A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

流離譚4

2005年08月24日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 お下の家も立派なものであるが、現当主が当然住んでいるものと思っていたので、外側から写真を撮らせていただくぐらいのことしか期待をしていなかった。だから今回、住居の中を見られたことは幸運であった。むしろわたしはお墓を見たいと思ったのである。墓所のことは、「流離譚」のはじめと終わりに近く、印象的な記述があるのだが、山北の四坊と高知市内の小高佐山に分かれてあり、まず四坊の方が見つかり易いように読み取れた。

 テキストによると、安岡家の墓所は、お下家から四五間とあるので、歩いてすぐ近くのはずである。四坊山とはいうものの山ではなく平地であるともある。なるほど近くに山と呼べるものはないが、それでは墓所がどこにあるかというと、まるで見当が付かない。裏手に疎林に囲まれた土地があり、それかと探してみたが違っていた。

 近所の高知新聞の配達所に、ランニングシャツで作業をしている年配の男性を見かけたので、安岡嘉助、覚之助の墓の所在を尋ねてみた。土佐弁で答えてくれたところによると、どうも反対側を探し回っていたようだ。安岡家を背にして、県道を渡り、左手の道を50メートル程歩くと、木立が茂っている区画があった。回り込んでみると、そこに墓所が広がっていた。

 四周を雑木林に囲まれ、五十坪くらいの墓所である。墓は三十九基とある。ひとつひとつは大小様々であるが、縦横整然と並んだ墓の佇まいは、チェスの駒が林立したように見える。また死者達がうずくまって、声を潜めているかのような圧迫感も感じた。

 田舎の墓は、系図をそのまま地面に書き写したもののようだと筆者は述べているが、はたしてその通りであった。「流離譚」では、墓の主人のほぼすべてに渡って、各々来歴が記されており、墓の持ち主の名は、わたしには馴染みの深いものばかりである。最前列に大きな自然石の平八正久。中央辺りにもうひとつ目立って大きな墓は、広助正雄(平八正久の孫)である。
   
 そしてその後列には、中央寄りに嘉助、右端に覚之助の墓があった。嘉助は京都の六角の獄舎で首を刎ねられた後、即日近くの竹林に埋められた。後に道太郎らがそれを掘り起こし、東山霊山に改葬したが、一部が分骨されて、この母親の隣に眠っているわけである。覚之助も会津で三十五才で流れ弾に当たって死に、会津に葬られたが、これもやはり分骨されて、この地に戻って来ている。

 謎であるのは、彼らの父親文助や末弟道太郎の墓がここにないことであるが、その事情は小説の最後になって明らかになる。


流離譚3

2005年08月23日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
四坊安岡家墓所

 「流離譚」は、幕末に土佐郷士安岡家の当主であった文助の三人の息子、覚之助、嘉助、道太郎を中心とした物語である。

 お西家文助の次男安岡嘉助は、土佐藩参政の吉田東洋を暗殺する土佐勤皇党の三人組みに加わり、それを果たした後、脱藩上京し長州藩に匿われる。坂本龍馬脱藩の直後の出来事であった。1年後、嘉助は覚之助の静止をも聞かず、吉村虎太郎の天誅組に加わり、十津川を敗走し、捕えられ、京都の六角の獄舎で処刑される。

 長兄の覚之助は本家へ養子に行き、長崎遊学で蘭学、砲術を学び、嘉助の脱藩の時期には、末弟道太郎とともに大阪住吉の陣屋にいた。脱藩してきた嘉助と兄弟面会を果たすが、そのことが後に累を及ぼし、土佐で長く入牢をさせられる。情勢の変化により出獄した覚之助は、戊辰戦争に参戦し、板垣退助の下で小隊を任せられるが、会津まで奮戦を続け、そこで流れ弾に当たり落命する。会津城落城を目前に白虎隊が自刃した、その二日前のことであった。

 維新後より安岡家は窮乏する。生き延びた道太郎は、高知新聞の前身の地方新聞の創立に加わり、年少の植木枝盛らとともに自由民権運動に参加する。理論的、思想的な文章は残さなかったが、道太郎の作として、「民権よしや節」という数え歌が流行し、後年も残ることになる。

 時代による変転を強いられたのは男達だけではなかった。その間、山北村から一歩も出ず過ごしていた、残された妻女たちは、会津へ移り住んだり、明治の早い時期から、キリスト教の洗礼を受け入れたりした。時代の変化と勤皇思想、自由民権運動、キリスト教というものが、田舎の古い郷士であったこの一族を翻弄したのである。

