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現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

少しの辛抱とたくさんの創意工夫

2011-06-24 20:39:20 | 虚無僧日記
「断捨離」の「やましたひろこ」さんのメルマガ

「少しの辛抱とたくさんの創意工夫の節電」。
いわば、電力消費行動の断捨離!
どんなことでも、面白がって愉しめる人が、
 人生の達人なんでしょうね、きっと。

私は、その「どんなことでも、面白がって愉しむ」性格だ。
「節電」は、効果が「金額」で出るから愉しい。

蛍光灯は半分に減らした。24時間風呂はやめた。こう暑いと
シャワーでいい。エアコンも、部屋を仕切って、一台だけで
すませるようにした。洗濯機は 2日に一回。

「断捨離」は、「生き方」の改善だ。

「お金の無駄、モノの無駄、心の無駄、時間の無駄」
一切の無駄を捨て、今、この瞬間を無駄なく生きる。

「過去のこと、昨日のことを クヨクヨ 思い返さない。
明日のことにも、心を惑わさない。悩まない。」これで
毎日がイキイキ愉しくなってくるから不思議だ。







私は「ダンシャリアン」

2011-06-24 10:40:55 | 虚無僧日記
「断捨離をすると どういう訳か 人は素直になっていく。
誰に対して? 他でもない 自分自身に対して 一番に」。

と「やましたひでこ」さんから「ダンシャリアン」向けの
メルマガ。

良い人と、思われたい・・・
良い人で、いたい・・・
良い人で、ありたい・・・

悪い人と、思われたくない・・・
悪い人で、いたくない・・・
悪い人で、ありたくない・・・

ならば「断捨離」。
とにかく理屈抜きで「断捨離」は 気持ちいい。

地震がきたら、本棚などは倒れて危険だ。
そんなものは要らない。昨日 4つ捨てて すっきり。

本なんて、なんで買ったのだろう。一度読んだだけで、
いや、一度も読まずに積んである本もたくさんある。
売るにも売れない。捨てるのもストレスになる。
もう買うのはやめよう。

ベランダで栽培していたアロエ。増えて増えて困っていた。
「Wikipedia」で「アロエからは、養毛、育毛の成分は検出
されず」とあって、余計ストレスの元となった。髪が増えない
ならば無用だ。全部捨てて、ベランダもすっきり。見晴らしも、
風通しも良くなった。

東日本大震災の避難所生活を思ったら、テレビも要らん。
布団もいらん。24時間風呂もいらん。「無一物」。

私の住まいは「断舎利庵(だんしゃりあん)」。「舎利」とは
「お釈迦さまの お骨」のこと。「仏も断つ」。

なんかカッコええ。自分も「無用の人」に思えてきた。

「断捨離」とは、もてなし。

2011-06-24 10:04:15 | 虚無僧日記
「断捨離」の「やました ひでこ」さんのコラム
『断捨離とは おもてなし』。


誰だって、大切な友人をお招きするとき、家を片づけ、
気の利いた器で、美味しいお茶を用意しようとするで
しょう。

断捨離は、それを、自分で自分に提供していくこと。
断捨離とは、自らが、自らをもてなしていくこと。
自分で、自分を愉しませ、喜ばせていくこと。

そして、その「ごきげん」の輪が、家族、友人、地域へと、
自然と広がっていくのです。

身を整え、場を整える者には、 良き出逢いは 必然となると、
感じる次第であります。

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ホントにそうだ。まずは、住空間を整えて。

本棚が 10もあって、そのうち4本を、今日 ようやく捨てた。

買った時は、4階まで一人で持ち上げたはずだが、
すっかり非力となった。とても一階まで降ろせないから、
「粗大ゴミ」に出せないのだ。

そこで、3カ月ほど、ベランダに野ざらしにして、
ボロボロになったところで、解体して、30cmほどに
切り刻んだのだ。これで可燃物として出せる。

「解体」するのもひと苦労。もう二度と「買いたい」
とは思わなくなった。

山本八重子と山川捨松

2011-06-24 09:09:04 | 会津藩のこと

山本八重子は欧米には行っていないが、古都京都で、
洋装で出歩き、寝室は日本初のベッド、人力車に
乗る時は、レディファーストで 夫 新島襄より先に
乗るなど、日常生活すべて欧米スタイルで過ごした。

