稲田朋美がその精神を取り戻すべきとする教育勅語は国民を国家権力に好都合な無害の存在とする国民統治装置

2017-03-10 10:59:45 | 政治

 防衛相の稲田朋美が2017年3月8日の参院予算委員会で社民党福島瑞穂の質問に「教育勅語の精神は今でも取り戻すべきだと考えている」と答弁したとマスコミが伝えていたから、YouTubからその動画をダウンロードして文字起こししてみた。

 福島瑞穂は稲田朋美の教育勅語に関わる過去の発言を引き合いに出して、その発言に現れている教育勅語賛美の態度が現在も変わっていないことを稲田朋美自らに言わせて、その国家主義的姿勢を改めて浮き彫りにした点は認めるが、あとは「教育勅語は1947年の衆参決議で効力を失っている」とか、「教育勅語は戦前、戦争の道、国民道徳の規範になって問題を起こしたという認識はあるのか」などとカエルの面にショウベンの何の役にも立たない追及が専らとなっていた。

 教育勅語に内包されている思想の危険性を争点とした議論に的を絞るべきを、そうすることはできなかったから、稲田朋美が今なお教育勅語の精神を信じている姿以外、その姿が如何に危険か、国民に訴えることはできなかっただろう。

 以下、両者の質疑の主なところを拾ってみた。

 福島瑞穂は最初に、大日本帝国を肯定的に評価していると言われている月刊誌「WiLL」の2016年10月号での稲田朋美の対談の発言を読むように求めるが、稲田朋美は、「自分はここに防衛大臣として立っている。11年前の新人議員時代の新人議員同士の発言の一節を読み上げるのは差し控えさせて欲しい」と言って拒否するが、福島瑞穂はしつこく迫って読み上げさせる。

 稲田朋美「先程言いましたように本当に11年前の政治家個人としての意見を述べたもので、11年間に色々と私も学んで、そのときと同じ、全く同じ意見を持っているわけでもないし、また長い対談の一部を読み上げることにどのような意味があるのか分かりませんが、委員が読めとおっしゃいますので読み上げさせて頂きます。

 『教育勅語の素読をしている幼稚園が大阪にあるのですが、そこを取材した新聞が文科省に問い合わせをしたら、「教育勅語を幼稚園で教えるのは適当ではない」とコメントしたそうなんです。

 そこで文科省の方に、「教育勅語のどこがいけないのか」と聞きました。すると、「教育勅語が適当ではないのではなくて、幼稚園児に丸覚えさせる教育方法自体が適当ではないという主旨だった」と逃げたのです。

 しかし新聞の読者は、文科省が教育勅語の内容自体に反対していると理解します。今、国会で教育基本法を改正し、占領政策で失われてきた日本の道徳や価値観を取り戻そうとしている時期に、このような誤ったメッセージが国民に伝えられることは非常に問題だと思います』」

 福島瑞穂「この幼稚園というのは塚本幼稚園のことですか」 

 稲田朋美「今報道等で取り上げられていおる状況を勘案し致しますしと、ここで私が指摘をしているのは塚本幼稚園のことだと推測を致します」

 福島瑞穂「籠池理事長とはどういう関係ですか」 

 稲田朋美「面識はありますけども、ここ10年ぐらいお会いしたことお話したこともございません」

   ・・・・・・・・

 福島瑞穂「あなたの大阪のパーティの呼びかけ人になって貰ったことはありますか」

 稲田朋美「大阪で行った私の1回目のパーティは私を応援してくださっている方々が多く集まれられております。その(呼びかけ人の)中に籠池氏がおられたかどうか記憶にありませんが、1回目のパーティのときに籠池さんがおられた、私のパーティに来られていたことは記憶にあります。

 しかしそれ以来、私はお目にかかったこともないということでございます」

 福島瑞穂「その後に(先程読み上げた対談の発言の後に)教育勅語について発言をなされているのでございますが、『最後の1行も含めて教育勅語の精神を取り戻すべきだ』というお考えは現在も維持されていますか」

