現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

南京虐殺事件はなかった? いやあった?

2021-07-05 22:51:17 | 太平洋戦争

『NNNドキュメント’18/南京事件Ⅱ 歴史修正を検証せよ』(日本テレビ・5月13日放送)が反響を呼んでいる。

調査報道で検証

1937年12月、中国の首都・南京市を占領した日本軍は、捕虜や民間人の殺害、略奪・放火・強姦などの残虐行為をくり広げた。これらの戦争犯罪を総称して南京大虐殺、あるいは南京事件と呼ぶ。ところが、日本では「虐殺などなかった」との主張が幅を利かせている。ネトウヨと同レベルの捏造(ねつぞう)説を平然と語る政治家も多い。

番組のチーフディレクターとして挑んだ清水潔は、南京戦に従軍した日本兵の証言や当時の日記を手掛かりに、矛盾や不自然な点がないか、徹底的な裏取りを試みた。そして、捕虜の大量殺害が事実であることを証明したのである。

 ある上等兵は日記にこう書いていた。「12月16日、捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃をもって射殺す」「その後、銃剣にて思う存分に突刺す」「一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた」

 日本兵が言うところの捕虜の「処理」。それは翌17日にも行われた。河原に集められた約1万人の捕虜に重機関銃の一斉射撃を浴びせた。逃げ惑う人びと。兵士の日記によれば「撃たれまいと、人から人へと登り集まるさま。即ち人柱は、丈余(3メートル以上)になっては崩れ、なっては崩れした」という。

この人柱の絵を清水ディレクターは南京大虐殺記念館で見ていた。そのときは「なぜわざわざ死体を高く積み上げる必要があるのか」と不審に思ったという。だが、事実は想像を超えていた。あの絵は「反日」目的の誇張表現ではなかったのである。

「自衛発砲説」の正体

丹念な調査報道で虐殺の事実を立証した番組(2015年10月4日放送)は、歴史修正主義者から目の敵にされてきた。たとえば産経新聞は、揚子江岸での捕虜殺害は「捕虜が暴れたため日本側もやむなく銃を用いた」ものなのに、番組は触れなかったと難癖をつけてきた。

 いわゆる「自衛発砲説」だが、この否定論者の定番を今回の続編番組は徹底的に検証している。根拠は何か。どのようにして広まったのか。ネタ元をさかのぼると、1960年代の新聞記事にいきつく。捕虜殺害を実行した歩兵65連隊の両角(もろずみ)業作連隊長の回想録。これが「自衛発砲説」のルーツだった。

両角連隊長が言うには、「自分は上の命令を蹴って捕虜を解放しようとしたが、捕虜が暴動を起こし当方にも人的被害が出たため、やむなく発砲したのだ」という。かなり無理のある主張だが、取材班は他の記録や証言と突き合わせ、事実確認をしていった。

 まず、17日の捕虜殺害現場に連隊長はいなかった。日本軍の南京入城式に参加していたのだ。現場責任は部下の大隊長だった。その護衛に就いていた上等兵は「今日は南京入城なり」「俺等は今日も捕虜の始末だ」「一万五千」と日記に書いていた。

 こんな証言もある。「内地に帰ってから箝口(かんこう)令がありました」「戦後、記事になったでしょう。捕虜を解放しろと言ったなんてね。船もなしに。偉い人はよくぬくぬくと言うなと思いました。とんでもない詭弁ですよ」(歩兵65連隊第4中隊少尉)

 そして、清水ディレクターは問題の記事を担当した元新聞記者(85)に直接会い、話を聞いた。「捕虜解放」の指示があった証拠とされる「両角メモ」。元記者は「昭和30年代に入って書かれたものだ」と断言する。

やはりそうか、「自衛発砲説」は 後になって 苦し紛れの言い訳として捏造されたものだった。

 

 

 

 

 

 

任者が責任逃れのために創作した後付けのストーリーだ


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