そこで、よく混同されるのが「山川捨松」である。
捨松は、会津藩家老「山川大蔵」の妹。山本八重子
よりは 15歳年下。兄の「山川大蔵」は、慶応2年
(1866年)にロシアからヨーロッパ諸国を外遊している。

そして、戊辰戦後の1871(明治4)年、アメリカへ派遣
される女子留学生5人の中に「捨松」も加わった。

次兄の健次郎もエール大学で物理学を学んでいたので、
時々は会っていたようである。

捨松は バァッサー大学に進学。卒業後、看護学の
勉強をし、甲種看護婦の資格を日本人で初めて取得
した。

1882(明治15)年、捨松と津田梅子は11年ぶりに帰国。
時は「鹿鳴館」時代。薩摩出身の陸軍大臣・大山巌
(42歳)に見初められて、後妻となる。捨松24歳。

大山は旧敵 薩摩人で、戊辰戦争では鶴ヶ城を砲撃した
将校である。山川家はじめ会津側は大反対であった。
 
その反対を押し切って、捨松は結婚を決意する。
陸軍大臣夫人となった捨松は「鹿鳴館の貴婦人」と
呼ばれた。 

捨松は、我が国初の看護婦学校設立に関わり、日本
赤十字社に働きかけ篤志看護婦人会を発足させている。
山本八重子も篤志看護婦として日清・日露に従軍している。

大山巌が日清戦争では第二軍司令官、日露戦争では
満州派遣軍総司令官になって活躍。捨松は、アメリカの
週刊誌や『ロンドンタイムス』に寄稿し、日本の立場を
世界に訴え、後の講話条約を有利にするのに貢献した。

しかし、徳富蘆花の小説『不如帰[ほととぎす]』の
「継母」のモデルとされ、世間から「悪妻」と中傷された。

山本八重子も 徳富蘆花の兄「徳富蘇峰」から「頭と足は
西洋、胴体は日本という鵺(ぬえ)のような女」と非難
された。

徳富蘇峰・蘆花兄弟は「会津人」への差別と偏見が
あったようだ。

捨松の次兄「山川健次郎」は 京都帝大の総長にもなって
おり、同志社の「山本覚馬」との接点もあったと
思われるが、さて、NHK大河ドラマでも「山川捨松」は
登場してくるかしらん。




山本八重子の兄「覚馬」

2011-06-24 00:09:00 | 会津藩のこと

福沢諭吉が 長崎で 蘭学と砲術を学んだ師の名は、
「山本物次郎」。「山本物次郎」も砲術家で、盲目
だった。

同時期、会津藩の「山本覚馬」も、砲術家で、盲目
だった。不思議な一致だが、二人の間に結びつきは
無い。ザンネン。むしろ「坂本龍馬」と 共通性が
あるようだ。「坂本龍馬」は「明智光秀の子孫」。
「山本覚馬」は「山本勘介の子孫」と言っている。

「山本八重子」は、この兄「覚馬」を頼って 京都に
行く。「山本覚馬」こそ、もっと知られていい人物だ。

山本覚馬は、会津藩の砲術家だった。砲術研究から
蘭学を学び、ついで英学も学び、西洋の文物、法律に
通じ、京都で「洋学」を教える塾を開いた。私の先祖
の「牧原仲彦」も そこで西洋医学を学んでいた。

そして「攘夷だ開国だと国内で争っている場合では
ない」と、非戦論者だった点で「坂本竜馬」にも
似ている。

鳥羽伏見の戦いの時は、戦争を回避すべく、京都に
留まって、薩摩との調停に暗躍していたが、ついに
開戦となり、薩摩藩に捕えられた。この時、すでに
盲目であった。

「会津藩士」ということで処刑されるところだったが、
西郷隆盛とも親しかったため、薩摩藩邸に監禁された。
この薩摩藩邸(6000坪)を 後に貰いうけ、同志社に
提供するのである。

薩摩藩邸に捕われていた時に、新しい日本のありかたを
説いた『管見』を 薩摩藩に提出する。それが、新政府に
注目され、明治3年、京都府顧問に迎えられる。

山本覚馬は「産業博覧会」を開催するなどして、京都の
産業を興し、推されて府議会議員になり、議長まで勤めた。
“全盲で”である。

京都は、天皇が東京に移り、多くの公家や大名の屋敷も
空家となって、一時期荒廃していたが、それを、日本で
最も進んだ近代都市にしたのは、山本覚馬の『管見』に
基づくものだった。

