では、「一字金輪の呪」唱えるとは何ぞ。ネットで検索してヒットした。
「一字金輪」の呪を漢字で書くと
曩莫 三満多没駄(ノウマクサンマンダ ボタ)
南(ナン)
奄(オン)
歩魯奄(ボロン)
これを108回唱える。
この真言は、その願を早く成就せしめ、別して末世の衆生に大利益を
もたらす真言である。
次に心中の諸願を祈るべし。
信心の人は、娯楽に興じ、酒宴の場にあろうとも、あるいは道を歩き、
また寝床に臥(ふ)していようとも、あるいは悲しくとも、心が乱れて
いようとも、つねに珠を持して数を定めず、間断なく誦(じゅ)すもよし。
真言を高声に唱えれば、他人の悪を滅して善を生ずる」。
とあった。正に、明暗寺が発行している『吹禅行化請願文』の「一吹は
一切の悪を断じ、一吹は一切の善を修せんがため」に通じるではないか。
108回というのも「尺八」に通じる からうれしい。
『茸(くさびら)』という狂言では、山伏が法力によって悪しき者を調伏
するのだが、その時唱える真言が、一字金輪の呪「ボロンボロン」だそうだ。
効き目が無く、山伏はさんざん虚仮(こけ)にされる。
また、別の解説では「即身成仏を願う呪で、後醍醐天皇が修された」とか。
後醍醐天皇となると「南朝」との関連も匂ってくる。
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鎌倉末期に書かれた吉田兼好の『徒然草』第115段に、
「ぼろ」のことが書かれています。
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宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集りて、九品の念佛を申しけるに、
外より入りくるぼろぼろの、「もしこの中(うち)に、いろをし坊と
申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、
こゝに候。かく宣ふは誰(た)ぞ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。
おのれが師、なにがしと申しし人、東國にて、いろをしと申すぼろに
殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、
尋ね申すなり」と言ふ。
いろをし「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事はべりき。こゝにて對面し
たてまつらば、道場をけがし侍るべし。前の河原へ参り合はん。あなかしこ。
わきざしたち、いづ方をも見つぎ給ふな。數多のわづらひにならば、
佛事のさまたげに侍るべし」と言ひ定めて、二人河原に出であひて、
心ゆくばかりに貫きあひて、共に死にけり。
(注釈として)
「ぼろぼろ」といふものは、昔はなかりけるにや。近き世に、
梵論字(ぼろんじ)・梵字・漢字などいひける者、そのはじめなりける
とかや。世を捨てたるに似て、我執ふかく、佛道を願ふに似て、
闘諍(とうじゃう)を事とす。放逸無慚のありさまなれども、
死を輕くして、少しもなづまざる方(かた)のいさぎよく覺えて、
人の語りしまゝに書きつけ侍るなり。
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「宿河原」は、今、多摩川の南、神奈川県側にあり、そこに
『徒然草』の碑が立っているが、最近の研究では「京都近郊」では
ないかとも言われている。
「宿」は「夙」に通じ、死者を葬る場所。室町時代まで、一般庶民の
遺体は河原や山に捨てられた。「ぼろ」は、その死者の弔いをする
集団だった。後の「」に通じる。
『徒然草』では「昔はいなかったが、最近、梵論字、梵字、
漢字などという者が現れた」と言っているので、「ぼろ」の
発祥は「鎌倉末期」ということになる。
「しらおし」と「いろおし」という「ボロ」が殺し合いをしたと
いうのであるから、荒くれ者のようだ。だが「死を恐れず、
いさぎよい」とも 吉田兼好は評価している。
さて、この「梵論」が、室町時代には「暮露」と書かれ、
江戸時代には「虚無僧のルーツ」ではとも書かれてきた。
しかし、室町時代の「暮露」の図は「紙衣に黒の袴で
長い柄の傘」を持っている。尺八は持っていないのである。
そこで、「暮露」は、「放下僧」のように、傘に「一字金輪」の
梵字を書き記し、柄を叩きながら、その呪「のーまくさんまんだ、
ぼたなんぼろん」と唱えて、布施をもらう行者だったのではないか。
「ぼたなんぼろん、ボロン」から「梵字」「梵論」と呼ばれた
のであって、尺八を吹く「虚無僧」とは 別個の集団と、
私は考えるのである。