復興相の今村雅弘が2017年4月4日の記者会見で福島の原発事故を受けて県外に自主避難した被災者に関してフリーランスの記者が「福島に戻れない人はどうするのか」と聞いたのに対して「それは本人の責任でしょう。本人の判断でしょう」 と自己責任と規定、記者が「国は責任は取らないのか」と再度尋ねると、不服ならとの趣旨で、「裁判だ何だでもそこのところはやればいいじゃない?」と答弁。
野党はこういった発言を閣僚の資質に欠けるとして辞任を要求、対して今村雅弘は記者会見で謝罪し、発言を撤回、国会でも謝罪と発言の撤回を表明、野党の辞任要求に対しては職責を全うすることを名言した。
野党は4月6日の衆議院本会議で安倍晋三に矛先を向けた。
安倍晋三「被災者の方々に寄り添いながら、復興に全力を挙げるとの安倍内閣の方針は、いささかも変わるものではない。今村大臣は謝罪会見を行い、感情的になったことをおわびし、冷静・適切に対応していく旨を申し上げた。
今村大臣には引き続き被災者に寄り添って1日も早い被災地の復興に向け、全力で職務に取り組んでいただきたい」(NHK NEWS WEB/2017年4月6日 17時04分)
要するに今村に責任を取らせて更迭したら、安倍晋三の任命責任を問われることになって、安倍内閣のダメージとなる。だから、辞任の必要なしとした。
このような経緯を取っているから、安倍晋三の発言に矛盾が生じることになって、いい加減な論理形成となる。
「被災者の方々に寄り添いながら、復興に全力を挙げるとの安倍内閣の方針は、いささかも変わるものではない」と言っているが、安倍内閣がそういう方針であったとしても、復興行政に関わる直接の当事者である復興相の今村雅弘が「被災者の方々」に全然寄り添っていなければ、内閣の方針は機能していないことになる。
いわば内閣の方針以上にその方針を代表して執行する復興相の今村雅弘が“被災者の方々に寄り添っているか否か”、その資質が問題となる。
だが、安倍晋三は資質を基準にするのではなく、謝罪を基準にして資質を問題とせずに続投を許した。
そうであるからこそ、「今村大臣には引き続き被災者に寄り添って」云々と、さらに矛盾を重ねる発言を口にすることになっている。
今村雅弘が最初から被災者に寄り添う気持を強く持って復興政策に取り組んでいたなら、「それは本人の責任でしょう。本人の判断でしょう」 とか、「裁判だ何だでもそこのところはやればいいじゃない?」といった「被災者の方々」にまるきり寄り添うことにはなっていない言葉は口を突いて出ることはない。
いわば被災者に寄り添う気持を持っていなかった今村雅弘なのだから、「引き続き」という連続性は存在し得ないことになるし、期待もできないことになるにも関わらず安倍晋三は「引き続き」と、さも最初から持っていたかのように被災者に寄り添う気持を求めた、その矛盾である。
もし安倍晋三が今村雅弘の発言に現れている復興相としての資質を厳格に問題にしていたなら、このような矛盾した今村擁護の発言は口にすることはない。
安倍晋三が今村雅弘の資質を基準にするのではなく、謝罪を基準にしてその進退を考慮した矛盾にこそ、今村に責任を取らせて更迭した場合の安倍晋三の任命責任や安倍内閣のダメージ回避という側面が自ずと見えてくることになる。
要するに今村雅弘の地位擁護は安倍晋三自身の地位擁護の相互関連性を成している。