goo blog サービス終了のお知らせ 

現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

南京虐殺はあった!

2021-07-05 22:55:14 | 太平洋戦争

https://youtu.be/yrLPTGCXPr0

衝撃。「南京虐殺は無かった」という誤魔化しを覆す記録映像が、日本で公開されていた。

テレビ史上、初めてCG化された南京大虐殺。民放の社会派ディレクターが退社前に全身全霊をかけて制作した入魂のドキュメント。NHKですらこれほど南京の真実に迫ったものを作ったことはない。日本軍は補給軽視の作戦の結果、数万の捕虜を養えず暴動が起きる前に皆殺しにした。虐殺否定派に問いたい。後ろ手に縛られ、戦闘する意思も手段も放棄した人間を背後から殺害することが、虐殺でなく何なのかと。投降した兵士であろうと便衣兵(ゲリラ※実際は南京城内にはいなかった)であろうと、白旗をあげた人間を殺してはいけない。
※推薦動画【永久保存版】南京大虐殺の証拠~当時の記録映像と生存者の確実な証言(32分)https://youtu.be/uyVeMusrS-k
---------
南京占領軍への当初の命令は「青壮年はすべて敗残兵、又は便衣隊(ゲリラ)と見なし、­すべて逮捕監禁すべし」。つまり、老人と子ども以外の中国人男子は全員逮捕監禁せよと­いう厳命。だが、捕虜10万人の食料も収容する施設もない。やがて命令は「捕虜を処分­(処刑)、殲滅(せんめつ)せよ」に変わった。『ハーグ陸戦協定』では「武装解除した­捕虜の虐殺」を戦争犯罪としている。ネット上では多数のデマが流れているため、よくあ­る質問と答えを以下にまとめる→


・日支事変は国際法上の“戦争”ではないため『ハーグ陸戦協定』は当てはまらない。→­ ならば平時の殺人であり戦犯以前に殺人罪。

・虐殺証言で登場する元日本兵は中国共産党に洗脳された中国帰国者(中帰連)。→ 南京­戦に投入された部隊は捕虜にならず帰国しており、中国共産党は無関係。

・捕虜虐殺を見ていない海外ジャーナリストがいる。→虐殺現場は街から4キロ離れた揚子江­の川岸。中心街で殺害したのではない。

・南京入りした後発補充部隊は「虐殺はなかったと聞いている」と証言している。→「な­かった」と証言する元兵士は全員が事件後に南京市入りしている。しかも伝聞の証言であ­り説得力なし。何より、軍の公式記録である第66連隊の部隊記録に捕虜殺害の数が記録­されており、その数は加害兵士の陣中日記や証言と一致している。

・捕虜の暴動が起きたので仕方なく殺した→この話は戦後に現場指揮官の1人が戦犯指定を逃れるためにでっち上げたものと2018年に判明。暴動説はデマが確定。

 

〔まとめ〕南京を占領した日本軍は、各部隊とも自軍の10倍近くの捕虜を得て、その処­理に困って殺害に至った(例えば山田支隊1500人に対して15000人の捕虜が発生­し幕府山事件が起きた)。本来、捕虜ならば軍法会議、捕虜以外は軍律会議の判­決で処断せねばならない。便衣兵が「ハーグ陸戦協定違反」であろうとなかろうと、丸腰­の人間を裁判抜きで殺害するのは戦争犯罪。“南京事件否定派”の意見は国際社会で通用­しない。
-------------------------------
〔補足・通州事件〕
【通州事件…ネット右翼が知らない3つの事実】
(1)通州事件は、日本人104名と朝鮮人108名、計212人が殺害された。朝鮮人の死者の方が多いが、当時の朝鮮は日韓併合下にあったため「邦人200人以上」としている。

