上杉古墳群 1号 である。
4つの塚の中で一番大きく木が2本生えている。
遠くに長崎自動車道の橋げたが見えている。現在の大型構造物である。
古代の大型構造物との対比が面白い。
加えて古代幹線「長崎街道」と現代の幹線である。
4つの塚の中で一番大きく木が2本生えている。
遠くに長崎自動車道の橋げたが見えている。現在の大型構造物である。
古代の大型構造物との対比が面白い。
加えて古代幹線「長崎街道」と現代の幹線である。
高速東彼杵インターの近くを長崎街道も通っている。
新旧の幹線道路が同じところにある。
このような場所は、東海道をはじめ全国にも多いことだろう。
上杉古墳群は、長崎街道の左手の田の中にある。
現在は、4つの塚を見ることができる。
僕は、右端の木がある塚から1号2号・・4号と勝手に名づける。
下記の参照HPによると、
『東彼杵町に所在。6世紀の円墳。大正の初めごろ古墳群のひとつが発掘され、直刀・金環・勾玉・くつわ等が出土したとされている。
埋葬施設は石棺系の横穴式石室。
近代以前はもっと多くの古墳があったが、大正のころの鉄道工事で破壊されたと伝えられている。』と記載されている。
遺跡は、どの遺跡も地味なものである。この遺跡は付近に案内板もなく、なかなか気づく人もいない。一段と地味な遺跡である。
かつて、長崎街道の往来が盛んな時代には、この塚の付近で道中の馬を一休みさせ、水を飲ませるところであった。
シーボルト一行も江戸に向かう途中、ここで休憩したことだろう。
その時、彼は、里山の平原に拡がる多くの塚を眺めたに違いない。
絵師にこの塚を描かせなかったのだろうか?
日本の近代化で多くの史跡が失われた。
ここ上杉古墳群も例外ではない。
ここには、当時、彼が目にした眺めはない。
余裕のない時代では、現在の生活そして少し先の将来の生活が最優先だったのである。
日本は、つい最近まで、過去にこだわる余裕などない国であったのかもしれぬ。
(2008.07.04 長崎県東彼杵町)
http://homepage3.nifty.com/rekishitanbou/page012.html
【上杉古墳群】
東彼杵町に所在。6世紀の円墳。大正の初めごろ古墳群のひとつが発掘され、直刀・金環・勾玉・くつわ等が出土したとされている。
埋葬施設は石棺系の横穴式石室。
近代以前はもっと多くの古墳があったが、大正のころの鉄道工事で破壊されたと伝えられている。
http://homepage3.nifty.com/rekishitanbou/page002.html
【電車道跡】
東彼杵町に所在。
明治44年、嬉野に肥前電気鉄道(株)が設立され、大正4年に嬉野塩田間が鉄道で結ばれました。その第2期工事として、彼杵駅から嬉野までの電車道建設が始まりました。ところが、会社が事業不振になったため、工事が中止になってしまいました。
この電車道建設のときに沿線にある幾つかの古墳が線路の盛土になって、その姿を消したといわれています。残っている4基の古墳(上杉古墳群)も墳丘が削られ、埋葬施設が露出しています。
http://www.nagasakikaido.com/syukumap/sonogi.html
【上杉古墳群】
古墳時代後期の群集墳で1400年ほど前に築かれた豪族の古墳と考えています。(直刀、金メッキした鍔、金環、銀環、鎧の破片のような物、勾玉、くつわなどが)出土しました。
http://www.edu.nagasaki-u.ac.jp/private/fukuda/nkaidou/nakata/text4.html
【上杉古墳群】
街道の左手、田畑の中に点々といくつかこんもりとした古墳が見られる。
古墳時代後期の群集墳で1400年ほど前に築かれた家族の古墳と考えられている。
新旧の幹線道路が同じところにある。
このような場所は、東海道をはじめ全国にも多いことだろう。
上杉古墳群は、長崎街道の左手の田の中にある。
現在は、4つの塚を見ることができる。
僕は、右端の木がある塚から1号2号・・4号と勝手に名づける。
下記の参照HPによると、
『東彼杵町に所在。6世紀の円墳。大正の初めごろ古墳群のひとつが発掘され、直刀・金環・勾玉・くつわ等が出土したとされている。
埋葬施設は石棺系の横穴式石室。
近代以前はもっと多くの古墳があったが、大正のころの鉄道工事で破壊されたと伝えられている。』と記載されている。
遺跡は、どの遺跡も地味なものである。この遺跡は付近に案内板もなく、なかなか気づく人もいない。一段と地味な遺跡である。
かつて、長崎街道の往来が盛んな時代には、この塚の付近で道中の馬を一休みさせ、水を飲ませるところであった。
シーボルト一行も江戸に向かう途中、ここで休憩したことだろう。
その時、彼は、里山の平原に拡がる多くの塚を眺めたに違いない。
絵師にこの塚を描かせなかったのだろうか?