京都といえば「千年の古都」として「観光収入」に頼る
町かと思われているが、さにあらず。実は、千年、京都は
日本の最新、最先端技術の工業の町であり、その伝統は、
山本覚馬によって再興され、今日まで及んでいるのだ。


山本覚馬の提言

2011-06-24 00:08:47 | 会津藩のこと

慶応4年3月。官軍による「江戸城総攻撃」がまさに
行われようとしている時、会津藩士の「山本覚馬」は
捕われの身でありながら、薩摩藩を通じて新政府に
「新しい世の中の新体制」について提言した。それが
『管見』と題する22項目の提言。


『管見』は、22項目の新しい文明制度を提案している。
〈政 体〉では、天皇を中心とした三権分立を。
〈議事院〉では、二院制議会を。
〈学 校〉では、学校制度を。
〈国 体〉では、国民徴兵制、税金の平等な徴収など。
〈建国術〉では、農業国からの脱皮し、商工業を盛んにして「富国強兵」を。
〈製鉄法〉では、製鉄工業を興して、〈鉄〉文明を。
〈貨 幣〉では、紙幣の発行にみあう「金」の準備を。
〈衣 食〉では、肉食と毛織物の着用による生活改善を。
〈女 学〉では、女子教育の重要性。こどもの教育には女性が重要な役割をもつと。
〈平均法〉では、遺産相続は子供達に平等に分割すべきであると。
〈商 律〉では、貿易振興のための損害保険制度を提言。
〈港 制〉では、外国人の受入れ体制、港の防災体制を。


〈変仏法〉は面白い。肉食妻帯して恥じることなく、他人の妻まで
     取るほどに腐敗した僧侶を教化し、寺を学校としてはどうか。
     僧侶に適さない者は、技術を教えて職人にすべきである、と。

これで、明治4年「廃仏毀釈」令で、仏教は廃され、その後、
多くの寺院は存続を認められたが、「普化宗」と「虚無僧稼業」は 
断罪されたのだ。

京都は「千年の古都」として「観光収入」で もっている町かと
思われがちだが、税収は、観光よりも工業の方が多いのだ。
京都は、今日もれっきとした「近代工業の町」なのである。

寺院が、観光収入にあぐらをかいて堕落しているのだけは
変わっていないようだ。


2013年NHK大河ドラマは「新島八重」に

2011-06-24 00:08:25 | 虚無僧日記
2013年NHK大河ドラマは「新島八重」に。
「東日本大震災の復興プロジェクト」の一環として、
急遽決ったらしい。NHKの公式サイトでは、
「東北・福島に根付く不屈のプライド」で日本に
エールを送る!!と。

2チャンネルでは、早速「会津は被災地とは関係ねぇ」
とか「東北には、もっと誇れる人物はいないのか」と
厳しい意見。それだけ「山本八重子」の知名度は
イマいちだったか。

「同志社を創立した新島襄の妻」と書かれるが、
同志社は「山本八重」とその兄「覚馬」の協力
無くしては、創設できなかった。同志社の 6,000坪
もの敷地は 山本覚馬が提供したものだった。

「山本八重子」の 86年の生涯で、新島襄と過ごした
日々はわずか15年でしかない。彼女の半生は、会津戦争
であり、新島襄が亡くなった後は、八重子の会津人気質は、
同志社からも倦厭され、確執があったようだ。同志社から
離れ、“日本初の篤志看護婦”として日清戦争、日露戦争に
従軍し、"戦う女侍"から"日本のナイチンゲール"へ変身した。

会津戦争では、男どもを叱咤し、戦後は、京都に移り、
いち早く英語を学び、キリスト教の洗礼を受け、新島襄と
日本人初の教会での結婚式を挙げ、なにごとも「レディ
ファースト」。男女平等というより、新島襄より先を行く
「八重子」を、当時の京都の人は「悪妻」呼ばわりした。

昨今は、女性が何事にも、男をしのいでいるが、八重子は、
それを 150年前に 堂々と行っていたのだ。

13歳で、4斗俵を肩まで上げ下げできたという、そんな
「女傑」で、「悪女」「鵺(ぬえ)」と呼ばれた「八重子」を
「綾瀬はるか」が演じるとは、ちょっとイメージが合わない。
ま、「お江」同様、NHKは「新しい新島八重」像を作るの
だろう。