(2)通州事件は日本軍の誤爆事件が先にあった。襲ってきた中国人部隊は元々親日派で、日本軍が育てた子飼いの部隊。誤爆事件で飼い犬に手を咬まれた。

(3)日本軍は通州からヘロインなど大量の麻薬を大陸に流していた(毒化政策)。その悪行が中国人から反発を買った。
---------
〔補足2・便衣兵のせいというデマ〕
第一次上海戦では便衣兵(ゲリラ)の攻撃を受けたが、第二次上海戦では便衣兵からの攻撃はないに等しかった。特に南京城内では報告皆無。南京戦では「国際法を違反した便衣兵」は存在せず、虐殺を正当化する理由にはならない。仮に便衣兵がいたとして、日本が他国を武装して占領するから装備に劣る相手側が「祖国を守るため」にゲリラ戦を選んだのであり、加害者がそれを虐殺の理由にするのは酷い話。侵略していなければそもそも便衣兵になる必要もなかった。
---------
〔補足3・人口のデマ〕
否定派は「南京の人口が占領後に10万人増えているのがいい証拠」という。これは簡単に説明できる。南京一帯で戦闘が行われているわけで、南京市の国際安全区に避難民がなだれ込んでいるだけ。
参考までに以下のやり取りも紹介。
KAZUYA氏「人口20万人の南京で、30万人殺したという。ファンタジー的だ」
記者「20万人というのは南京市の特定地域(国際安全区)の人口の推計で、市全体のものではない」
KAZUYA氏「知っています。耳を引くためにオーバーな言い方をしています」
---------
〔補足4・犠牲者30万人に根拠はあるか〕
1927年に国民政府が南京を首都に定めて以降、南京市政府は市内の常住人口について統計資料を保存している。1935年に100万人の大台を突破し、虐殺9カ月前の1937年3月の調査では101万9667人で、戸数は20万810戸(南京の首都警察庁調べ)。この3月時点の100万人は、虐殺肯定派、否定派とも見解が一致している。その後、日本軍の連日の空襲で人口が減り始め、11月20日に国民政府が重慶への首都遷都を宣布、さらに日本軍の接近が伝えられたことで住民が激減、11月23日に南京市政府(馬超俊市長)は「現時点で人口は約50万」「ただし今後20万人の周辺難民の流入を予測」と国民政府軍事委員会に報告している。実際、膨大な数の農民が難民となって城内に避難した。南京守備部隊、常住人口、流動人口の合計が約60万人、そして虐殺後の人口が30万人強であることから、中国側が主張する犠牲者30万人は、「最大値としては」あり得る数字だ。
---------
〔補足5・消えた遺体について〕
南京守備隊(5万人以上)の処刑は揚子江の河岸で行われ、遺体は大河に流されたことが日本軍の記録で明らかになっている。いったい何万人が揚子江に投げ込まれたのか不明ではあるが、墓がない大きな理由のひとつ。次が重要な点。日本側が考える南京事件は、期間が「1937年12月13日の南京陥落から17日の入城式まで」、場所は「南京城内で行われた掃討戦」としているケースが多いのに対し、中国側は期間が「南京戦から3カ月」、場所は「南京周辺の農村を含んだ広大な地域」であり、この時点で両者が主張する数字が合致するはずがない。中国が嘘をついているのではなく、単に期間と場所が異なるだけ。それゆえ、一般市民の墓は点在しており、ここを掘れば数万人の遺体があるといった場所がない。ちなみに埋葬隊記録では155,000体。これは焼き棄てられた死体や、揚子江に投げこまれた死体を計算に「入れていない」。
---------
〔補足6・パール判事について〕
「パール判事が日本の戦争行為に理解を示した」というのは保守派のデマ。パール判事は日本軍の残虐行為に激怒している。東京裁判は、新しく作った法律で過去の行為を処罰できないという法学者の信念から「無罪」としたのであって、「日本は悪くない」とは言ってない。南京大虐殺では「宣伝と誇張を出来る限り考慮しても、なお残虐行為は日本軍が占領したある地域の一般民衆、また、戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である」と虐殺を認め断罪している。パール判事の息子は、東條英機の伝記映画『プライド』が東條を美化するため自分の父を利用していると憤慨し、田中正明(勝手に松井石根大将の文章を改変し、日本に「南京事件はなかった」と嘘をまき散らした張本人)に抗議している。
パール判事の激しい批判:
・張作霖爆殺事件は「無謀でまた卑劣である」「殺人と言う卑怯な行為」
・満州事変を「非難すべきもの」
・満州国建設を「手の込んだ政治的狂言」
・南京虐殺やフィリピンでの虐殺を事実と認定し「鬼畜行為」と批判。南京大虐殺について20箇所以上の残虐行為を指摘したうえで「鬼畜の性格を持っている」と断じ、戦争指導者は無罪であっても、殺人・強姦など通例の戦争犯罪の実行者に対する処罰は(新法で後から処罰ことですら)「正当である」と述べている。
---------
この問題を語るとき、もう少し相手の立場になって考えてみませんか。終戦時に中国にいた日本軍は105万5700人。そして日本軍には補給がまともになく、基本は現地調達。農村から命綱の牛馬鶏を奪い、穀物を奪いながらの行軍、占領です。そして少なくない部隊で強姦が起きています。抵抗すれば殺害。
この歴然たる事実を正面から見つめ、どうかネットにデマを広めないよう、同じ日本人として心からお願いします。
★その他、南京大虐殺否定派の疑問は以下の3つのリンク先で100%解決されると思います。
「南京事件FAQ」 https://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/
「南京事件資料集」 http://kk-nanking.main.jp/index.html
「南京事件ー日中戦争 小さな資料集」http://yu77799.g1.xrea.com/