 稲田朋美は再び防衛大臣として答弁しているから、その1行についてコメントする立場にないと答弁を拒否するが、福島瑞穂は「考えを変えたのか変えないのか」と迫る。

 稲田朋美「(誰かが、焦るなと声をかけたのか、ニコニコしながら)焦ってませんよ。教育勅語の核である、例えば道徳、それから日本が倫理国家を目指すべきである、その核について私は変えておりません」

 福島瑞穂「最後の1行まで正しいと仰っていますから、それでよろしいんですね」
 
 稲田朋美「私は教育勅語の精神であるところの日本が倫理国家を目指すべきである、そして親孝行ですとか友達を大切にするとかそういう核の部分ですね、そこは今も大切なものとして維持しているところでございます」

 福島瑞穂「ここ(対談)で最後の1行も含めて教育勅語の精神を取り戻すものというふうにおっしゃっています。それも維持されるということですね」

 稲田朋美「今答弁致しましたように教育勅語に流れているところの核の部分、そこは取り戻すべきだというふうに考えております」

 福島瑞穂「念の為に聞きます。全部ですか。あなたは最後の部分まで含めて教育勅語の精神を取り戻すべきだと、全部取り戻すべきだということでよろしいんですね」

 なぜもっと簡潔に、11年前と同じように教育勅語が表している精神の丸々全部を受け継ぎ、今でも自身の重要な思想の一つとしているのかと追及できないのだろうか。追及できていたなら、1度の答弁で済むはずだが、追及できていないから、「11年経っても教育勅語の精神であるところの日本は同義国家を目指すべきであるというそういう精神は、それは取り戻すべきだ、目指すべきだと今も思っている」といった同じ趣旨の答弁の堂々巡りに出食わすことになる。

 福島瑞穂は仕方なく、自身が言っている「最後の部分まで」が何を指しているのか、稲田朋美の対談の一説を自ら読み上げた。

 福島瑞穂「麻生さんは(教育勅語の)最後の1行はよくないと、即ち、『天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ(永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい)といったような部分はよくないと言っているが、私はそうは思わない』というふうに言ってるんですよ。つまり全部っていうことなんですね。この部分も含めて全部なんですね」

 最初から自分が読み上げて、全部の精神を受け継いでいるのかと追及すれば、片付く論点である。堂々巡りの答弁を引き出すだけのムダを省くことにもなる。だが、同じ堂々巡りの答弁を誘っただけの努力で終わっている。

 稲田朋美「今申し上げましたように全体として教育勅語が言っているところの日本が同義国家を目指すべきだという、その精神ですね、それは目指すべきだという考えに今も変わっていないということでございます」

 ここで福島瑞穂は最初に触れた「教育勅語は1947年の衆参決議で効力を失っている」とか、「教育勅語は戦前、戦争の道、国民道徳の規範になって問題を起こしたという認識はあるのか」などとカエルの面にショウベンの何の役にも立たない追及を持ち出している。

 教育勅語が例え1947年の衆参決議で効力を失っていようと、その精神を稲田朋美が個人として自らの思想とすることは思想・信条の自由である。安倍晋三や稲田朋美等の右翼国家主義者が日本の政界で最大勢力を得た場合、教育勅語を日本の教育の基本思想とする衆参決議をいくらでも行うことができる。

 当然、これも最初に触れたように教育勅語に内包されている思想の危険性を明らかにし、その危険性を国民に訴える方法を採るべきを稲田朋美の対談の発言と現在の姿勢の表面部分に拘っている。

