昔、静岡県の、富士が美しい姿を見せる場所に、大石寺、という寺がありました。
タイセキジ、と読みます。でも、私のパソコンでは、何度打っても、きちんと変換してくれないので、仕方なくオオイシテラと打っています。
昔は風格のあるお寺でした。
そのまたずっと昔は寂れた田舎寺だったそうです。
私が最初にそこに行った時のオオイシテラは、重厚で、質素な、生命が洗われるような、凛とした空気に満ちた場所でした。
行く度に整備されて、建物が増えて、しかしすべてが信仰の対象のものでした。決して華美なものはなかったのです。
平成になって、大きく時代が動いた時、オオイシテラでも大きな動きがありました。
そこの住職(御法主上人猊下様と言うのだそうです)が自分の気に入った者だけしか、この寺に参詣してはならない、参詣したかったら末寺の許可をもらって来い、それ以外は許さん、と言って、多くの参詣者を切り捨ててしまったのです。
最後の登山会、多くの人が名残りを惜しむかのように、オオイシテラに押し掛けました。
富士宮駅を取り囲んで、長い長い人の列が続きました。
でも、その時、すでにわざわざ参詣しに来るところではない、と思った人もいました。質実剛健な信仰の息吹は姿を消し始め、瀟洒な京なめりのはんなりした姿が現れ始めていたからです。
オオイシテラには昔、正本堂、という建物がありました。
多くの人たちが、三大秘法の最後の一つ、本門の事の戒壇が立つ、と言うので、生活を切りつめ、子供たちは小遣いをためて、一所懸命御供養をして、願主には当時の創価学会会長がなって、当時の建築技術のすべてを結集して建ち上がったものです。
大きく反った屋根は、富士の裾野に鶴が舞い降りたような、優美で力強い姿をしていました。
正本堂が建って、最初に登山した時、自分のわずかな御供養は、この建物のどこに使われたんだろう、と誰もが思ったはずです。
敷石の一枚か、基礎のコンクリートか、窓ガラスか。
どこでも良い、自分の御供養によって、この正本堂は建ち上がったのだ。確かにあの御供養は、この建て物に使われたのだ。
正本堂は、我々のものだ。確かな、民衆立の戒壇なのだ。
この満足感で、人々はオオイシテラに参詣したのです。
しかしその寺の住職は、信徒の純粋な思いの欠片も感じていませんでした。
贅沢に慣れきった住職は、やがて一千万信徒の幸福など無視して、一方的に破門して来たのです。
お寺があるんだ、多くの者が自分につくはずだ、との思惑からです。
しかし学会員の思いは、住職のそれとは違っていました。宗門は破門したつもりかもしれないが、我々にとって不要な存在がいなくなっただけだ。それぐらいにしか感じなかったのです。
もっと言えば。長い仏教史の中で、僧の時代が終わって、俗の時代が始まった、まさに世界広宣流布の幕開けが、破門の時だったのです。
その後、住職はさらに暴走して、大金をはたいて正本堂を破壊してしまいました。しかしびくともしなかった基礎までは壊しきれず、その上に、何ともお粗末な奉安堂と言うものを建てたのです。
桜も切りました。
ともかくここの住職は、生きている物が大嫌いなようです。
オオイシテラに行かなくなっても、信心に何の変りもありません。むしろ深まったでしょうか。
形式を捨て、純粋に信仰に励めるようになったからです。
完全な別宗教となったオオイシテラは、さらに贅沢に拍車をかけ、境内を作り直し、観光地としてはいい場所になってきているようです。
世界に開いて行く創価学会の、かつては足手まといだったお寺を、今、一体誰が懐かしがっている、と言うのでしょうか。
タイセキジ、と読みます。でも、私のパソコンでは、何度打っても、きちんと変換してくれないので、仕方なくオオイシテラと打っています。
昔は風格のあるお寺でした。
そのまたずっと昔は寂れた田舎寺だったそうです。
私が最初にそこに行った時のオオイシテラは、重厚で、質素な、生命が洗われるような、凛とした空気に満ちた場所でした。
行く度に整備されて、建物が増えて、しかしすべてが信仰の対象のものでした。決して華美なものはなかったのです。
平成になって、大きく時代が動いた時、オオイシテラでも大きな動きがありました。
そこの住職(御法主上人猊下様と言うのだそうです)が自分の気に入った者だけしか、この寺に参詣してはならない、参詣したかったら末寺の許可をもらって来い、それ以外は許さん、と言って、多くの参詣者を切り捨ててしまったのです。
最後の登山会、多くの人が名残りを惜しむかのように、オオイシテラに押し掛けました。
富士宮駅を取り囲んで、長い長い人の列が続きました。
でも、その時、すでにわざわざ参詣しに来るところではない、と思った人もいました。質実剛健な信仰の息吹は姿を消し始め、瀟洒な京なめりのはんなりした姿が現れ始めていたからです。
オオイシテラには昔、正本堂、という建物がありました。
多くの人たちが、三大秘法の最後の一つ、本門の事の戒壇が立つ、と言うので、生活を切りつめ、子供たちは小遣いをためて、一所懸命御供養をして、願主には当時の創価学会会長がなって、当時の建築技術のすべてを結集して建ち上がったものです。
大きく反った屋根は、富士の裾野に鶴が舞い降りたような、優美で力強い姿をしていました。
正本堂が建って、最初に登山した時、自分のわずかな御供養は、この建物のどこに使われたんだろう、と誰もが思ったはずです。
敷石の一枚か、基礎のコンクリートか、窓ガラスか。
どこでも良い、自分の御供養によって、この正本堂は建ち上がったのだ。確かにあの御供養は、この建て物に使われたのだ。
正本堂は、我々のものだ。確かな、民衆立の戒壇なのだ。
この満足感で、人々はオオイシテラに参詣したのです。
しかしその寺の住職は、信徒の純粋な思いの欠片も感じていませんでした。
贅沢に慣れきった住職は、やがて一千万信徒の幸福など無視して、一方的に破門して来たのです。
お寺があるんだ、多くの者が自分につくはずだ、との思惑からです。
しかし学会員の思いは、住職のそれとは違っていました。宗門は破門したつもりかもしれないが、我々にとって不要な存在がいなくなっただけだ。それぐらいにしか感じなかったのです。
もっと言えば。長い仏教史の中で、僧の時代が終わって、俗の時代が始まった、まさに世界広宣流布の幕開けが、破門の時だったのです。
その後、住職はさらに暴走して、大金をはたいて正本堂を破壊してしまいました。しかしびくともしなかった基礎までは壊しきれず、その上に、何ともお粗末な奉安堂と言うものを建てたのです。
桜も切りました。
ともかくここの住職は、生きている物が大嫌いなようです。
オオイシテラに行かなくなっても、信心に何の変りもありません。むしろ深まったでしょうか。
形式を捨て、純粋に信仰に励めるようになったからです。
完全な別宗教となったオオイシテラは、さらに贅沢に拍車をかけ、境内を作り直し、観光地としてはいい場所になってきているようです。
世界に開いて行く創価学会の、かつては足手まといだったお寺を、今、一体誰が懐かしがっている、と言うのでしょうか。