大事なことなのでもう一度。「人口20万の都市で30万は殺せない」デマにはくれぐれも注意を。20万人は南京特別市の一部である南京城の中のさらに一部である安全区の人口に過ぎず、犠牲者30万人が発生したという地域は南京城の外、南京特別市の広い範囲を対象にしたものです。

 

「1万人以上銃殺した」と証言したのは、会津若松第65歩兵連隊の兵士。「白虎隊」に因んで「白虎部隊」として尽忠報国、上官の命令には絶対服従だった。実は私の父も、会津若松出身なので、昭和16年8月に「会津若松第65歩兵連隊」に入営した。南京攻略はその3年前のことであり、「南京攻略時の虐殺」については全く知らされていなかったようだ。箝口令でも敷かれていたか。


南京虐殺事件はなかった? いやあった?

2021-07-05 22:51:17 | 太平洋戦争

『NNNドキュメント’18/南京事件Ⅱ 歴史修正を検証せよ』(日本テレビ・5月13日放送)が反響を呼んでいる。

調査報道で検証

1937年12月、中国の首都・南京市を占領した日本軍は、捕虜や民間人の殺害、略奪・放火・強姦などの残虐行為をくり広げた。これらの戦争犯罪を総称して南京大虐殺、あるいは南京事件と呼ぶ。ところが、日本では「虐殺などなかった」との主張が幅を利かせている。ネトウヨと同レベルの捏造(ねつぞう)説を平然と語る政治家も多い。

番組のチーフディレクターとして挑んだ清水潔は、南京戦に従軍した日本兵の証言や当時の日記を手掛かりに、矛盾や不自然な点がないか、徹底的な裏取りを試みた。そして、捕虜の大量殺害が事実であることを証明したのである。

 ある上等兵は日記にこう書いていた。「12月16日、捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃をもって射殺す」「その後、銃剣にて思う存分に突刺す」「一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた」

 日本兵が言うところの捕虜の「処理」。それは翌17日にも行われた。河原に集められた約1万人の捕虜に重機関銃の一斉射撃を浴びせた。逃げ惑う人びと。兵士の日記によれば「撃たれまいと、人から人へと登り集まるさま。即ち人柱は、丈余(3メートル以上)になっては崩れ、なっては崩れした」という。

この人柱の絵を清水ディレクターは南京大虐殺記念館で見ていた。そのときは「なぜわざわざ死体を高く積み上げる必要があるのか」と不審に思ったという。だが、事実は想像を超えていた。あの絵は「反日」目的の誇張表現ではなかったのである。

「自衛発砲説」の正体

丹念な調査報道で虐殺の事実を立証した番組(2015年10月4日放送)は、歴史修正主義者から目の敵にされてきた。たとえば産経新聞は、揚子江岸での捕虜殺害は「捕虜が暴れたため日本側もやむなく銃を用いた」ものなのに、番組は触れなかったと難癖をつけてきた。