 結局のところ、「教育勅語の精神を目指すべきだという考えは今も変わっていない」という繰返させた同じ答弁を以後も何回か引き出す堂々巡りを成果としただけであった。

 福島瑞穂「教育勅語が戦前、戦争の道、あるいは国民の道徳の規範となって問題を起こしたという認識はありますか」

 稲田朋美「そういうような一面的な考え方はしておりません」

 福島瑞穂は最後まで教育勅語が表現している思想の何が危険なのかを具体的に言葉で説明することができなかった。だから、簡単にいなされてしまった。

 教育勅語の思想の危険性を証明するためにネットから探し出したものだが、以下に教育勅語の原文と現代語訳を載せておく。

 「教育勅語と現代語訳」   

 原文

朕(ちん)惟(おも)フニ、我(わ)ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、德ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。我(わ)ガ臣民(しんみん)克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ世世(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此(こ)レ我(わ)ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス。爾(なんじ)臣民(しんみん)父母(ふぼ)ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相(あい)和シ、朋友(ほうゆう)相(あい)信ジ、恭儉(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆ニ及ボシ、學(がく)ヲ修(おさ)メ、業(ぎょう)ヲ習(なら)ヒ、以(もっ)テ智能ヲ啓發シ、德器(とっき)ヲ成就シ、進(すすん)デ公益ヲ廣(ひろ)メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲(こっけん)ヲ重(おもん)ジ、國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ、一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレバ義勇(ぎゆう)公(こう)ニ奉(ほう)ジ、以(もっ)テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ。是(かく)ノ如(ごと)キハ獨(ひと)リ朕(ちん)ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民(しんみん)タルノミナラズ、又(また)以(もっ)テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足(た)ラン。

斯(こ)ノ道ハ實(じつ)ニ我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)ノ遺訓ニシテ、子孫臣民(しんみん)ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スベキ所(ところ)、之(これ)ヲ古今(ここん)ニ通(つう)ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラズ。朕(ちん)爾(なんじ)臣民(しんみん)ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ、咸(みな)其(その)德ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。
明治二十三年十月三十日
御名御璽(ぎょめいぎょじ)



 現代語訳

 私が思うには、我が皇室の先祖が国を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、代々築かれてきた徳は深く厚いものでした。我が国民は忠義と孝行を尽くし、全国民が心を一つにして、世々にわたって立派な行いをしてきたことは、わが国のすぐれたところであり、教育の根源もまたそこにあります。

 あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。そしてもし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。

 このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬことで、昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。
明治二十三年十月三十日 

 最初に断るまでもなく、戦前の日本は大日本帝国憲法で、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治」し、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定して天皇絶対制を採っていた。いわば天皇主権であって、国民に主権はなかった。

 安倍晋三や稲田朋美、その同類たちは女系天皇制に反対し、男系天皇制に拘っていることと、特に安倍晋三は自身の「皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね」という発言、「日本の歴史というのは、言ってみれば、いわば、つづら織りのようなものでありまして、タペストリーですね。

 この長い歴史をそれぞれの人々が個々の歴史を積み重ねる中で、全体のつづら織ができあがってきたわけでありますが、やはり、真ん中の中心線というのは、わたくしはそれはご皇室であろうと、このように思うわけであります」という発言から、日本の歴史と文化の中心に天皇を置いている点からして、「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。)と国民に対する義務としている、あるいは稲田朋美がいう“核”の一つとしている教育勅語の精神をも受け継いでいることになる。

 だが、安倍晋三も稲田朋美もその同類も教育勅語に言及する際、天皇主義者だとか、復古主義者だと露骨に取り沙汰されることを恐れて、稲田朋美が「私は教育勅語の精神であるところの日本が倫理国家を目指すべきである、そして親孝行ですとか友達を大切にするとかそういう核の部分ですね、そこは今も大切なものとして維持しているところでございます」と言っているように、その教育勅語に当たる個所、「爾臣民父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、」(あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあいなさい)云々としている思想のみを前面に出して、今の世にも通じる優れた道徳観だとすることで教育勅語を正当化すると同時に自らの天皇主義の姿、復古主義の姿を巧妙に隠している。

 2017年3月7日付「【風を読む】幼稚園の行き過ぎ指導で「教育勅語」が迷惑している 論説委員長・石井聡」なる「産経ニュース」記事も同じ構造を取った内容となっている。   

