女子部は教学で立て、とは戸田先生の時からの女子部に対する、一貫した指導です。
なぜ女子部は、教学で立て、なのか、考えた事があります。
女性は、理性よりも感情が勝ってしまう事が多いものです。そのため大事な時の判断を誤りかねません。その失敗をしない為には、理論的な裏づけをしっかり持っていることが大事なのです。
この理論的裏づけは、あらゆる場面で自分を守ってくれます。
また相手の間違いを指摘する時、納得行く話しの展開が出来るようになります。
つまりいざと言う時、間違った情報から自分を守ってくれる鎧となり、対話においては間違った考えに引っ張られない武器となるのです。
教学を学んでいくと、実にマインド・コントロールにかかりにくい人間が出来上がります。自分の考えのフィルターを通して、それが科学的に正しいのか、理の通ったものなのか、冷静に考えられるようになるのです。
自分の考えが間違っていたとして、それも素直に認められるようになります。
つまり、常に自然体で世間に対処していけるようになるのです。
一方、教学的な裏づけがないばかりに、信心が分らなくなり、学会を辞めていく人に共通している一つには、頭が良い事が上げられると思います。男女を問いません。世間的にも常識をわきまえ、学力から行ったら、たぶんトップクラスに、ずっといたような人達です。
だからわざわざ学ぶ必要がなかったのかもしれませんが、それと同時に、自分の能力を過信するあまり、騙されないぞ、騙されないぞ、と依怙地になって、自分の心に縛られ、大局的な本質を見抜けなくなって行ったのではないかと思うのです。
それは釈迦よりも自分のほうが頭も良いし、なぜアイツばかりが、と反逆して行ったダイバダッタに良く似ています。
私はむしろ、何も分からなくても、たった一つの法理を信じて悟りをえたスリ・ハンドクでありたいと思います。
教学を学ばない、学んでも理解しない、理解しても生命に刻まない。
こんな人たちは、自分が優秀だ、と心のどこかで思っているのではないでしょうか。多分百人が百人否定するでしょう。しかし無意識では、人よりいつも優位に立っていたいと思っているはずです。
こんな人が教学を学んでも、学校の授業と一緒。むしろ教えてくれている人より、自分が勝れているのに、と言う感情から、いつも我見が入り込んできます。そんな人にとっては、日蓮大聖人といえども、そこらのおっちゃん、以上にはならないのです。
でも、何度でも言います。
こんな人は、とても頭だけは良い、優秀な人間なのです。
なぜ女子部は、教学で立て、なのか、考えた事があります。
女性は、理性よりも感情が勝ってしまう事が多いものです。そのため大事な時の判断を誤りかねません。その失敗をしない為には、理論的な裏づけをしっかり持っていることが大事なのです。
この理論的裏づけは、あらゆる場面で自分を守ってくれます。
また相手の間違いを指摘する時、納得行く話しの展開が出来るようになります。
つまりいざと言う時、間違った情報から自分を守ってくれる鎧となり、対話においては間違った考えに引っ張られない武器となるのです。
教学を学んでいくと、実にマインド・コントロールにかかりにくい人間が出来上がります。自分の考えのフィルターを通して、それが科学的に正しいのか、理の通ったものなのか、冷静に考えられるようになるのです。
自分の考えが間違っていたとして、それも素直に認められるようになります。
つまり、常に自然体で世間に対処していけるようになるのです。
一方、教学的な裏づけがないばかりに、信心が分らなくなり、学会を辞めていく人に共通している一つには、頭が良い事が上げられると思います。男女を問いません。世間的にも常識をわきまえ、学力から行ったら、たぶんトップクラスに、ずっといたような人達です。
だからわざわざ学ぶ必要がなかったのかもしれませんが、それと同時に、自分の能力を過信するあまり、騙されないぞ、騙されないぞ、と依怙地になって、自分の心に縛られ、大局的な本質を見抜けなくなって行ったのではないかと思うのです。
それは釈迦よりも自分のほうが頭も良いし、なぜアイツばかりが、と反逆して行ったダイバダッタに良く似ています。