 その歴史が、文助の日記、覚之助の夥しい家郷への手紙、嘉助の獄中漢詩、時世の句、そして後裔の人々の書付け、言い伝えなどによって、物語られるのである。それは相矛盾していたり、重要な事柄であるにも関わらず、失われていたり、書き残されることなく過ぎてしまったりしており、事実そのものに到達することが困難を極める。

 彼らが何を本当は考えていたのか、この世で求めて、果たせずに終わったものは何であったか、そういう問いが読者の胸に残る。その問いかけこそ歴史に到達しようという行為そのものと云ってよい。
    

流離譚2

2005年08月23日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 昨日は、高知駅前のホテルで一泊した。台風が接近してきている模様。

 「流離譚」の舞台、香美郡山北村の安岡家(お下)を訪ねるつもりである。この小説を読んで以来、いつかこの地を訪れたいというのが、二十数年来の思いであった。
 昨夜、帯屋町の書店で、高知の住居地図や高知新聞社編著「土佐の民家」を、偶然手に入れた。安岡家が典型的な武家型郷士の住居として写真入りで紹介されている。所在地など具体的な情報が記されているわけではないが、これを見てやっとなんとか探し当てられそうな気になった。

 八月二十三日は、朝早くより、JRの半奈利行きの電車に乗った。太平洋岸沿いに東へ向かい、山北村の最寄の駅の香我美で下車した。海辺の小駅である。
 結果的には、これは間違いであった。下車してみると、香我美駅周辺に、町並みはなく、バスもタクシーも通っていなかった。あまつさえ曇天から雨模様へと変わってきており、少々慌てた。鳥島へ漂着した漁民の「無人島長蔵の碑」というものが建っていたが、こっちが漂流したようなものだ。
 高知方面へ国道をとぼとぼと戻ると、小さなタクシー会社を見つけた。暇そうにしていた運転手に行き先を告げると、了解してくれた。最近時々訪れる人があるらしい。後で分かったのは、山北へ行くには、ふたつほど手前の野市駅で下車すると交通の便がよかったのだ。
 この辺りは、山がすぐに太平洋にぶつかるというような地形で、僅かな平地に人が住み着いた。車中より見ると、今時の地方の普通の田園風景が広がっており、小説から想像されたような、隔絶した山村という趣ではなかった。ただし運転手の話では、人家が増えたのは最近のことであって、以前は全く何もない土地であったとのこと。
 安岡家は水田やみかん畑の広がる風景の中にひっそりと佇んでいた。その佇まいは心の奥に形作られたイメージを裏切るものではなかった。由来書きが立っていた。

国指定重要文化財
安岡家(お下)住宅

 東西約二十七間南北約二十間の広大な敷地に築地塀と板塀に囲まれ、武家型の郷士屋敷の遺構をよく残している。
 東から御成り門、本門、百姓門という三つの門が並び、外はそれぞれ土塀などで仕切られていた。明和四年(1807年)四月以前で、書院風表座敷は障子櫃に文政十一年の墨書がありそれ以前の建物である。番屋、射場、湯殿などの礎石を残している。安岡一族は幕末の志士を輩出した。恒之進正代・覚馬正槇・覚之助正義・嘉助正定・権馬正徳・道太郎正寛などである。作家安岡章太郎もこの一族の系譜である。

 今もお下家の人々が住んでいるものとばかり思っていたが、国の重要文化財に指定されていたのだ。表札や電気メータなども見当たらず、人影もない。みかん畑をはさんで、西側にも塀で囲まれた広い敷地の家屋があり、安岡の表札が見える。安岡家の現在の御当主は、今はそちらに住まわれているのであろう。門は開放されているが、風雨に曝された雨戸は閉じられている。一般公開されているものと解釈し、小雨に濡れながら庭や建物を拝見させていただいた。
 幕末から明治維新の大きな変転に翻弄された安岡家の人々。父親文輔と三人の息子、覚之介、嘉助、道太郎らの物語。長い間にこれらの人々の名前は、まるで親戚筋の誰某のように、わたしには親しいものとなっている。
 その人々が起居した家郷がこの地なのである。雨に濡れた瑞々しい草木や時代を経た建物を眺めて、しばし胸を突かれる思いがした。

「流離譚」(上)、(下) 安岡章太郎 昭和56年  新潮社

LUMIX F8

流離譚

2005年08月22日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 もう何日も前から、旅への誘いの音楽が耳元で鳴っていた。
 知らないふりを決め込んでいたが、今朝目が覚めたら、旅立ちの決意が既に固まっているのを発見した。
 羽田から飛行機のチケットを買い、搭乗した。美しい夏の雲と穏やかな太平洋の夕凪を眼下に見ながら、1時間半後には四国の高知に着いていた。
 20年掛かって、徐々に醸成された旅の始まりである。