安倍晋三の戦闘の実態抜きの自衛隊海外派遣論は「自衛隊安全神話」に立った単細胞な安保法制に過ぎない

2015-01-30 09:51:21 | 政治


 ――最悪なのは安倍晋三の自衛隊海外派遣論には自衛隊員も日本国民であるという認識が些かも存在しないことである――

 昨日2015年1月29日、衆議院予算委員会質疑で小川淳也民主党議員が今回の「イスラム国」の邦人人質事件に絡めて安倍内閣が進めようとしている自衛隊の海外派遣について質問した。安倍晋三の答弁は戦闘の実態抜きの派遣論となっていて、その結果、「自衛隊安全神話」とも言うべき奇妙な骨格を持たせた議論となっていた。勿論、安倍晋三は頭がいいから、そんなことに気づきもしない。

 戦闘の実態抜きと言うことは自衛隊員の生命の安全に対する視点を欠いていると言うことに他ならない。安倍晋三が自身が考えている安全保障法制を「国民の命と幸せを守るための法制」だと言っているが、その「国民」の中に自衛隊員を入れていない。だから、戦闘の実態抜きの派遣論となる。

 小川淳也「自衛隊の活動領域は明らかに広がるのですね。広がらないのであれば、法的安定性をわざわざ変える必要はありません。

 いずれにせよ、7月1日の(集団的自衛権行使容認の)閣議決定に照らして言えば、相手国、領域国の同意に基づけば、邦人救出などの警察的な活動に自衛隊を送る可能性に言及しておられます。今回の事案〈邦人人質事件)はまさに少なくとも検討対象になる一つのケーススタディとなるかもしれない。

 あるいは最終的には集団的自衛権ですが、我が国が直接的な攻撃がなくても、武力攻撃に及ぶ可能性がある。紛争や戦争に巻き込まれる可能性もある。そこのリスクを総理は国民にきちんと説明してきたかと、いうことに関して私は甚(はなは)不満に思っています。

 勿論、政策的には私は慎重な立場ですし、賛否はそれぞれ議論しなければ。しかし賛否を議論する前に総理はこの重大な安全保障政策の転換に当たって、そのリスクを国民に説明し、いわば覚悟を求めるということを併せて行うことが、事この政策に関して、この過程に於いて内閣総理大臣の最大の務めだと思いますが、この点如何でしょうか」

 安倍晋三「まあ、リスクという話を中心にされているわけであります。我々が進めている安全保障法制はまさに国民の命と幸せを守るための法制であります。

 それはしっかりと法制を定めて、自衛隊が活動しなければ、国民に大きな被害がある、ということであります。つまりそこにこそ問題があるわけであります。

 では、それは放置していれば理屈が合うのかという問題があります。例えば、邦人の救出について言及をされました。海外に住む日本人は150万人いるわけであります。更に年1800万人の日本人が海外に出ているわけであります。これらの邦人が救出された際にですね、領域国の同意がある場合は自衛隊の持てる能力を活かしてその救出に対して対応できるようにすることは国の、私は責任であろうと、こう思うわけであります。

 えー、今の段階に於いてはですね、えー、自衛隊は輸送はできますが、救出のためには武器の使用ができないということになっているわけでございますが、邦人が人質になっていて、そこにいわば救出のために輸送に行ってですね、その地域の皆さんの軍事力、あるいは警察力に協力して貰って攻撃を受け・・・・、救出するのはですね、救出そのものをするのは、この地域の方々にお願いしなければならない。

 例えば日本人だけが、これは人質になっていて、例えこちらの装備の方が上回っていたとしても、ま、それ(使用)はできないというのが、我々はそれはおかしいだろということであります。

 つまりそこはですね、例えばそれを可能にする、ということも含めて、ちゃんと議論をしていこうということであります。受入国が同意をしているかいないかということも重要な事であります。

 えー、先般アルジェリアであった事故が、出来事があったわけでございますが、ああした際にですね、ああした際に、当事国が救出のオペレーションを行ったわけでございます。しかし英国等々、他の国々はですね、自分たちの国の国民対しては自分たちでオペレーションをして、またあるいはアルジェリアと協力してオペレーションしようと、当然、考えるわけで、ま、ございますが、日本はそんときに本当に、これはもう私も、その段階ではお願いしたわけでございます。

 お願いするだけになるわけでございまして、更にそういった危険なオペレーション、例え日本人のみを助ける場合であっても、そうなってくる(お願いするだけになる〉ということであります。