 いわゆる「自衛発砲説」だが、この否定論者の定番を今回の続編番組は徹底的に検証している。根拠は何か。どのようにして広まったのか。ネタ元をさかのぼると、1960年代の新聞記事にいきつく。捕虜殺害を実行した歩兵65連隊の両角(もろずみ)業作連隊長の回想録。これが「自衛発砲説」のルーツだった。

両角連隊長が言うには、「自分は上の命令を蹴って捕虜を解放しようとしたが、捕虜が暴動を起こし当方にも人的被害が出たため、やむなく発砲したのだ」という。かなり無理のある主張だが、取材班は他の記録や証言と突き合わせ、事実確認をしていった。

 まず、17日の捕虜殺害現場に連隊長はいなかった。日本軍の南京入城式に参加していたのだ。現場責任は部下の大隊長だった。その護衛に就いていた上等兵は「今日は南京入城なり」「俺等は今日も捕虜の始末だ」「一万五千」と日記に書いていた。

 こんな証言もある。「内地に帰ってから箝口(かんこう)令がありました」「戦後、記事になったでしょう。捕虜を解放しろと言ったなんてね。船もなしに。偉い人はよくぬくぬくと言うなと思いました。とんでもない詭弁ですよ」(歩兵65連隊第4中隊少尉)

 そして、清水ディレクターは問題の記事を担当した元新聞記者(85)に直接会い、話を聞いた。「捕虜解放」の指示があった証拠とされる「両角メモ」。元記者は「昭和30年代に入って書かれたものだ」と断言する。

やはりそうか、「自衛発砲説」は 後になって 苦し紛れの言い訳として捏造されたものだった。

 

 

 

 

 

 

任者が責任逃れのために創作した後付けのストーリーだ


南京虐殺は国民党のしわざだった!

2021-07-05 22:22:05 | 太平洋戦争

2012年中国の新聞記事


「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉>

1月27日に歴史評論がネット(http://www.kdne.net)で流れた。開国少将というペンネームの作者は、外祖父が自分の日で見た南京大虐殺という文章を発表している。外祖父から聞いた話として。

彼は四川省の貧農の出身で、1928年に国民党に捕らえられて兵士にさせられ、1937年の南京陥落前夜に少尉に昇格、日本軍の猛烈な攻撃に、「首都を守れ・国父を守れ」というスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の進政を食い止めることなど出来ず、南京城から撤退することとなった。

部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。その時、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍はすぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。誰かが「日本軍が来たぞ」と叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。

誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。指揮官は兵士たちに、「もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだ」と言って、一斉射撃を命じたあたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まった。約1千人の南京市民が、国民党の兵士たちの銃弾を浴びて死んで行った。

国民党の部隊が逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、それは日本軍の残虐行為として転嫁された。

外祖父の話では、他の部隊も同様のことをしてきたという。全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。外祖父は国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があったという。

外祖父は、逃亡する道を選んだ。そして裏切り者といわれることを恐れて、経歴を隠して逃げ回った。その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。南京大虐殺は自分自身が犯した罪であると。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…

さもありなん。十分考えられる。私の父も「敗走していく中国兵と一緒になって行軍していた。もはや彼らは戦意喪失しているので、撃ち殺すようなことはしなかった」と語っていた。


松井石根大将は名古屋の生まれ

2021-07-05 20:34:24 | 太平洋戦争

南京事件の責任を問われて処刑された松井石根は、なんと名古屋市中村区牧野町の生まれと知ってびっくり。名古屋駅のすぐ西側の学区だから毎日通っている。そこの椿神社には松井大将の詩を刻んだ石碑があるとのこと。

この碑は松井大将の南京入城を記念して地元の有志によって建てられたもの。松井大将の詩が刻まれている。

南京陥落の英雄も8年後には、東京裁判で戦争犯罪人として裁かれ、死刑となった。こうなると庶民の心は冷たいものである。この石碑は近くの池に沈められた。その後、ほとぼりも冷めてから、池から引き揚げられ、元の場所に戻されたとのこと。

