現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

暮露(ぼろ)とは?

2015-04-09 22:04:46 | 虚無僧日記

『徒然草』115段「宿河原」には、吉田兼好が「ぼろぼろ」に
ついて注釈を加えている。 

 「ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、
  ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりける
  とかや。
  世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍を
  事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、
  少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りし  
  まゝに書き付け侍るなり」と。

つまり「“ぼろぼろ”は、昔 (1333年からみての昔だから、
鎌倉時代の半ば頃まで) はいなかった」という。蒙古襲来など
あって鎌倉幕府が弱体し、世が乱れて、登場してきたのだ。

そして「梵字、漢字などとも言う」とあるので、インドや中国
からの渡来人かとも思える。
「ぼろはボロボロの着物を着ているからぼろ?」と思われている
が、室町時代の半ば、1500年頃、土佐光信によって書かれた
『七十一番職人歌合』には、白い紙子に黒の袴をつけ、長い柄の
傘を持っている。この傘を立て、柄の部分を叩いて拍子をとり
ながら念仏を歌い、人々に念仏踊りを舞わせるのだ。

東京の世田谷区奥沢には、通称九品仏(くほんぶつ)と呼ばれる
浄真寺という寺があり、駅名にもなっている。9体の阿弥陀様の
面を被って行進する祭りで有名だ。

つまり、「ぼろ」は「九品念仏を唱え踊る念仏行者なのだ。
「ボロは念仏宗であり、尺八は吹いていないので、虚無僧の
元祖ではない」と云われるが、私は「世を捨てたるに似て
我執深く、仏道を願ふに似て闘諍を事とす」という性格が、
正に虚無僧の源流だと思っている。

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虚無僧は、その昔「漢字」と呼ばれたのォ~

2015-04-09 21:59:32 | 虚無僧って?

『徒然草』の115段に「宿河原で二人の“ぼろぼろ”が
相争って死んだ」という話がある。その“ぼろ”については
「“ぼろ”の衣を着ていたからボロ」、「河原乞食の類」と
解釈されてきたが、ちょっと待って、『徒然草』には

「河原に集まって 九品の念佛を唱えていた。昔はいなかったが
近き世に、梵論字(ぼろんじ)、梵字、漢字などいひける者、
その初めなりけるとかや。世を捨てたるに似て、我執ふかく、
佛道を願ふに似て、闘諍(とうじょう)を事とす。放逸無慚の
ありさまなれども、死を輕くして少しもなづまざる〔執著しない〕」

とある。『徒然草』は鎌倉時代の末期に書かれたとされる。
鎌倉時代の末に「ぼろぼろ」いう連中が発生したが、その
初めは「梵字」「漢字」と呼ばれていた、というのだ。

まず「九品(くほん)の念仏」というのは、「極楽往生を
遂げるための念仏」。「九品」とは「極楽往生の際の九つの
階位」。

「宿」は「夙(しゅく)」に通じ、死体捨て場だ。室町時代
以前、庶民は埋葬されず、河原などに打ち捨てられた。

その河原で 死者の弔いをする者が現れた。その連中が、
「一字金輪」の「梵字(種字)」か「漢字」 を書き記した
幡(旗)を掲げていたので「梵字」とか「漢字」と呼ばれて
いた。漢字を読める庶民は少なかった時代だ。なにやら
文字が書かれていれば、「唐・天竺から来たもの」と
有りがたがった。

そして彼らは 「一字金輪の呪(じゅ)=のーまくさんまんだ 
ぼたなん ぼろん」を、調子を変えて9回唱えていたのだろう。
「ぼたなんぼろん」の「ぼろん、ぼろん」が耳に残り
「ボロン字」などと呼ばれたのだ、と私は考える。

つまり、虚無僧の原型は「高野聖」や「放下僧」「ささら者」
などと同類の「念仏宗」だったのだ。


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宿河原

2015-04-09 21:57:33 | 虚無僧日記

南武線の宿河原に行ってきた。

鎌倉時代の最末期1333年に書かれたという『徒然草』の
115段に「宿河原」というのがある。「宿河原という所で
ボロが争って相い果てた」と言う話。ボロは虚無僧の
源流とされる。

「つれづれなるままに」で始まる吉田兼好の『徒然草』は
高校生でも知っているが、115段を知る人は少ない。
ネットで「宿河原」の碑があることを見知っていたが、
宿河原駅を下りて、駅員に聞いても、交番でも、お寺でも、
年配の人に尋ねても、誰も「知らない」という。がっかり。
町の人は全く無関心のようだ。

ひとまず多摩川の土手に出た。河原には 700年昔と同様、
ホームレスとおぼしき人々が小屋を建てて生活していた。
その身なりは結構まともな服装なのだ。決してボロボロの
汚れた格好ではない。

散歩している母娘二組が向こうから来たので訊いてみた。
「知っている」という。「散歩で見たが、内容が難しくて
判らなかった」と、若い母と中学生くらいの娘が教えて
くれた。

宿河原駅より1.5kmほど川下、もう隣りの久地 (くじ) 駅に近い。
東名高速道下の水路脇にあった。東名を走る車の騒音の中、
尺八を取り出して一曲。水路沿いの桜は5分咲き。散歩の
人もチラホラ。だが皆、尺八の音にも無関心を装う。


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徒然草の「宿河原」はどこ?