 そこでは日本人も一緒に行ってくれよと言われても、行けないということになって、果たして責任を果たせるか、と言うことについては我々立法府の人間としても、まあ、北朝鮮の拉致のこともありますが(よく聞こえなかったが)、考えていく必要があるのではないかと申し上げているわけでございます。

 であるならば、そこでリスクをは何かということであるます。いわば火事が起こってもですね、そこへ消防士が入っていくのは、これはリスクであります。でも、この消防士が火事のときに家に入って救出をしないのであれば、救出されない人は、これは命を落とすということになるのではないかと、このように思うわけであります。

 全体として考えれば、そういう時にこそ、いわば消防士は、これは危険を顧みない行為でありますが、救出に向かっていく。勿論、安全を確保する上に於いて最大限の安全を確保すると言うのは当然のことだろうと、このように思います。

 行動する自衛官に於いても、そうでございます。自衛官、まさに事に当って危険を顧みず、任務を全うするために全力を尽くしていく、こういう趣旨の宣誓をするわけでございます。

 勿論、安全確保のために全力を尽くす。こうした仕事をする上に於いて全力、安全確保について全力を尽くすのは当然のことであろうとこのように思うわけで、ま、ございます。

 リスクを恐れたらですね、何もしないで、何もしないということは、果たしてそれでいいのかと言うことについては、常にこれは考えていかなければならないわけでありますし、私は決してそれでいいとは考えていないわけでございます」

 小川淳也「総理のおっしゃるその『国民の命と幸せ』、非常に美しい言葉です。それから消防士の譬えも出されましたが、恐らく皆さんは命がけで出動をしていらっしゃる。しかし消防士の例で言えば、これは他国の火事に消防士を派遣するということですか。集団的自衛権を行使すると言うことはですね。

 そうしたことも含めて、やはり無キズでは済まない。総理のおっしゃる積極的平和主義は国民に対して、あるいは自衛隊員に対して無キズでは済まない。そのことを凄まじいと言いますか、そうした覚悟を十分に国民に求めることから、この議論をスタートしなければならない、ということを是非、今後、この議論は本格t的なことは今国会後半でありますが、今回の事態、直接関連を置くことはどうかと思いますが、色々なことを考えさせられる事案でありました。

 そういう意味で少し押さえさせて頂きたいと思います」〈以上)

 小川淳也は「安全保障政策の転換に当たって、そのリスクを国民に説明し、いわば覚悟を求める」ことを安倍晋三に求めた。そしてこの件の質問を畳むとき、「積極的平和主義は国民に対して、あるいは自衛隊員に対して無キズでは済まない」という表現で両者の生命の危険、あるいは生命の犠牲が起こり得る危険性に触れていることから考えると、最初に言及した「国民」の中に自衛隊員も入れていたことになるのだから、海外邦人救出のために海外派遣した自衛隊部隊が戦闘に巻き込まれた場合の自衛隊員の生命の安全に対する危険のケースについてもっと追及すべきだった。

 決してあり得ないとは断言できない自衛隊員の生命の安全の危険が海外邦人の生命の安全の危険に直結するのだから、安倍晋三が邦人救出の場合、どの程度の戦闘を考えているかが何よりも問題となる。

 だが、安倍晋三の答弁は自衛隊員と海外邦人の生命の安全が直結しているにも関わらず、終始一貫して海外邦人のみを国民とした、その生命のみに視点を当てた安保法制論となっていた。自衛隊員の生命の安全に視点を当てていなかった。

 この点を答弁から具体的に見てみる。

 自衛隊海外派遣の根拠を「自衛隊が活動しなければ、国民に大きな被害がある」ことに置いている。そして後の方で消防士の火災出動を例にして、「救出されない人は、これは命を落とすということになるのではないか」と言って、自衛隊の活動が常に国民の生命の安全を保証することに限定している。

 これを以て「自衛隊安全神話」だと言わなければ、他に言い様があるだろうか。米軍にしても英軍にしても、敵兵の攻撃を受けて進退を失った自軍部隊救出に向かったものの、救出に失敗して。犠牲者まで出して撤退を余儀なくされたり、共々全滅したりする例はいくらでもあるはずである。

 と言うことは、それが領域国の同意を得た派遣であり、領域国の「軍事力、あるいは警察力に協力して貰っ」た活動であったとしても、自衛隊員と保護すべき海外邦人の生命の安全を常に保証する活動とならないケースもあり得るということになる。

