「生活の党と山本太郎とそのなかまたち」の共同代表の山本太郎参議院議員が2月6日(2015年)の邦人人質事件に関する参院の非難決議採択の際、一人退席したことが一部で問題となって、批判も受けている。退席して、どこが悪いのだろうか。
自らの考えに従った。批判するなら、退席したことではなく、その考えに向けるべきである。その考えのどの点が間違っているのか、よって、退席は好ましい態度とは言えないと結論づけるべきだろう。
戦前の日本は戦争の国策に反対すること自体が「非国民だ」、「国賊」だと非難され、国民としての存在を否定された。非難を恐れ、殆どが国策に口を閉じ、国民としての存在を戦争の国策に積極的に協力することに置く翼賛体制化を国民自らも推し進めて、自由にモノも言えない社会にした。
山本太郎は自らのサイトに退席の理由を書いている。《山本太郎はテロリスト?!》(山本太郎オフィシャルサイト/2015-02-06 19:44:39)
全文はアクセスして読んで貰うとして、先ず政府対応の検証を求めている。その検証が先だということなのだろう。
確かに「イスラム国」の今回の2邦人殺害には弁護の余地はない。非難されて当然のテロ行為である。だが、もし2邦人殺害に安倍政権の対応の何らかの不手際が手伝っていたとしたら、「イスラム国」を一方的に悪とする非難決議は逆に安倍政権の不手際を見えなくする役目を担うことになりかねない。
安倍晋三の2人の殺害後の発言は、「テロに屈しない」「テロの気持を忖度しない」、「国際社会と手を携えてテロとの戦いに万全を期す」を決まり文句としていて、テロとの戦いを優先事項に割き、海外でテロ集団に拘束された場合の邦人を如何に救出するかはなおざりにされていた。
要するに個々の人命には目を向けていなかった。
この点からも安倍晋三が最初から身代金要求に応じない姿勢ていたことを見抜くことができる。
野党にしても非難決議よりも政府対応の検証が先だとした方が検証に対する政府の態度に心理的な圧力をかけることができたかもしれない。
山本太郎は退席の理由にイラク戦争の総括を求めて叶わなかったことを挙げている。
アメリカがイラクの大量破壊兵器の存在を大義として2003年にイラク戦争を起こし、日本はいち早くアメリカの行動を支持した。だが、大量破壊兵器は存在しなかった。結果としたことは「人々の主権を奪い、国を破壊した」。
そして「シーア派による、スンニ派への民族浄化にも近い、虐殺が日常的に行われていた。その中から、生まれた存在が、ISだったと聞きます」と言って、「イスラム国」をこの世界に出現させたそもそもの原因を結果として大義のなかったアメリカのイラク戦争に置き、先ずはそのことを検証すべきだと主張している。
だが、この論理はイラクはサダム・フセインの独裁体制のままでよかった、そっとしておけばよかったと言っているに等しい。国内の治安維持が少数派スンニ派による多数派シーア派に対する人権の抑圧を手段にフセイン権力への恐怖心を植えつけ、従順さを要求する独裁的手法に頼ったものであっても、治安が維持されていさえすれば問題はないとしていることになる。
確かにこういった治安維持は生物学的には人命は守ることができるが、精神的に人間らしい命の在り様は抑圧され、守ることはできない。
大量破壊兵器は存在しなかったものの、アメリカはイラクをサダム・フセイン独裁体制から解放した。後の国造りはイラク人自身が責任を負い、イラク人自身の手による。その成果が現在の混乱であり、「イスラム国」の世界への出現である。
その原因をつくったのは独裁体制から解放された多数派のシーア派が多数派のままに自らを最優先に重視し、内閣・国会議員・軍・警察・官僚等国家経営に携わる組織の上層をほぼシーア派で占めた。いわばかつての支配層であったスンニ派は冷遇されることになり、国民和解とは正反対の宗派闘争に明け暮れた先鋭な対立構造をつくり出すことになった。
アメリカの度重なる国民和解の警告にも関わらず、マリキ政権はそれを改めることができなかった。その結果、冷遇されたスンニ派のうち、一部が過激派集団に走って、「イスラム国」を形造ることになった。
国づくりをどうするかは自身の手に委ねられたイラク人たちの自らの選択の結末であろう。
全てはイラク人自身の問題である。サダム・フセイン独裁体制を出現させ、30年近くも恐怖独裁体制でイラクを支配させたのもイラク人自身の問題である。
戦前日本で軍部独裁を許したのも日本人自身に受入れる土壌があった日本人自身の問題であって、今日、歴史修正主義者・右翼の国家主義者安倍晋三を首相に頂いているのも日本人自身の問題以外の何ものでもない。
その他にも「日本の国会議員が揃って出す決議の内容を意訳されてしまわない様に、一言一句、こちらの意図通りの翻訳で、決議内容を英訳する必要性を提案」 したものの、受け入れられなかったから、退席の理由の一つとしているが、山本太郎の退席の考えがどうであれ、その考えには結果に至るまでの経緯を大切にすべきで、結果だけに目を奪われて経緯を忘れることの警告を見ることができる。
要するに山本太郎には非難決議に賛成を1票を投じることは結果としての「イスラム国」を悪者視するのみで、経緯に注意を払わないままに全体に合わせるといった翼賛体制的な従属性を演じることになるように見えたのではないだろうか。
所詮、非難決議は単に一致の姿勢を見せるための形式・儀式の類いに過ぎない。「イスラム国」にとっては痛くも痒くもない、耳に届くか届かないかの騒音に過ぎないはずだ。
政治からは足を洗ってはいかがでしょうか?
理由も後付けであり、もともと後から主張したことを考えていたなら、採決の場に出なければいい。
そもそも、議案が不十分だと思うなら反対をすればいいのに、棄権したということは、国会議員としての責任を果たしていないし、ただのパフォーマンスだ。
ドンドンとアホを炙り出してくれる。