A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

風の盆の日々

2010年08月27日 | 越中八尾 おわら風の盆
風の盆に出かけるようになって、今年で5年目になった。10年も30年も通っている人がざらにいるのが風の盆なので、5年はほんの新米の部類に入る。
でもこの5年でも、そこここに変化が見られる。諏訪町の町家は新しくなったし、古い趣のあった公民館も二町で消えた。
踊り手も毎年卒業しては少しずつ変わって行く。気持ちを傾けた踊り手が突然いなくなるというのは、ちょっと淋しいものだ。こっちに何の相談もなくと言いたいくらいだけど、もちろんこっちはただの観客だ。彼、彼女には自分の生活があり、風の盆を去っても日常は終わらないのが人生だ。いや若い彼らは、これから人生が始まるのだ。そこにもこの行事の特質が現れている。
移り変わる夏のような若者たちと、変わらないベテランの地方衆。時の流れや、家族の絆、死別や生別というテーマを内包しているのが風の盆と心得た。
昔「卒業」というおフランスの青春映画があって、テーマ曲は「あなたは去って行く、夏が終わるように」と唄っていた。命のかぎりを尽くして、利己的に繁茂した夏がやがて収束し、その終りを悼む。ちょうどその季節に、この行事がある。
唄や演奏に酔いしれた記憶がこころの底に潜んでいて、それをもう一度と通いつめる。いやいやあの時のあの瞬間は、こんなものではなかったとつぶやくもう一人がいる。しかし経験とは一回限りのものなので、繰り返しや、過去の模倣では、こころの騒ぎを抑えこむことはできない。そんな難しい欲求にも答えてくれるものがこの行事の中にはある。
いつか通い続けることができなくなる日が来るかもしれない。それは今見ている満月がこれからもずっと繰り返し見られないのと同じこと。来られなくなっても、風の盆は毎年続いて行く。こういう別れも風の盆の日々の中に内包済みだ。