 だからこそ、小川淳也は安倍晋三に「リスクを総理は国民にきちんと説明」せよと求め、国民と自衛隊員共々に「無キズでは済まない」という覚悟を十分に求めることから、「この議論をスタートしなければならない」ということを言ったはずだ。

 いわば決して「自衛隊安全神話」でないことの認識に立った安全保障法制でなければならないということであるはずだ。

 大体が自衛隊の海外邦人救出派遣活動を消防士の火災出動に擬(なぞら)えること自体、その認識能力・頭の程度を疑わないわけにはいかない。「イスラム国」、ボコ・ハラム、アルカイダ、その他のイスラム過激派集団を海外邦人に危害を及ぼす、あるいは生命の安全を脅かす邪悪な敵対者として安保法制の視野の先に収めなければならないにも関わらず、火事で家の中に取り残された住民の救出に向かう消防士の活動に擬(なぞら)えて何とも思わない。

 戦闘行為抜きの「自衛隊安全神話」に立った安保法制論だから、こういったトンチンカンな説明となる。

 このことは自衛隊は「安全確保のために全力を尽くす」、あるいは「安全確保について全力を尽くすのは当然」と言っているところにも現れている。「安全確保について全力を尽くす」から、自衛隊の活動は安全だという物言いとなっているからだが、常に安全という保証はなく、安全確保をさせてくれない戦闘もあるという認識を持つことができない。常に無キズで済むような論理展開――「自衛隊安全神話」に支配された発言となっている。

 邦人保護に向かっても、武器の使用ができなければ「例えこちらの装備の方が上回っていたとしても、ま、それ(使用)はできないのはおかしい」と言っているところも戦闘の実態抜きとなっている。言葉にあり得ることを想定しなければならない戦闘の影さえも窺うことができない。

 「こちらの装備の方が上回っていたとして」も、邦人保護を常に有効とするとは限らないというリスク管理が些かもない。戦前の対米戦で日本の艦船数や航空機数が敵勢力に優っていたとしても、作戦の拙劣さから撃退されたり、全滅させられたりした例は数あるはずである。

 もう一度言う。「イスラム国」、ボコ・ハラム、アルカイダ、その他のイスラム過激派集団を敵対者として想定しなければならない自衛隊の海外派遣活動である。答弁全体が如何に海外派遣の自衛隊活動の危険性を認識していないかが分かる。危険だから、やめろと言っているのではない。国民にも自衛隊員にも、決して無キズで終わるとは限らない数々の危険性の存在を説明し、無キズでなかった場合は内閣が責任を負うことを宣言することから始めて、国民の納得を得た上で法制を進めるべきではないかと言うことである。

 勿論、集団的自衛権行使そのものは国民全体の納得を得るために憲法改正という手続きを前提に容認する道を選択すべきであろう。

 2013年1月16日に発生したテロ集団によるアルジェリア天然ガス精製プラント襲撃と日本人を含めた多人数の人質拘束事件を、「先般アルジェリアであった事故が、出来事が」と表現していることにも、自衛隊海外派遣を戦闘抜きの派遣論、「自衛隊安全神話」に対応した認識の現れそのものであろう。

 アルジェリア政府はテロリストと交渉せずの姿勢を貫き、テロ集団の要求に対して何ら交渉もせず、英米その他の協力や仲介を断って、アルジェリア軍単独で武力制圧の攻撃に向かい、日本人人質10人を含む様々な国籍の40人前後の犠牲者を出した。

 いわば日本にしてもアメリカにしても英国にしても、アルジェリア政府がテロリストと交渉せずの姿勢を貫いたために自国民保護に終始無力であった。

 多くの犠牲者を出していながら、それを事故と言い、出来事と言う単細胞には呆れるばかりだが、海外派遣した自衛隊が遭遇するかもしれない危険性を何ら認識していないことに対応した軽い表現であり、「自衛隊安全神話」にマッチさせた物言いということなのだろう。

 いわば交渉当事国のテロ集団に対する姿勢によってテロ集団に拘束・人質とされた自国民保護に無力であるケースも生じる。だが、以後の発言にそのような認識を些かも見ることができない。

 単に戦闘抜きの考えに立った自衛隊派遣に拘っているだけである。

 このような単細胞の自衛隊最高指揮官に日本の安全保障を任せることができるだろうか。答は否!である。


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