私はむしろ、何も分からなくても、たった一つの法理を信じて悟りをえたスリ・ハンドクでありたいと思います。
教学を学ばない、学んでも理解しない、理解しても生命に刻まない。
こんな人たちは、自分が優秀だ、と心のどこかで思っているのではないでしょうか。多分百人が百人否定するでしょう。しかし無意識では、人よりいつも優位に立っていたいと思っているはずです。
こんな人が教学を学んでも、学校の授業と一緒。むしろ教えてくれている人より、自分が勝れているのに、と言う感情から、いつも我見が入り込んできます。そんな人にとっては、日蓮大聖人といえども、そこらのおっちゃん、以上にはならないのです。
でも、何度でも言います。
こんな人は、とても頭だけは良い、優秀な人間なのです。
それに、アンチになる理由は、それなりに学会にいて学んでいたからこそアンチなんです。
自分が頭が良いとか思ってなんかいませんよ。自分の頭で考えられるようになったから学会を辞めたのです。
思いこみが激しいですね、市丸さん。
如何なる意見を述べられても、このままのHNなら、削除します。
ちゃんとしたコテハンにして、書き込みなおし下さい。
創価学会アンチを名乗る人らしい、考えたステハンであることは認めます。
やっぱりアンチさんは頭が良いですね。
このままで書き込みされるのなら、問答無用で削除します。
もちろん私のコメントも。
出来ればそんな事はしたくないので、頭の良いあなたなら分るでしょう、考えて下さいね。
頭の良いあなた>>なんて、市丸さんの思い込みです。頭は良くないほうです(でも、自分で考えている分だけ頭は使っていますが…)
HNを変更させていただきました。
アンチなんて訳の分らないものにはなりません。
黙って辞めて行って、学会の事を何も言わないのです。
つまり信心が元へ戻っただけなので、未練もへったくれも無くなって、学会員といえどただのお隣さん以上にはならないのです。
アンチ、といわれる種族になった人たちは、自分で考えて学会をやめた、と言うだけあって、我見プンプン、未練タラタラ、愚痴マンマン。
頭ですべてを考えようとするから、矛盾ゾクゾク。
紅さんを見ていると、その典型みたい。
,あなたのコメントは、御自分に当てはまる事だと思います。
なんでここをウロウロなさっているの?
学会員のことなんて放っておきなさいな。
なんで市丸さんのブログをのぞかなきゃ気が済まないの?
ロムするのは自由ですが、
名無しでのコメントはみっともないですよ。
なにが世間に通用しないですか。。。
前にも書きましたが(多分相手はアナタです)、
恥ずかしい事はおやめなさい。
自分のブログに帰りなさいよ。
それはあなたの度量の狭さです。
一時期でも学会に籍を置きながら、最高の生命哲学を自分のわがままで学ぼうとしなかった人の考え方って、ホント、想定の範囲以上に狭いですね。
紅さん、学ばなかった事を自慢するんじゃありません。
そこまで自分を卑下た存在にすること自体、学会員を辞めた人間が、つまらない存在だ、と宣言しているようなものです。
今まで見てきた退転者のすべてが、その範囲ですよ。
もっと自分を大事にする事を考えなさい。
人もですが、御文も好きなものが変ってきました。
最初は祈祷抄の『大地はささばはずるとも~』でした。
次は『鬼に金棒たるべし』や『法華経の兵法』でしょうか。
いつも心していかねばならないと思っているのは『教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ』です。
人としては女性信者で教学力抜群の日女御前はすごいと思います。
『此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり。(1244頁)』
男性信者ではなく、女性信者にこの大事な御抄を差し上げられた、大聖人の人間主義が、何よりすごいと思います。
御書はまだまだ拝読していかなければならないと思っています。
生涯の私の座右の書です。
共に教学、御書、学んでいきましょう。