『禅宗云く、是心即仏・即身是仏と。答えて云く、経に云く「心は是れ第一の怨なり。此の怨、最も悪と為す。此の怨、能く人を縛り、送つて閻羅の処に到る。汝独り地獄に焼かれて、悪業の為に養う所の、妻子兄弟等・親属も救うこと能わじ」云云。
涅槃経に云く「願つて心の師と作つて心を師とせざれ」云云。愚癡無懺(グチムザン)の心を以て即心即仏と立つ。豈未得謂得・未証謂証の人に非ずや。(蓮盛抄 152頁)』
(読みやすいように句読点、改行を加えました)
蓮盛抄は、建長七年 日蓮大聖人三十四歳の御作とされるものです。禅宗に対しての破折がなされています。冒頭の文は、その禅宗の誤りを、実に見事に言い表わされている部分ではないでしょうか。通解の必要もないでしょう。
ただ、ここで気を付けなければならない事は、心を師とすることの怖さです。
まず一言言っておきたいことは、よく言われるように、弱い心とか、移ろいやすい心を師として、ということを、私は考えていません。心を師として、宗教の域にまで高めた禅宗の精神の固さは、理解を超えるものがあります。すべての苦痛を、喜びとさえしてしまうほど、すさまじいまでに堅固な精神力を持ったものが禅宗だ、ということです。禅宗を基軸にした武士が、切腹を誇りとしたことを見ても、それはわかると思います。
「武士道とは、死ぬことと見つけたり」といった葉隠れの精神も、禅宗が基本にあった、と言えるのかもしれません。
閑話休題
最近ネットに現れた、仏教の鬼っ子思想に「己心の妙法が本」というのがあります。よく読んでいくと、禅宗を基本にするほどの精神力があって言っているようにも見えず、さりとて、本来の仏法の深い思想から発されているとも思えません。
年老いたはぐれ仏教徒の、単なる思いつき、と言ったら言い過ぎでしょうか。その程度の内容としか思えないぐらいのものです。
しかし、自己顕示欲が異常に強かったり、自らの置かれた位置に満足できなかったり、中途半端に仏法がわかったように思いたい方々にとっては、実に心地いい響きを持つのかもしれません。
これこそが仏法である、とごく一部の人たちが、その教義で、市民権を得ようと必死です。
そもそも日蓮大聖人は、何のために御本尊を顕されたのでしょうか。それを考えると、小難しい理屈など必要なくなるはずなのです。
『顕仏未来記』という御書があります。その中に,正法時代、像法時代の衆生の方が機根が勝れているのに、なぜ広宣流布はその二つの時をはずして、末法を選んだのか、との問いかけがあります。
衆生の機根が勝れていれば、宗教は力がなくてもいいが、末法のように善根のない衆生は、本当に力のある宗教によってしか救われないから、大聖人は末法に出現して、すべての人が、平等に修行して、平等に成仏できるように、御本尊を現わされた、というのです。
確かに、一切衆生は、その生命に仏界も持っています。その仏界を以って「己心の妙法」と言えるでしょう。しかしそれは、生命全体の三千分の一にすぎないのです。
三千分の一。
そんな当てにできないものを本としたら、どんな人生を送ることになってしまうのでしょうか。自らの、全く当てにできない仏界を本とした時に、どこかで御本尊をないがしろにし、禅宗と同じような、心を師とした生き方になってしまうのではないでしょうか。
「己心の妙法が本」という教義が、正しい、と思っていらっしゃる方がいたら、ちょっとご自分の一日の生命の動きにを冷静に見つめてみてください。
「私が正しいのです」とおっしゃるその御老人の基底は、ご本人は菩薩だ、と思っているようですが、まさに勝他の念にかられた修羅です。シンパさん達は、それよりも当然低い境涯を基底にしているので、その御老人の修羅さえも、立派に見えてしまうのでしょう。
そして、その方たちの文面から感じることは、自らの置かれた立場の危うさに、全く気が付いていない怖さです。
仏法は厳しいものです。
どんなに取り繕ったとしても、自らを誤魔化すことはできません。
たとえ誤魔化せたとしても、同生天・同名天の監視から逃れることはできません。
そういえば、この御老人は、こんな事も言っていましたね。
「法華経の兵法を用いるのではなく、法華経を兵法として用いるのだ。(趣意)」
「心の師」となる事を言っている仏法に対して、「心を師」として人生を送る方にとっては、ぴったりの教義なのかもしれない、とふと思ってしまいました。
