長崎の尺八家松林静風氏は、精力的に尺八つくりと
演奏活動と尺八の歴史の研究を行っておられる。
静風氏のH.P.に、島原城に展示されている「牧覚右衛門の
尺八」について、さまざまな考察がなされている。それに
よれば、島原城の一節切尺八は、「牧覚(角)右衛門の
尺八」として展示されているが、その由来は、父であり
城主の松平重定公が天正10年(1582)持舟城(現静岡市)で
手に入れたもの」とのこと。
「松平重定」は18松平家の一「深溝松平家」の流れで、
島原の乱後、島原城主となった。牧覚右衛門はその子で
あるが臣下に下り「牧」姓を称したらしい。
天正10年といえば、家康軍が静岡県内の武田方の城を
次々攻略し、諏訪原城に牧野康成がはいって「牧の原城」
と改名された年である。そして、現静岡市用宗の持舟城は、
元今川の重臣朝比奈氏秀が守っていたが、戦わず家康軍に
降伏した。
この時、朝比奈氏秀の命を助け、武田方の庵原まで送り
届けたのが松平重定だった。朝比奈氏秀はそのお礼に
「一節切を松平重定に贈った」というような記述を、私は
以前読んだ記憶があるのだが、出典が思い出せない。
朝比奈氏はかつて今川の重臣であり、桶狭間の時は、
松平元康(後の家康)とともに、信長と戦った縁があった。
この後、家康は牧の原城を経て甲斐に攻め入り、武田勝頼
を滅ぼす。そして信長は、甲斐から牧の原城を経て、駿河
三河を通り安土に戻った。その2ヶ月後には、本能寺で討た
れるのである。天正10年は波乱の年だった。
演奏活動と尺八の歴史の研究を行っておられる。
静風氏のH.P.に、島原城に展示されている「牧覚右衛門の
尺八」について、さまざまな考察がなされている。それに
よれば、島原城の一節切尺八は、「牧覚(角)右衛門の
尺八」として展示されているが、その由来は、父であり
城主の松平重定公が天正10年(1582)持舟城(現静岡市)で
手に入れたもの」とのこと。
「松平重定」は18松平家の一「深溝松平家」の流れで、
島原の乱後、島原城主となった。牧覚右衛門はその子で
あるが臣下に下り「牧」姓を称したらしい。
天正10年といえば、家康軍が静岡県内の武田方の城を
次々攻略し、諏訪原城に牧野康成がはいって「牧の原城」
と改名された年である。そして、現静岡市用宗の持舟城は、
元今川の重臣朝比奈氏秀が守っていたが、戦わず家康軍に
降伏した。
この時、朝比奈氏秀の命を助け、武田方の庵原まで送り
届けたのが松平重定だった。朝比奈氏秀はそのお礼に
「一節切を松平重定に贈った」というような記述を、私は
以前読んだ記憶があるのだが、出典が思い出せない。
朝比奈氏はかつて今川の重臣であり、桶狭間の時は、
松平元康(後の家康)とともに、信長と戦った縁があった。
この後、家康は牧の原城を経て甲斐に攻め入り、武田勝頼
を滅ぼす。そして信長は、甲斐から牧の原城を経て、駿河
三河を通り安土に戻った。その2ヶ月後には、本能寺で討た
れるのである。天正10年は波乱の年だった。