A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

麻布一の橋の暗殺

2006年06月15日 | 江戸から東京へ
 ベアトが撮影した写真に、ヒュースケンの墓や暗殺現場の古川に架かる中ノ橋、三ノ橋あたりの風景があるので、その古川の付近のことを調べていたら、もう一件、文久三年、古川に架かる一の橋で起こった暗殺事件を見つけた。殺害された者は、清川八郎で、暗殺者は佐々木只三郎である。今日の目からは嫌われ者の二人といってよいだろう。

 清川は、浪士を募って、将軍警護を目的とした新徴組を組織し、京都へ上る。到着後は打って変わって、尊王攘夷を強力に教唆煽動し始め、新徴組そのものを乗っ取って、江戸に取って返す。幕府の金と組織を使って、攘夷と倒幕をしようというわけで、全くもって自惚れた危険な策士であった。彼は強力なアジテーターであって、江戸へ戻ってからは、数百人で横浜の外人居留地に斬り込み、黒船に放火するというテロを計画しており、二日後にはまさに実行のてはずであった。

 こういう清川の行動は監視されていて、幕府が清川の新徴組乗っ取りを許すはずがないのであるが、自信家の清川は自分の策に溺れており、危険の切迫に気づかない。暗殺の首謀は、小笠原壱岐守、高橋泥舟、山岡鉄舟で、先の浪士徴募の幕府側の責任者であった。
 
 佐々木只三郎は会津藩出身で、幕臣に養子に入った。後に京都見回り組の首領となり、坂本龍馬の暗殺を行った人物である。腕をかわれて佐々木以下数名がこの暗殺に関わった。上山藩邸を出て来て、一の橋に差しかかった所で、清川を襲ったのである。


「幕末パノラマ館」野口武彦著 新人物往来社 

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