でも、幸せになりたい、と思っているのだったら、絶対に「自らの心を師」とするような生き方だけは、避けて行きたいものですね。
涅槃経に云く「願つて心の師と作つて心を師とせざれ」云云。愚癡無懺(グチムザン)の心を以て即心即仏と立つ。豈未得謂得・未証謂証の人に非ずや。(蓮盛抄 152頁)』
(読みやすいように句読点、改行を加えました)
蓮盛抄は、建長七年 日蓮大聖人三十四歳の御作とされるものです。禅宗に対しての破折がなされています。冒頭の文は、その禅宗の誤りを、実に見事に言い表わされている部分ではないでしょうか。通解の必要もないでしょう。
ただ、ここで気を付けなければならない事は、心を師とすることの怖さです。
まず一言言っておきたいことは、よく言われるように、弱い心とか、移ろいやすい心を師として、ということを、私は考えていません。心を師として、宗教の域にまで高めた禅宗の精神の固さは、理解を超えるものがあります。すべての苦痛を、喜びとさえしてしまうほど、すさまじいまでに堅固な精神力を持ったものが禅宗だ、ということです。禅宗を基軸にした武士が、切腹を誇りとしたことを見ても、それはわかると思います。
「武士道とは、死ぬことと見つけたり」といった葉隠れの精神も、禅宗が基本にあった、と言えるのかもしれません。
閑話休題
最近ネットに現れた、仏教の鬼っ子思想に「己心の妙法が本」というのがあります。よく読んでいくと、禅宗を基本にするほどの精神力があって言っているようにも見えず、さりとて、本来の仏法の深い思想から発されているとも思えません。
年老いたはぐれ仏教徒の、単なる思いつき、と言ったら言い過ぎでしょうか。その程度の内容としか思えないぐらいのものです。
しかし、自己顕示欲が異常に強かったり、自らの置かれた位置に満足できなかったり、中途半端に仏法がわかったように思いたい方々にとっては、実に心地いい響きを持つのかもしれません。
これこそが仏法である、とごく一部の人たちが、その教義で、市民権を得ようと必死です。
そもそも日蓮大聖人は、何のために御本尊を顕されたのでしょうか。それを考えると、小難しい理屈など必要なくなるはずなのです。
『顕仏未来記』という御書があります。その中に,正法時代、像法時代の衆生の方が機根が勝れているのに、なぜ広宣流布はその二つの時をはずして、末法を選んだのか、との問いかけがあります。
衆生の機根が勝れていれば、宗教は力がなくてもいいが、末法のように善根のない衆生は、本当に力のある宗教によってしか救われないから、大聖人は末法に出現して、すべての人が、平等に修行して、平等に成仏できるように、御本尊を現わされた、というのです。
確かに、一切衆生は、その生命に仏界も持っています。その仏界を以って「己心の妙法」と言えるでしょう。しかしそれは、生命全体の三千分の一にすぎないのです。
三千分の一。
そんな当てにできないものを本としたら、どんな人生を送ることになってしまうのでしょうか。自らの、全く当てにできない仏界を本とした時に、どこかで御本尊をないがしろにし、禅宗と同じような、心を師とした生き方になってしまうのではないでしょうか。
「己心の妙法が本」という教義が、正しい、と思っていらっしゃる方がいたら、ちょっとご自分の一日の生命の動きにを冷静に見つめてみてください。
「私が正しいのです」とおっしゃるその御老人の基底は、ご本人は菩薩だ、と思っているようですが、まさに勝他の念にかられた修羅です。シンパさん達は、それよりも当然低い境涯を基底にしているので、その御老人の修羅さえも、立派に見えてしまうのでしょう。
そして、その方たちの文面から感じることは、自らの置かれた立場の危うさに、全く気が付いていない怖さです。
仏法は厳しいものです。
どんなに取り繕ったとしても、自らを誤魔化すことはできません。
たとえ誤魔化せたとしても、同生天・同名天の監視から逃れることはできません。
そういえば、この御老人は、こんな事も言っていましたね。
「法華経の兵法を用いるのではなく、法華経を兵法として用いるのだ。(趣意)」
「心の師」となる事を言っている仏法に対して、「心を師」として人生を送る方にとっては、ぴったりの教義なのかもしれない、とふと思ってしまいました。
でも、幸せになりたい、と思っているのだったら、絶対に「自らの心を師」とするような生き方だけは、避けて行きたいものですね。
削除依頼、との事ですが、もし凰陣さんが迷惑でなければ、このままにしていたいと思います。
