んだ子を引き取り、正容の正室の如くふるまっていたのだ。
おそるべし。

「お佐久」の生んだ末子容章は、分家として76歳まで生き、その孫
容住 が会津6代目藩主となっている。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

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『鳥刺し』 と 保科民部

2021-07-19 20:06:25 | 会津藩のこと

藤沢周平原作の『必死剣鳥刺し』で、「保科十内」と
「津田民部」という名前が登場する。会津藩家老の
「保科民部」の姓名が分けて使われている。

偶然か、あるいは藤沢周平は意図的に この名前を使ったか。

保科正之が会津藩祖となる前、山形の藩主だった時のこと。
隣の白岩領(現寒河江市)で農民一揆が起きる。映画『鳥刺し』
では、別家の帯屋隼人正が農民に理解を示し一揆を鎮めるが、
結果的に首謀者は打ち首、獄門となる。

それと似たような事件だ。  
白岩領は酒井忠重の所領で、代官が納めていた。そこで
一揆が起き、代官は手に負えず、山形に助けを求めてきた。
それで、城代家老保科民部が、白岩に赴き、百姓達に
「お前達の言う所は一々もっともである。山形へ来て、
保科正之に直訴したら良いだろう」と勧めた。

百姓たちは大いに喜び、代表35名が山形へ出向いたところ、
全員が牢に入れられた。保科正之は老中酒井忠勝へ書状を
送ったが返事がない。再三督促したが、裁きが無かったので、
正之の命で、白岩の百姓ら35人は、磔にされてしまった。

過酷な処置だが、島原の乱直後の不穏な時代であり、幕府の
威光を示すための英断であったとする向きもある。

さて、保科正之はその後、会津23万石に移封する。その
正之の室お万の方が、政治に口出しし、専横を極めた。
正之は、女の恐ろしさに懲りて、「婦女子の言は一切聞く
べからず」と遺訓を残している。

(『鳥刺し』でも、藩主右京太夫は側室・連子に入れあげ、                                         領内では百姓一揆がが勃発するという点で似ている)。

そして、3代藩主正容の時、保科民部の孫、民部正興が
「知行を召上げられ、小川庄水沢へ配流」となった。
民部はお万の姪を妻に迎えていたからだったとも。

この時、私の先祖も連座してお取り潰しになるところだったが
幸い取り潰しは免れた。その真相を探って小説にしたい。


再び、グレゴリオ聖歌「クレド」と「六段」

2021-07-19 09:19:31 | 筝尺八演奏家

グレゴリオ聖歌の『クレド』と『六段』が「全く同じ」とい皆川達夫氏の説に、私は「全く納得できない」。

You Tubeで「クレド」を検索してみた。いくつか聴くことができる。
楽譜もアップされているが、五線譜ではない「四線譜」だ。

http://www.youtube.com/watch?v=7YYK1GfsnWY&feature=fvwrel

http://www.youtube.com/watch?v=bR9NF905nJk&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=Yja0Tp_TCPA&feature=related

最初のメロデイは「ラソファ ミレドレ」。これに「六段」の「ラ-ソミミ-- ミレミ-レ シ♭ レミ」が合うとは、理解できない。 

「長さがピッタリ合う」と言うが、そもそも1600年頃の『六段』が今と同じとはいえない。『六段』の原型かと言われる琉球の『六段』は、雅楽と同じ「呂旋法」(ソラシドレミファ)であるし、八橋流の『六段』は、全部で「9段」に分かれているので、長さも違うのだ。

私としては、近世の「平調子」が、グレゴリオ聖歌から移入されたということは判る。では「平調子」とは なんぞや?

お箏(こと)の調弦の一つで「ミ ファ ラ シ ド」の「5音階」でとる。これは「都節」などとも言われ、「詩吟」の音階と同じ。

「詩吟」は「ミファラシド」の5音だけで吟じるが、では筝曲もそうかというと、違う。『六段』では、絃を左手で押して、半音、さらに1音上げた音が出てくる。結局「ミファソラシドレ」の7音階なのだ。さらに「ファ♯」も使われる。

これが、邦楽では革命的だった。それが「八橋検校」の創案とされてきたが、「いや、西洋音楽からの影響だった」というのなら 理解できる。

だが この説も、1614年生まれの「八橋」が成人した時にはすでに キリシタン弾圧の後である。隠れキリシタンが地下に潜伏して 聖歌を歌い継いでいたかもしれないが、それを聴くことができたかは 疑問なのである。


八橋検校はグレゴリオ聖歌を聴き得たか?

2021-07-19 09:19:07 | 筝尺八演奏家

皆川達夫氏の「西洋音楽は、信長の頃、今想像する以上に日本に広まっていた」という説は、傾聴に値する。

 


天文18年(1549年)フランシスコ・デ・ザビエルが渡来し、キリスト教の布教に 賛美歌が重要な役割を果たしていたことは否めない。
2年後の天文20年(1551年)ザビエルは、山口の大内義隆に謁した折、「楽器」を献上している。

30年後の、天正7年(1579年)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日し、日本各地にセミナリョやコレジョを設立して、神学教育と音楽指導に力を入れた。少年たちは 毎日1時間の音楽訓練(声楽と器楽ともに)を受け、「オルガンで歌うこと、クラヴォ(鍵盤楽器)を弾くことを学び、すでに相当なる合唱隊があった。

天正9年(1581年)織田信長は 日本人少年たちが演奏するクラヴォやヴィオラ(弦楽器)を聞き、おおいに満足したという。
 
翌天正10年(1582年)ヨーロッパに向けて 4人の「天正遣欧使節」が派遣さ、彼らはヨーロッパ各地を訪問し、臆することなく己れらの演奏を披露した。ポルトガルのエーヴォラ大聖堂では、巨大なパイプ・オルガンを見事に弾きあげた。

天正18年(1590年)帰国した少年使節一行は、聚楽第で 関白秀吉に謁し、持参したリウト(リュート)、アルパ(ハープ)、ラベイカ(レベック、高音ヴァイオリン)、クラヴォを合奏しつつ歌っている。秀吉はひたすらに聞き入り、三度ほど くり返し演奏をさせ、その後一つひとつの楽器を手にとって 色々と尋ねた

やがて日本でも 洋楽器の製作が始まる。慶長6年(1601年)には竹管を備えた)オルガンや、種々の楽器が製作されたが、それらは日本(の諸聖堂における聖祭で大いに利用された。
宣教師ルイス・フロイスは「日本人はヨーロッパの諸楽器を上手に弾く」と報告している」。

というわけで、皆川氏は「日本人は、天平の昔、中国(唐)の音楽を取り入れたと同様に、天正年間、西洋の音楽は、日本国内に、今思う以上に広がっていた」と説く。

ところが、江戸幕府は、1613年からキリシタン弾圧に踏み切り、多くの伴天連やキリシタンを処刑し、追放した。

八橋検校が生まれたのは、高山右近らが処刑された翌年の1614年である。
生まれは、岩城(福島県の平)とされる。盲人であったため、琵琶や三味線を生業とし、20代の頃は摂津(神戸)に居た。その後江戸に下り、筑紫善導寺の僧・法水に師事して「筑紫箏」を学んだとされる。

「八橋は筑紫の善導寺で筑紫箏を学んだ」という説もあるが、八橋が筑紫に行ったという史料は無い。また、グレゴリオ聖歌を耳にすることができたか?。キリシタン禁制の世である。可能性は低いと言わざるをえない。