松井石根は明治11年(1878)生まれ。陸軍幼年学校、陸軍士官学校9期卒、明治34年陸軍大学校に進み、明治37年、在学中に日露戦争に従軍した。 

松井は孫文や蒋介石とも親しく交わり、「欧米列強に支配されるアジア」から脱し「アジア人のためのアジア」を実現するには「日中の提携が第一条件である」とする「大亜細亜主義」を信条としていた。

しかし、昭和3年(1928年)5月3日済南事件、続く6月4日張作霖爆殺事件が勃発。昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国と、事態は松井の意図しない方向へと動いていった。

昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件により日中戦争支那事変)勃発。同年7月29日通州事件、8月9日大山事件(上海)が発生。同年8月13日第二次上海事変が勃発すると、予備役の松井に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかり、8月20日上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて上海に向け出港した。

8月23日上海派遣軍は上陸を開始したが、上陸作戦は難渋をきわめた。

そこへ、柳川平助中将率いる第10軍が杭州湾上陸作戦を敢行、柳川は松井の命令を無視して独断で南京攻略へと発展。松井は南京で一部兵士の略奪暴行があったことを聞いて「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。翌日慰霊祭の前に、松井は各師団の参謀長らを前に強い調子で訓示を与えた。「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた。しかし参謀の中には「そんなこと(略奪暴行は、戦場では)当たり前」と笑う者もいた。

そして松井は、「支那寄り」とみられ、更迭され、昭和13年(1938年)2月上海を離れて帰国し、また予備役となった。

帰国してからは熱海伊豆山な隠棲し、興亜観音を建立して、朝夕に読経し、日本と中国双方の戦没者の供養を行った。

あぁそれなのにである。東京裁判では、南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑判決を受けるジョセフ・キーナン検事はこの判決について、『なんというバカげた判決か。マツイの罪は、部下の罪だから、終身刑がふさわしい』と判決を批判していたという

 

 


熱海市伊豆山に興亜観音

2021-07-05 20:09:32 | 太平洋戦争

7月3日の豪雨で、熱海市伊豆山地区に土石流が発生、甚大な被害が起きた。

この伊豆山に松井石根が私費を投じて建立した興亜観音がある。無事だったろうか。

 

興亜観音は支那事変当時上海派遣軍司令官であった松井石根陸軍大将が、退役後の1940年(昭和15年)、日支両軍の戦没将兵を「怨親平等」に祀るため、私財を投じてこの地に建立した。

この観音菩薩は、松井大将の部下の戦死者23,104柱を祀ったもの。右が日本国民戦死者慰霊位牌、左が中華民国戦死者慰霊位牌。

松井大将はこの近くに庵を建てて住み、毎朝ここまで登り、手を合わせて観音経をあげていた。戦後東京裁判で松井大将が処刑された後、松井大将とともに処刑されたA級戦犯六名、合わせて七名の遺骨も埋葬されている。

その経緯は、

1948年(昭和23年)12月23日A級戦犯として処刑された松井石根、東条英機等七人は、横浜の久保山火葬場で荼毘に付された。遺骨の殆どは米軍が処理したが、弁護士の三文字正平と火葬場近くの興禅寺住職の市川伊雄よって、12月26日深夜密かに残骨を骨壺一杯分採取し、翌年5月3日、ここ興亜観音に持ち込んだ。このことは長く秘匿され、1959年(昭和34年)4月19日、吉田茂元首相筆による「七士之碑」が建てられ、この下に埋葬された。

なお愛知県幡豆郡(現西尾市三ヶ根山にある「殉国七士墓」は、翌1960年(昭和35年)に興亜観音の七士の遺骨から香盒一ヶ分を分骨して埋葬したものである。

現在はA級戦犯の刑死者7柱に加え、BC級戦犯の刑死者901柱、収容中に病死・自決・事故死・死因不明等で亡くなったABC級戦犯160柱を合わせた1,068柱の供養碑、大東亜戦争戦没戦士菩提(昭和19年)も建立されて全戦没者を祀り、「小さな靖国神社」とも喩えられている。

昭和46年12月、赤軍派によって興亜観音が爆破される事件があった。この時「七士の碑」は三つに割れてしまったが、導火線が途中で切れ、興亜観音は無事だった。「七士の碑」はその後修復されたが、割れ目が残っている。