凰陣さんのコメントには、とても大事な内容があるからです。
件の思想を主張なさる方、またそれに同調する方々からは、現実に対する不平不満しか感じません。よほどの「怨」を持って、長い期間を過ごされて来たのではないか、と思ってしまいます。
「己心の妙法」が本当に本であるのなら、すべての人にそれは存在するのだから、決して他人の事を悪く言えないはずです。不行菩薩が行ったと同じように、何をされても、言われても、ただ礼拝をすべきなのですが、言い出しっぺの方にも、その信奉者の方々にも、その覚悟など微塵もありません。
その方は、一応創価の名を語ってはいるようですが、もうすでに別の宗教だと思っています。
だって、あれほど価値を生まない思想まがいのものって、ありませんものね。
>最近ネットに現れた、仏教の鬼っ子思想に「己心の妙法が本」というのがあります。
>よく読んでいくと、禅宗を基本にするほどの精神力があって言っているようにも見えず、
>さりとて、本来の仏法の深い思想から発されているとも思えません。
私も最初は、禅宗思想が基本にあるのかな~ と、思いましたが
彼と接する中でまったくちがうことに気付きました。
あれは、法華誹謗という魔の精神力でしょう。。
「魔の精神力」といっても経典にも載っていない「暇(ヒ魔)人」という
程度の低い魔ですが・・・。笑
>年老いたはぐれ仏教徒の、単なる思いつき、と言ったら言い過ぎでしょうか。
>その程度の内容としか思えないぐらいのものです。
それぐらいの小物ですから多分、本体も動かないのでしょう。笑
例えて言うと、魔王が親分です。その子分の子分に、つまりチンピラを
追い込みすぎると何を仕出かすかわからない脳乱ですから、そのまま
自滅現証が出るまでソッとしているのでしょう。。
そして、そのチンピラの子分も彼が自滅した時点で終わりでしょう。
いつの時代も退転者はいるものです。後世の衆生のための負のモデルです。
しかし、あいかわらず市丸さんはハッキリすぱっと言いますねぇ ケラケラ
理路整然とした論旨にあらためて敬意をあらわしたいと思います。
警鐘を鳴らす方々の“黙っていられない気持ち”こそが、友を救いたいとの学会精神そのものだと思います。
折伏しかり、同志激励もしかりです。
自らすすんでこの道を実践した人であるなら、説明など不要な、学会の常識です。
よくよく観察しますと、某老人説に「警鐘を鳴らす人」たち(=私ども)以外の方たちは、2種類に分けることができると思います。
某老人説「同意・擁護派」と「放置派」です。
私は今もっとも対応が難しいと思っているのが後者の放置派です。
放置とは名ばかりで、間接・直接にいたるところで擁護しているとしか思えないのが実情です。
心のどこかで某老人の主張に親しみを持つ部分があるんでしょうね。
某老人は我々が知る学会活動への不満を常に主張しているわけですから、そこに親しみが見え隠れする彼らHNに、共通する何かを感じるのは私だけではないでしょう。
さて、彼らはシンパと呼ばれることに異常に反論します。
更に、“放置”の中身の多くは、某老人説に正邪をつけることさえ疑問を呈しているのが現状で、その意味では根底に某老人説のベースの一端を担う「私は私、貴方は貴方」に侵されていることが伺われます。
紛らわしくも両者(同意派、放置派)は同根であり、大聖人門下として各々がそのように実践した“行き着く先”は同じであると思われてなりません。
同意派の誤りは言うまでもありませんが、放置派の恐ろしさこそが、“紛然と襲い来る魔”への無防備の裸姿そのものと言えるのではないでしょうか。
「いったい誰が(某老人の)影響を受けたというのか?」と主張する者もいます。
彼らに言ってやります。
「貴方だよ」(笑)
「不特定多数のROM同志への影響を甘く見るな」
そう付け加えておきましょう。
かつてのナチスの巧妙な世論への刷り込みを例にあげ、先生は指導くださりました。
「甘い関心、そして傍観こそがそれを巨大化させた最大の原因だ」とも。
「たかがネット」
しかし、某老人は「現代はネットが武器」とし、
「ネットを使って自分の考えを布教する」とまで宣言している。
ネットが持つ現代の底知れぬ力を熟知した確信犯です。
こうした警鐘に対し、「リアルの学会活動こそ大事」と一蹴する意見もあります。
まったくのスリカエです。
情報媒体としてのネットの一般化は、望む望まざるに関わらず現代の様相です。
