現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

白虎隊生き残り飯沼貞吉の真実が明るみに

2019-08-23 09:37:43 | 虚無僧日記

https://youtu.be/-6IYi8cq92c

会津若松の観光名所、飯盛山に行けば、ガイドによって、今も相変わらず

白虎隊の悲劇が語られる。それは「白虎隊ただ一人の生き残り、飯沼定吉

の証言に基づき、小説などで定番となっているもの。

だが、この飯沼貞吉の話には、私は子供の頃から疑問を感じていた。

それは「飯沼貞吉」は「たった一人の生き残りではない」ということ。

他に多くの白虎隊士は、隊長日向内記とともに、城に帰還しているのである。

 

飯沼貞吉は、会津戦争の事を一切語らず、明治になって一度も会津に

帰っていない。飯沼貞吉は何か 重大な事を隠していると直感していた。

 

昭和30年頃、飯盛山の旧家の屋根裏から、驚くべき書類が出てきた。

それは、「自分は、飯沼貞吉を助け、官軍に見つからないように裏山に

匿って、毎日食料を届け介抱したが、そのことについて飯沼貞吉からは

一言の感謝の声もない。農民に救われたことが恥と思っているのか。

悔しいが、この話は末代まで秘密にしておくべし」

というような内容だったかと記憶している。

 

その記事が新聞に掲載されたのだが、それから半世紀も、会津では、

この記事は無視され、相変わらず、飯沼貞吉が一度だけ語ったという

内容を訂正もせずに語り継いできた。それは

 

「足軽、印出新蔵の妻ハツに助けられ、塩川まで行き、そこの旅館に

匿われた」というもの。

しかし、首を切った重症の身で、印出新蔵の妻に背負われて、一晩で

塩川まで行けるわけがないというのが私の推理。また印出新蔵の妻も

塩川の旅館も 実在は確認されていないという記事も見た。

そして、飯沼貞吉は、一度も会津に帰らなかったことが謎だった。

その訳が、ついに判った。衝撃の事実。

 

飯沼貞吉は、なんと、長州藩士の楢崎頼三に連れられて、長州(現在の山口県

美祢市)に行っていたという。楢崎氏は飯沼貞吉を庇護し、その事を貞吉の母に

だけ知らせた。彼を匿っていることは、会津の人にとっても長州人にとっても

騒ぎになるので、内密にと。

飯沼貞吉は何度か自殺しようとしたが、楢崎頼三に「おまえは、死に損なったの

じゃない、生かされたのだ」と諭され、勉学に励むようになったという。

その後の貞吉

その後、貞吉は貞雄と改名し、明治3年(1870年)静岡の林三郎の塾に入り、

翌年藤沢(志摩守)次謙の書生となり、明治5年(1872年)東京の工部省技術教場

(東京)に入所、電信技師となり、同年10月5日には赤間関(山口県下関市)に赴任。

その後、国内各地での勤務を経て、1885年(明治18年)に工部省が逓信省に変わった時

には新潟に勤務。1891年(明治24年)、広島電信建築区電信建築長に就任、

2年後には東京郵便電信局勤務となり、翌1894年(明治27年)には日清戦争のため、

大本営付となり技術部総督(階級は陸軍歩兵大尉)として出征。

1905年(明治38年)、札幌郵便局工務課長となり、1910年(明治43年)に

仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。

飯沼貞吉が長州人に引き取られていたということこそ、会津と長州の友好の美談として

もっと喧伝されるべきなのに、いまだに、それを封印しようとする、会津人の

閉鎖的狭量的な資質には、がっかりである。

 

 


8月23日は先祖の命日

2019-08-23 09:19:25 | わが家のこと

わが家の先祖は、本家(300石)と分家(150石)の2家ありました。

戊辰戦争当時、本家の牧原一郎は64歳、分家は弟の奇平は61歳、

さらに弟が数人おり、私の直接の先祖は末の弟牧原でした。

 

