A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

八尾町史

2008年08月24日 | 越中八尾 おわら風の盆
「八尾町史」(昭和42年)が富山の古書店から届いた。パラパラと拾い読みをしてみる。
八尾の人はしあわせだ。この町史をまとめたのは、富山大学の歴史学の先生なのだが、東町の生まれの人だ。
地方史は必ずしも地元出身者によって書かれるわけではない。
まえがきに、こういう公的な刊行物にはめずらしい、ちょっと個人的な感慨の混じった文章を寄せている。

八尾に行って「風の盆」を初めて目にした時、「どうしてこういう小さな町に、こんなに洗練された行事が育ったのか」とまず思った。
だんだん分かって来たことは、八尾が文化文政期を頂点に、富山で随一の経済的繁栄を享受した町人文化の町だったということだ。民謡というと農村的な出自を連想するが、そうではなくて、町人文化こそが、上方や江戸の文化を移入し、芸を磨き、それを蓄積するのだ。
今の八尾からは、想像が付きにくいのだが、当時、「富山藩領内の金の六分は八尾にある」といわれた豊かな町だったのである。日本国内で最も町家が残っているのが大和の今井町である、その今井町が、やはり中世に勃興した浄土真宗の典型的な寺内町で、「大和の金は今井に六分」といわれた。ちょうどそれに似ている。
井田川の右岸の、飛騨山脈の尾根筋に発達した八尾の地形が独特だ。井田川左岸から見渡すと、西町の長い石垣の上に縦に伸びる町家とあいまって巨大な軍艦のようにも見える。普通に考えると、この地形は、どの時代でも商業地区にふさわしいとは思えない。閉じられていて、親密な、独立国のような宗教圏にこそふさわしい。だから浄土真宗の聞名寺がまず開かれ、その門前町が八尾の起源となったというのは分かりやすい。
もともと浄土真宗は門徒の組織化に熱心で、商人を篤く保護する宗派である。しかも八尾は飛騨との交通の要所にあたり、古くは塩、魚、江戸期には蚕種、和紙の交易が盛んに行われるようになった。井田川のたびたびの氾濫で田畑を失った農民が、町建ての際に土地を捨てて商売に転じるということもあった。こういう条件と経緯が重なって、八尾に富の蓄積を生んだのである。