そこを使って、同志に誤った考えを明確に「吹き込む」と宣言している某老人を諌め、その影響を阻もうとする行動と、
学会活動とは二者択一するような問題ではありません。
むしろ、その学会活動を冒涜する主張をおこなっているのは某老人なのですから、雨漏りを直さず水汲みを説いているとも言えます。
彼らがよく用いる「ネットは自己責任」説を、リアル社会に当てはめると、
「悪い宗教に騙されるのは本人のせい」と言っていることと変わりありません。
では私は問いたい。
突き放すことを正当化するのであるなら、
「折伏する教団」は必要なくなるではないか。
ああ、やっぱり彼らは創価学会の同志ではないのでしょう。
もしくは、ただの構成員。言い過ぎでしょうか?
だって、師匠たる池田先生は何とおっしゃっているか。「学会活動こそ」です。
「同志」とは生死を越えて貫く魂のことです。
もう少し、先生を先生と呼ぶ理由、その厳粛さに気付いて欲しいものです。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。
うーん、すごい内容です。コメントされておられる皆様もすごい内容で、とても足元には及ばないと思いました。絶対に、私の脳みそからは、出てこない内容です。
さて、今回の市丸様の『心を師とする「己心の妙法が本」』を読み、自らの信心の姿勢を正す、大きな刺激を受けました。
特に「どこかで御本尊をないがしろ」…の箇所は、素直にグサッ、グサッと心に刺さりました。
御本尊様への感謝の念が薄れている時、そんな命が私の中にあるなと、恥ずかしい話ですが、自らを見つめ直しました。
非常に大切なことを気づかせて頂きました。
ちなみに、初めての投稿で、誠に余計な一言ですが、市丸様の凰陣様へのコメントの「不行菩薩」は「不軽菩薩」ではないかと。
とにかく、鋭い内容でとても勉強になりました。
今後も、どうか、宜しくお願い申し上げます。
「市丸の雑記帳」を楽しみにします。
そうですね、不行ではなく不軽ですね。
ご指摘ありがとうございます。
今後とも、よろしくお願いします。
以前、男子部の彼の経済力で悩んでいたよちよちです。
彼との結婚が決まりました。
ただ、女子部を卒業するタイミングで悩んでいます。
先日、彼と彼がお世話になっている先輩のお宅へ伺いました。
その方に
『結婚を決めたなら、すぐに結婚したほうが良いよ。長い春は良くないと思う』と言われました。
私は来年の参議院まで女子部で戦って卒業と思っていたのですが・・・。
籍を入れると彼の給料に手当がついてお給料が3~4万UPするそうです。
地元の先輩にも指導を受けようと思っているのですが、ぜひぜひ市丸さんのご意見も伺いたいと思いまして・・・。
おめでとうございます。
で、入籍のタイミング、という事ですが、来年までも待つ必要はないのではないか、と私は思います。
もちろん後継の人事にまで、きっちり責任を持つことは大事ですが、それ以外の事は、考えなくても良いのではないでしょうか。
戦いは、女子部であろうと婦人部になろうと続きます。むしろ婦人部の方が、本当の戦いに突入、と言えるかもしれません。
自分の宿命転換と、家族の宿命転換と、一家和楽を目指しての戦いと、いくつもの要素がからんでくるからです。
特別な障害がない限り、結婚を伸ばすことはないのではないですか。
お相手の方もしっかり信心をしていらっしゃるようですし、常に信心の事を語り合える家族というものは、この上ない存在ですよ。
私個人的には、やはり一刻も早い結婚をお勧めします。
幸せになってくださいね。
そして、結婚してからも、いっぱい福運を積んでくださいね。
また、素敵な報告を、待っています。
結婚を来年の参議院後にしたのは、
私が現在歯列矯正をしていて
その治療が終了(ワイヤーが外れる)するのが、
来年の夏頃なので、それが終わったら結婚式を
しようと思っていたので、参議院まで戦って
女子部卒業&8月に結婚式をと考えておりました。
先日初めて結婚式場の見学に彼と行ったのですが、やはり夏の結婚式はとても暑いので主催側も参加される方にも負担が大きいのでは?と
いうことで、来年の10月に式を挙げる事に
なりました。
それぐらい時間に余裕があると式を挙げるまで貯金もできるし気候も良さそうなので、ちょうど良いかと思っています。
女子部の組織に関して、今の組織の発展に
貢献できたのか?人材は輩出できたのか?