2015-04-09 21:56:20 | 虚無僧日記

『徒然草』115段「宿河原」本文

 宿河原(しゅくがわら)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、
 九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、
「もしこの御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」
 と尋ねければ、その中より、「いろをしこゝに候ふ。かく
 のたまふは誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。
 己れが師、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと
 承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、
 尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはし
 たり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場を汚し
 侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざし
 たち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、
 仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出で
 あひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。


「宿河原」というところで、ボロたちが九品(くほん)の念仏を
している所へ、よそ者のボロがやってきて、このなかに「いろ
をしという者はいるか?」と訊ねたら「わしだが」と名乗り出た
者がいた。いろをし坊が「お前は誰か」と聞くと、その者は
「しら梵字」と名乗り「自分の師が東国でいろおしというボロに
殺されたというので、恨みを果たしにきた」という。

「宿河原」の場所については、大阪、茨木市にも「宿河原」と
いう町があり、南清水町に『徒然草の碑』がある。茨木市では
「西国街道に面したこちらこそ自然」と広報に記している。

神奈川県の高津か、茨木市か議論されているが、「東国で殺され
たというので訪ねてきた」とあるのだから、神奈川県であろう。
また、吉田兼好が東国まで旅し、横浜市金沢に住んでいたことも
近年判ったので、その時聞いた話というのが有力である。

「宿河原」の地名が鎌倉時代からあったことに驚く。

「宿河原は

多摩川の船着場として栄えていたのだろう」と、ご当地の看板には

書かれているが、ネットで「宿」を調べると


「宿=夙」中世・近世にかけて、主に近畿地方に住み、視
された人々。寺社に隷属し、古くは捕吏、清めの仕事をした。
近世では農業に従事する一方、竹籠・箕(み)・土器作りなどを
して行商し、また雑芸能も行なった。夙の者、宿の者。」とある。

「」から芸能が起こった。その源流のようだ。


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西條八十「その夜のお侍」

2015-04-09 00:52:57 | 「八重の桜」

うたでつづる 明治の時代世相』(国書刊行会出版)の冒頭に
西條八十の詩『その夜のお侍』というのが載っているそうです。
発表されたのは 昭和2年。雑誌『少年倶楽部』。

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宿貸せと 縁に刀を投げ出した
吹雪の夜の お侍。

眉間にすごい 太刀傷の
血さへ乾かぬお侍。

口数きかず 大鼾(いびき)
朝まで睡(ねむ)って行きました。

鳥羽の戦の 済んだころ
伏見街道の一軒家。

その夜炉辺で あそんでた
子供は ぼくのお祖父さん。

吹雪する夜は しみじみと
想いだしては 話します。

うまく逃げたか、斬られたか
縁に刀を投げ出した その夜の若いお侍。

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慶応4年正月3日、鳥羽伏見の戦争が起こり、
会津藩を主とする東軍は敗走した。吹雪の夜、
伏見街道の一軒屋に血まみれの侍がやってきて、
宿を貸せと、そして大鼾(いびき)で朝まで眠りこけた。

それを炉辺で見ていたのは「僕のお祖父」と。
はて、西條八十の祖父だろうか。西條八十は
1892年(明治25年)東京の生まれです。

鳥羽伏見の敗兵の生々しい話は、どのように
八十に伝わったのだろう。

和歌山県では、当時の庶民の聞き書きがまとめ
られていた。慶喜と藩主容保の逃亡によって
置き去りにされた会津藩兵たちは、御三家の
紀州(和歌山)に逃れた。

和歌山県御坊市の久保田久良さんが曾祖母から
聞かされた話には、涙がこぼれます。

「会津の落ち武者が ここへ来られ日は大変寒い日でした。
侍さんたちは家の前に積んであった材木によりかかって
休んでおられた。 怖いもの見たさに 戸の隙間から
のぞいてみました。偉い侍さんが眠ると、お付きの
人達が陣笠をさしかけて顔に雪がかからないように
していました。

翌日には家に入れてあげてもよいことになって・・・(中略)。

娘(久良さんの祖母)が琴を習っていましたので、
お侍さんから 琴を弾いてくれるように頼まれ、
中でも特に平家の「壇ノ浦」を何度も所望されました。
お侍さんは、その曲を何度も涙を流しながら聞入り、
弾き終わると、懐中からお金をつかみ出して、
それを与えてくれました。

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これまた「はて?」です。筝曲に「壇ノ浦」という
曲があったかしらん。琵琶なら解るのですが。
その娘さんは、お侍さんのために、即興で「壇ノ浦」を
歌ったのでしょうか。