 〈教育勅語は現行憲法の国民主権に反し、軍国主義を生んだ戦前の教育思想を支えたなどとして、占領下の昭和23年に廃止された。だが、親孝行や友愛など12の徳目と呼ばれる内容自体は、およそ軍国主義とは無縁で道徳教育の肝となるものだ。

 反対論は天皇中心の国体思想が据えられていると指摘する。皇室と日本の歴史のくだりは国柄を示しており、国民主権を否定する性格ではなかろう。国柄や建国の理念について、どうしても認めたくないのだろうか。〉――

 いわば「親孝行や友愛など12の徳目」を軍国主義とは無縁の現代にも通じる優れた道徳観だと取り上げて教育勅語を正当化しているが、この点のみならず、それがどのようなタガをはめられている思想なのかを巧妙に隠している点についても、両者は相通じている。

 記者は「国民主権を否定する性格ではなかろう」と言っているが、天皇主権で国民主権のなかった時代の教育思想なのだから、天皇主権が国民に対するタガとなって影響を与えていないはずはない。

 そのタガとは教育勅語の全体を通じて流れている天皇や国家に対する国民の奉仕の形を取って現れている。

 それが次の行(くだり)である。 

 〈一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。是ノ如キハ獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。

 斯ノ道ハ實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖ラズ。朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ、咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。〉(危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。

 このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬことで、昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。)

 この文章に隠された天皇(=国家)と国民との関係性は「神聖ニシテ侵スヘカラス」存在である天皇の、それゆえに言葉は柔らかくても、“何々しなさい”が絶対的命令の形を取ることになって、その命令に従うことを義務付けられた国民との関係である。

 そういった天皇や国家といった強い大きなタガを嵌められた中での親孝行であり、兄弟や夫婦や友達同士の関係であり、順法精神であり、公共に対する奉仕であり、永遠に続く皇室への扶翼=奉仕となっている。

 当然、天皇や国家といったタガを嵌められた国民の規律となっている関係から、本来的な意味の自律性(他からの支配・制約などを受けずに自分自身で立てた規範に従って行動する性質)は養うべくもなく、国家に与えられた目標や道徳律に従った従属性(=タガ)を持たせた、その範囲内の限られた自律性を生きることになる。

 このような自律性が行き過ぎた場合、戦前の日本人が経験したように国家の言いなりとなる国民の姿を取って、自律性を益々狭(せば)めていく。

 いわば教育勅語には国民をこのような姿に飼い馴らす思想が道徳、あるいは徳目の形を取って隠されている。

 飼い馴らされた国民は国家が国民を統治する際、好都合な無害の存在となる。

 ちょっと考えるだけでいい。教育勅語に書いてある項目を全て忠実に守ったなら、どのような国民の姿を取るのか。国家権力にとって好都合な無害の国民しか浮かばないはずである。

 だが、人間は利害の生き物で、国家の利害よりも自己の利害に走りやすい。国民の選良である国会議員が自身の懐を肥やすためにワイロを受け取ることも、政治資金パーティの収入を少ない金額で政治資金規正法に報告するゴマカシも自己利害優先の行動からであろう。

 当然、教育勅語の思想を全ての国民に全面的に体現させることは不可能なゆえに教育勅語を正当性あるバイブルとして、戦前見てきたように国家権力は様々な強制力を働かせて、国民を無害な言いなりの存在に仕立てようとする。

 教育勅語の核となっている思想は稲田朋美が言っているような道徳観ではなく、国民を国家権力に好都合な無害の存在とする国民統治装置とする思想であり、その危険性をこそ問題としなければならない。

 稲田朋美が教育勅語の精神を現在の日本に「取り戻すべき」と言っていることは、それを以て国民を国家権力に好都合な無害の存在とする国民統治装置とすることを欲している願望と見なければならない。

 戦前日本の再来である。


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