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現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

牧さんの尺八

2009-10-07 12:02:39 | 尺八・一節切
長崎の尺八家松林静風氏は、精力的に尺八つくりと
演奏活動と尺八の歴史の研究を行っておられる。

静風氏のH.P.に、島原城に展示されている「牧覚右衛門の
尺八」について、さまざまな考察がなされている。それに
よれば、島原城の一節切尺八は、「牧覚(角)右衛門の
尺八」として展示されているが、その由来は、父であり
城主の松平重定公が天正10年(1582)持舟城(現静岡市)で
手に入れたもの」とのこと。

「松平重定」は18松平家の一「深溝松平家」の流れで、
島原の乱後、島原城主となった。牧覚右衛門はその子で
あるが臣下に下り「牧」姓を称したらしい。

天正10年といえば、家康軍が静岡県内の武田方の城を
次々攻略し、諏訪原城に牧野康成がはいって「牧の原城」
と改名された年である。そして、現静岡市用宗の持舟城は、
元今川の重臣朝比奈氏秀が守っていたが、戦わず家康軍に
降伏した。
この時、朝比奈氏秀の命を助け、武田方の庵原まで送り
届けたのが松平重定だった。朝比奈氏秀はそのお礼に
「一節切を松平重定に贈った」というような記述を、私は
以前読んだ記憶があるのだが、出典が思い出せない。

朝比奈氏はかつて今川の重臣であり、桶狭間の時は、
松平元康(後の家康)とともに、信長と戦った縁があった。

この後、家康は牧の原城を経て甲斐に攻め入り、武田勝頼
を滅ぼす。そして信長は、甲斐から牧の原城を経て、駿河
三河を通り安土に戻った。その2ヶ月後には、本能寺で討た
れるのである。天正10年は波乱の年だった。


忍城と尺八

2009-10-07 10:50:37 | 虚無僧って?
歴史ブームとか。「石田三成の忍城攻め」についても
知られるようになってきた。

天正18年(1590)年、秀吉の小田原北条攻めが行われた。
秀吉は、全国の大名を集めて、十重二十重に小田原を
囲み籠城戦を張った。その間、関東各地の北条方の城を
前田利家等に攻めさせた。その中で、小田原開城後も
落ちなかったのが、埼玉県行田市の忍城だ。攻めての
総大将は石田三成だったのにである。

城主は小田原に入っていて、守るは家臣だけだったのに
である。忍城の城兵たちは、城主不在のまま勇猛果敢に
戦った。

開城後、忍城は家康の四男忠吉が城主となったが、忠吉は
まだ幼少だったので、実際に着任して、城の普請にあたった
のは深溝松平氏の家忠。島原に移封した松平忠房の祖父だ。

忍城で戦死した秋山惣右衛門の倅が、流浪して虚無僧となり、
父の同僚吉野織部の援助で、青梅に一寺を建て、虚無僧
本寺の鈴法寺となった。

北条方の忍城の浪人と青梅鈴法寺と、持舟城の敗将と
島原城の尺八。深溝松平家は、その双方に接点があった。
ここからもっと何か出てこないか、模索中である。