安倍晋三と森友学園理事長籠池泰典の国家観、天皇観に親近性・一心同体性を見る

2017-02-28 10:22:07 | 政治

 森友学園は「瑞穂の國記念小學院」のサイトの「教育理念」のページに「教育の要」として次の項目を掲げている。
   
 〈天皇国日本を再認識。皇室を尊ぶ。伊勢神宮・天照大御神外八百万神を通して日本人の原心(神ながらの心)、日本の国柄(神ながらの道)を感じる。

 愛国心の醸成。国家観を確立。

 教育勅語素読・解釈による日本人精神の育成(全教科の要)。道徳心を育て、教養人を育成。

 「大學」素読による人間学の習得。〉等々。

 日本は天皇の国だとし、森友学園経営の塚本幼稚園児に対して日々の朝礼時に「教育勅語」を朗唱させ、尚且つ「君が代」を斉唱させていると言う。

 日本は天皇の国だとしている以上、「教育勅語」の朗唱は自然な成り行きであろう。

 「教育勅語」とは国民の道徳の基本と教育の根本理念を示した明治天皇の言葉であり、その一節に、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(もし危急の事態が生じたら、忠義と勇気を持って国のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。)と謳い、「億兆心ヲ一ニシテ」と、いわば国民全てに対して一律的に国家と天皇へ奉仕をしなさいと規定している。

 このように国家と天皇に対する国民全ての一律的な奉仕という関係性は戦前見てきたように、例え国家が間違っていても、天皇の名に於いて奉仕が要求可能となるゆえに個人の自律性という人間存在の主たる要素の介在を許さない構造を形成している。

 いわば「教育勅語」という教育観はそこに個人の自律性の排除を隠し味としている。

 森友学園の籠池泰典理事長が日本は天皇の国だとしていることは安倍晋三の天皇観にも通じている歴史認識であろう。

 安倍晋三は2009年2月11日、明治神宮会館で開催の建国記念の日奉祝中央式典で次のようにスピーチしている。  

 安倍晋三「よく『国柄、国柄』と、こういうことを議論することがあるんですが、私たちの国柄は何かと言えば、これはもう、古来からの長い長い歴史の中において、日本人の営みの積み重ねの中に自然に出来上がってきたものが、私は、『日本の国柄』ではないかなと思うところでございます。
  
 日本の歴史というのは、言ってみれば、いわば、つづら織りのようなものでありまして、タペストリーですね。

 この長い歴史をそれぞれの人々が個々の歴史を積み重ねる中で、全体のつづら織ができあがってきたわけでありますが、やはり、真ん中の中心線というのは、わたくしはそれはご皇室であろうと、このように思うわけであります。(大きな拍手)
  
 そしてそれはまさに、一本の線で、ずーーっと古来から今日までつながっている。 ここが諸外国とは大きく違う点であろうと、わたくしは思います。

 日本と外国との違い、たくさんあります。また、外国の王室との違いも私はある、と思います」――

 日本の歴史をタペストリーに譬え、その中心線に長き歴史に亘る皇室を置くこの発言と同様なことは安倍晋三著「美しい国へ」でも述べられているし、テレビ番組でも発言している。

 安倍晋三の日本の歴史の中心線は皇室であり、それが「古来から今日までつながってい」て、それが日本の「国柄」だとする国家観を読み解くとしたら、日本国の歴史の主人公を歴代天皇に置いて、皇室を日本の歴史の主宰者と見做す国家観に他ならない。

 いわば森友学園籠池泰典の「天皇国日本」としている国家観と何一つ変わらない類似性を見ることができる。

 当然、安倍晋三も「教育勅語」を日本の教育の基本に置いているはずだ。

 籠池泰典は「日本会議」大阪支部の幹部(代表委員)であり、安倍晋三は麻生太郎と共に日本会議を支援する超党派の議員によって構成されている議員連盟の国会議員懇談会日本会議の特別顧問をしている。

 日本会議は「教育勅語」の復活を直接的には主張の一つとしていないが、皇室の存在の明治維新から敗戦以前の状態への復活と、これと同一性を持たせた伝統の戦前への回帰を主張としているし、メンバーの中には教育勅語を道徳と教育の基本を成す精神と見做す者もいる。

 いわば教育勅語が示している戦前の日本人の精神への回帰を希(こいねが)っている。

 戦前の天皇の存在形式の肯定は天皇の勅語でもある「教育勅語」の肯定でもあるということである。「教育勅語」を否定した場合、戦前の天皇の存在形式の肯定は整合性を全く失うことになる。

 日本会議メンバーの元文部科学相下村博文も「教育勅語」肯定派の一人である。2014年4月8日「記者会見」 

 下村博文「教育勅語そのものの中身は、至極全うなことが書かれているというふうに思いますし、当時、それを英文、あるいは独文等にして、ほかの国でもそれを参考にしたという事例があるということも聞いておりますが、その教育勅語のその後の活用のされ方ということについて、軍国主義教育の更なる推進の象徴のように使われたということが問題ではないかというふうには思います」

 戦前の天皇の存在形式肯定派の安倍晋三も口には出さなくても、整合性を持たせなければならない点から言っても、「教育勅語」肯定派の一人であろう。

 森友学園の籠池泰典が幼稚園児に日々の朝礼時に「教育勅語」を朗唱させ、運動会の選手宣誓で子どもたちに一斉に「安倍首相、頑張れ」と言わせていたとしても、安倍晋三との国家観や天皇観の類似性から言っても、何の不思議もない。

 この類似性は籠池泰典側から見た場合、親近性・一心同体性にまで至っていることを窺うことができる。至ってなかったら、3歳から6歳の年齢の判断能力が未だ未熟な、未熟だからこそ言いなりに強制させることができるのだが、そのような幼児の口を借りてまでして「安倍首相、頑張れ」などと言わせることはできない。

 同時にこの強制には洗脳の力学が働いている。「安倍首相、頑張れ」という思いを子どもの頭に植え付け、成長した時点でもその思いを持ち続けさせようとする強制的な精神作用の働きかけによる洗脳なくして成し得ない。

 日々の朝礼時の「教育勅語」の繰返しの朗唱も同じ構造を取った洗脳に当たる。洗脳は自ら考え、その考えに従って自らの行動を決める自律性を排除して成り立つ。

 そして自律性の排除は、既に触れたように、「教育勅語」の基本的な構造となっている。

 安倍晋三に関しての自律性の排除を言うと、安倍晋三が2006年に成立させた改正教育基本法は「教育の目標」2条5で、〈伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。〉との文言に紛らわせて国家権力が「国を愛せよ」と一律的に規定しているのは国家の精神作用に従わせようとする強制以外の何ものでもなく、国民それぞれの自律性に任せるべき精神作用に於ける、その自律性の排除を結果的に機能させているところに現れている。

 安倍晋三の側から見ても、安倍晋三と籠池泰典両者の国家観、天皇観は親近性・一心同体性を成し、同時に自ら考え、自ら行動を決める個人の自律性の排除を自ずと機能させていると言うことができる。

 国民が全体的に自律性を機能させなくなったとき、安倍晋三が望む戦前日本国家への回帰が可能となる。安倍晋三が理想の国家像としている明治日本国家の再現である。


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