と考えると、答えはNOだなぁって思います。
『戦いきった!!!』という生命状態でない事が
結婚のタイミングをうじうじ考えてしまう
一番の原因なのかもしれません・・・。
これから100万遍のお題目に挑戦して
その中で答えを出したいと思います。
尊敬する先輩にもじっくり話を聞いて
いただこうと思っています。
市丸さんのアドバイス、いつも心に沁みます。
本当にありがとうございます。
その目的に向かって、これから一年、題目に挑戦されるとの事、立派だと思います。
女子部最後の一年、悔いなく過ごして行ってください。
今後のよちよちさんの健闘を祈ります。
ともあれ、本当におめでとうございました。
【妙法蓮華経勧持品弟十三】
惑有阿練若 納衣在空閑
自謂行眞道 軽賤人間者
「或いは阿練若に、納依にて空閑に在りて
自ら真の道を行ずとおも(謂)いて 人間を軽賤する者あらん。」
人里を離れて、自分では真実の仏道修行を実践していると思いこみ、法華経の弘通者たちを軽んじ賤しめる。いやはや本当に組織を離れてしまってはお話になりませんね。
あとこのようなものもありました。
【妙法蓮華経常不軽菩薩品弟二十】
得大勢彼時四衆比丘比丘尼優婆塞
優婆夷以瞋恚意軽賤我故二百億劫
常不値佛不聞法不見儈千劫於阿鼻
地獄受大苦悩
書き下し文はややこしいので省略します。すいません。
ともかく、常不軽菩薩を瞋恚の心で軽んじ賤しめ驕り高ぶった比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷は尊敬や親切を大きなお世話だと、常不軽菩薩を迫害した罪により、二百億劫という長い間、仏に会うことができず僧団をみることができず、千劫の間、阿鼻地獄において大いなる苦悩を受けたとのことですが、
さてさて、なかなか様々に広い意味において組織の中の様々な人間模様を念頭に置き換えましても思索、模索するものでもありました。
しかし、法華経にはこれらの人々にも救済があることは知られたことですが、結局、これらの人々が救われるのは常不軽菩薩の教化に出会ってということ。
実のところはもっともっと深いものがこの常不軽菩薩品にはあるのですが長くなるので省略。
ともあれ淡々と毎日毎日、現場で活動させて頂くことにより、その目線が、また目指す信心の方向性がネット活動家とは違ったものがありますね。
河内平野さん はじめまして
>それぐらいの小物ですから多分、本体も動かないのでしょう。笑
まったく同意見です。
さて、また現場に戻るといたします。
皆様、お茶を濁すようで申し訳あありませんでした。
己義を構える者は、御書を読んでいないのでしょうか?読んだとしても、信心がないので、節穴なのでしょうね。哀れきわまりない姿であると同時に、「こうなっちゃいけないよ」という反面教師を、身をもって演じてくださっているのでしょうね。
センスの無い愚者と議論しても埒があきません。
O氏は良識が無く、教学も半端。