分家の方が血脈が途絶え、本家(一郎)の弟「牧原奇平」が分家を

継ぎました。は61歳で郡(こおり)奉行。

農民、僧侶、神官、相撲取りを集めて戸の口に向かい、白虎隊他

藩兵たちの食料調達に、付近のを回りました。白河口から引き上げて

きた部隊が、西軍に獲られるよりはと、村々を焼き払ったため、

村人の反感をかい、食料調達ができず。その責任を負ってか、

強清水で自刃して果てました。


強清水の戦い

2019-08-23 09:16:56 | わが家のこと

テレビドラマでは、白虎隊も官軍と派手に斬り合いを

しているが、実際には刀槍を交えての白兵戦は行われていない。

実は、私の先祖「牧原源八郎」は、嫡男ではないから

「石(ごく)つぶし」。北会津村の名主「新田」家に居候し、

村人に読み書きソロバンを教え、医術なども施していた。

「官軍、会津に迫る」との知らせに、槍をもって城に向かった。

会津藩の成人はみな四方の国境に出払っていたから、城下に

残っていたのは老人と少年だけ。わが家の本家「牧原一郎」は

65歳で殿様を警護して滝沢本陣まで出陣。その弟の「奇平」は

63歳で「敢死隊」を率いて強清水(こはしみず)まで出向いた。

牧原源八郎は44歳、叔父の奇平に従っていた。

急遽 駆りめられたのは 郷頭、肝煎、僧侶、神主、相撲取り。

「士分に取り立てる」という俄かしのぎの口約束でかり集められたが

鉄砲も刀も扱ったことが無い。もっとも「牧原奇平」は郡奉行で

付近の村々を回っての食料調達が任務だった。

しかし迫りくる大砲、鉄砲の音に驚いて、隊員はみな逃げ出して

しまった。その責任をとって奇平は強清水で自決。

源八郎は、左腕に鉄砲玉が当たって負傷し、城の南を廻って、

北会津の新田家まで戻った。そこで手当てを受け、一命を

取り留めたことで、子孫が存続し、私がいる。。





牧原一郎の家系

2019-08-23 09:14:39 | わが家のこと

本家の「牧原一郎」について

隊長格。再編第一大隊参謀。「慶応年間人名録」及び
「戦死殉難人名録」では、「牧原一郎(御供番頭) 8/23 
甲賀口の自邸前で没(65才)。

長男か?「牧原源六郎(勘太夫か?)」が家督を継ぐ。(三百石)


次男「源次郎(京都で「大砲組御雇」)23日 戸の口原で戦死(37才)

三男「源蔵」も「源次郎」と共に 京都で「大砲組御雇」。

四男?「牧原豊四郎」。9/23 甲賀町口の自邸で父「一郎」を介錯する。

五男?「牧原文吾」は「松井九郎」と改名し、幕臣となり、大鳥圭介に従う。
「別伝習隊参謀」隊長格。「再編第一大隊」参謀。
尾瀬の守備隊長となり足利藩と戦い、会津へ、8月23日、戸の口原
または大野原で戦死(34才)。宮氏岩太郎の「函館脱走海陸軍惣人名」では、
8月24日若松城下で戦死。「天極記」でも「七日町で戦死」とある。


美化された白虎隊

2019-08-23 09:10:00 | わが家のこと

8月23日を我々会津人は生涯忘れない。この日は白虎隊自刃の日なのだ。
一人蘇生した飯沼貞吉は「会津戦争のことを我が子にも語らなかった」と。

この日、薩長土の西軍は、母成峠を破って怒涛の如く会津に迫った。
この時会津藩は、藩兵の大半を日光、長岡方面の国境に派遣していたから、
城には老人と子供しか残っていなかった。そこで白虎隊と老人組が藩侯に
お供して滝沢口へと向かった。我が家の先祖も、牧原一郎67歳と弟の奇兵
62歳が老躯をかって殿の御前に伺候した。そして奇平は、僧侶、山伏、力士
を駆り集めて戸の口が原に出陣した。兵力は白虎隊50名を含めても2、3百人
ではなかったか。これで3万の西軍に敵うわけがない。しかも相手は大砲を
撃ち込んでくる。白虎隊のヤーゲール銃では太刀打ちできない。まして、
テレビ、ドラマで見るような刀を抜いての白兵戦などなかったのだ。


実際は、白虎隊は一晩中雨の中で砲声を聞きながら、寒さと空腹にふるえて
いた。夜が明けると、街道を進軍する官軍を見つけて、山中を逃げまどった。
僧侶や力士も砲声に驚き、戦わずして逃げてしまったので、牧原奇平は責任を
とって自刃した。一郎も殿様が城に逃げ帰る途中、「足でまといになっては
申し訳ない」と、自宅に帰り自刃している。牧原邸は甲賀口門前にあり、
西軍を喰い止めるための激戦地となった。

そして白虎隊も本隊は皆急ぎ帰城しているのだが、一部はぐれた者20名が
飯盛山で自刃した。彼らはほとんど戦っていないのだが、それでは話になら
ない。明治、大正、昭和と軍国主義の高揚の過程で、自刃した白虎隊士19名
だけが異様に賛美され、「国難に殉じること」が美化、喧伝された。まともに
戦って城に帰り、さらに籠城戦を戦い抜いた他の隊士たちは、生き恥を晒し、
肩身の狭い生活を余儀なくされた。我が一族にも生き残りの隊士がいたが、
戦後東京に護送され謹慎の後、行くへ不明である。川崎市鶴見の牧原一郎氏が
本家であるが交流も面識も無い。一郎氏は故人となられた由。

というわけで、会津人には、不快を感じるかと思われるが、白虎隊の賛美が、
太平洋戦争の玉砕、特攻の悲劇へとつながっていったと思えてならない。
白虎隊が悪いのではなく、それを喧伝材料にした軍の参謀本部が悪い。