日本の近代化で多くの史跡が失われた。
ここ上杉古墳群も例外ではない。
ここには、当時、彼が目にした眺めはない。
余裕のない時代では、現在の生活そして少し先の将来の生活が最優先だったのである。
日本は、つい最近まで、過去にこだわる余裕などない国であったのかもしれぬ。
(2008.07.04 長崎県東彼杵町)
http://homepage3.nifty.com/rekishitanbou/page012.html
【上杉古墳群】
東彼杵町に所在。6世紀の円墳。大正の初めごろ古墳群のひとつが発掘され、直刀・金環・勾玉・くつわ等が出土したとされている。
埋葬施設は石棺系の横穴式石室。
近代以前はもっと多くの古墳があったが、大正のころの鉄道工事で破壊されたと伝えられている。
http://homepage3.nifty.com/rekishitanbou/page002.html
【電車道跡】
東彼杵町に所在。
明治44年、嬉野に肥前電気鉄道(株)が設立され、大正4年に嬉野塩田間が鉄道で結ばれました。その第2期工事として、彼杵駅から嬉野までの電車道建設が始まりました。ところが、会社が事業不振になったため、工事が中止になってしまいました。
この電車道建設のときに沿線にある幾つかの古墳が線路の盛土になって、その姿を消したといわれています。残っている4基の古墳(上杉古墳群)も墳丘が削られ、埋葬施設が露出しています。
http://www.nagasakikaido.com/syukumap/sonogi.html
【上杉古墳群】
古墳時代後期の群集墳で1400年ほど前に築かれた豪族の古墳と考えています。(直刀、金メッキした鍔、金環、銀環、鎧の破片のような物、勾玉、くつわなどが)出土しました。
http://www.edu.nagasaki-u.ac.jp/private/fukuda/nkaidou/nakata/text4.html
【上杉古墳群】
街道の左手、田畑の中に点々といくつかこんもりとした古墳が見られる。
古墳時代後期の群集墳で1400年ほど前に築かれた家族の古墳と考えられている。
茂木港を散歩していて初めて出会った犬である。
鳥や野良猫は多いのだが、犬には滅多に会わない。
この犬は、人によく甘える。
寄ってきて僕にじゃれまわる。
飼い主に大事に優しく育てられているのだろう。
人は自分の味方のような顔をしている。
(2008.06.28 昼 長崎市茂木港)
鳥や野良猫は多いのだが、犬には滅多に会わない。
この犬は、人によく甘える。
寄ってきて僕にじゃれまわる。
飼い主に大事に優しく育てられているのだろう。
人は自分の味方のような顔をしている。
(2008.06.28 昼 長崎市茂木港)
娘が猫を飼っている。
三毛で毛足の長いメス猫だ。
とても可愛がられている。少々過保護気味だ。
この写真の猫と同じ感じだが、この猫のような世間でもまれた鋭さはない。
(2008.06.28 昼 長崎市茂木町)
三毛で毛足の長いメス猫だ。
とても可愛がられている。少々過保護気味だ。
この写真の猫と同じ感じだが、この猫のような世間でもまれた鋭さはない。
(2008.06.28 昼 長崎市茂木町)
茂木町を散歩していたら赤ポストがあった。
もう都会で見かけることはない。
スチール製の四角いポストだけである。
暑中見舞いでも書き、このポストから投函してみたいものだ。
(2008.06.28 昼 長崎市茂木町)
もう都会で見かけることはない。
スチール製の四角いポストだけである。
暑中見舞いでも書き、このポストから投函してみたいものだ。
(2008.06.28 昼 長崎市茂木町)