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古代写景 桜京古墳の壁画

2011-11-13 | 歴史(古墳時代)
九州の古墳には、石室に絵が描かれているものや線刻された装飾古墳が多い。

この桜京古墳は、宗像地域で唯一の装飾古墳である。

みあれ祭を見に来た際に、この古墳を見学した。

釣川沿いに豊かな水田が広がり、そのすぐ傍まで丘陵が迫っている。
その丘の頂上近くにこの古墳はあった。

今は、樹木が茂り、そこからは豊かな田園地帯も玄界灘も望むことはできない。


古墳では、案内板はあるものの、古墳の整備が十分ではなく、石室などの保存もブルーシートで覆う程度であった。

古墳の周りには、葺き石に使われたと思われる直径10cm程度の石が散乱している。

行政には早い機会での遺跡整備を望みたい。

(ボランティアとの連携した整備活動も検討してもらいたい)


ここは、ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ追加掲載が決まった「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の一部を構成している。

また、文化庁の説明では、

「桜京古墳」

玄界灘に面する約80基の桜京古墳群の主墳となる前方後円墳が桜京古墳であり、石室内部に装飾を有している。古墳は丘陵上にあり、前方部を南に向け、全長約41メートル、後円部径約18メートル、高さ約4メートル、前方部幅約10メートル、高さ2.5メートルで西辺は若干変形している。
 石室は後円部中央に設けられた複室の玄室をもち、西に開口している。奥室は長3.7メートル、幅約2.2メートル、高約3.6メートルで奥壁に接して石屋形がある。前室は奥室の半分ほどの大きさである。この古墳は江戸時代にすでに開口しており、出土品は伝わっていない。
 本古墳の石屋形の支柱石及び奥壁には、縦横及び斜めの線刻による三角文区画がされ、その各々を赤・黄・青の顔料で塗り分けている。上部には赤色の彩色がある。この古墳は6世紀に属するものとみられ、玄界灘に面して存在する数少ない装飾古墳の一つとして重要なものである。



写真帳 「古代写景 桜京古墳の壁画」



(2011.10.01 桜京古墳にて 福岡県宗像市
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古代写景 竹原古墳の壁画

2011-11-12 | 歴史(古墳時代)
九州の古墳には、石室に絵が描かれているものや線刻された装飾古墳が多い。

この竹原古墳は装飾古墳の中でも最も有名な一つである。

10年ほど前に見学したが、その時は石室の湿気がとても高く覗き込むガラス窓が曇ってしまい、ほとんどその壁画を鑑賞できなかった。

今回は、石室内の空調設備が良くなっており、はっとするほど美しく幻想的な古代の絵が目前に現れ、ご先祖たちの思いや美的感覚を垣間見ることができ感激した。


(2011.11.05 竹原古墳にて 福岡県若宮市
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歴史写景 童男山古墳群 

2011-09-11 | 歴史(古墳時代)
星野村(八女市)から県道52号を星野川に沿って下り、八女市に向かう。

県道から国道442号に折れるとすぐに、童男山古墳群の看板があった。

八女市街地の北側にある東西10数キロメートルの八女丘陵には、4世紀末から6世紀末にかけ300基程の古墳が築かれている。

これらは、八女古墳群と呼ばれている。

西端には「石人山古墳」があり、東端には「童男山古墳群」がある。

国道のすぐ北側に「童男山古墳群」があった。

今回は、時間がなく12号墳と13号墳だけの見学であった。

この古墳群では、27基の古墳が確認されていて、そのうち7基の古墳が見学できるように整備されている。

この童男山古墳群は、全て円墳で、後期の横穴式石室を主体とした群集墳。


特に1号墳は規模が大きく、県下でも屈指の大型石室と岩屋形が見学できるとある。

次回はゆっくりと見学したいものだ。



(2011.09.10 八女市山内


写真集 「歴史写景 童男山古墳群」
 
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飛鳥写景 水城を歩く - 01

2010-12-05 | 歴史(古墳時代)
水城をのんびりと散策し、50世代ほど先祖である飛鳥時代の人々に思いを寄せた。

今年の春、桜の頃に妻と歩いたのに続き二度目だ。
今回は80歳を越えた義母と二人で出かけた。

天気は晴れ、12月とは思えない暖かさだ。
小春日和よりもっと良い気候だ。

旧国道3号線が水城の東門があった辺りを南北に横断している。
そこで車を駐車場に停め、すぐ横にある水城の展望台へと上がる。

先客の男性の話では、展望台から東方向になだらかな尾根道を少し歩くと国分寺まで行けるとのことであった。

少々義母の足腰が心配ではあったが、
二人で秋の野山などの景色を楽しみながら尾根道を抜け、そして国分寺あたりをゆっくりと散歩した。



663年(天智2年)8月、
倭国・百済遺民の連合軍は、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)と朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で戦い大敗を喫した。

水城は、
倭国が大陸の唐・新羅連合軍の倭国侵攻より国を防衛するため造った防御設備の代表的な構造物である。

この水城のすぐ東側の四王寺山(しおうじやま)にも、同時代に朝鮮式山城である「大野城」が築かれている。

ここでは、対馬の防人から壱岐・松浦・伊都と海上~陸上経由で伝えてくる軍事情報(狼煙)を 24時間体制で監視していたことだろう。




「駐車場(トイレ)近くにあった水城の説明板」



( 説明1 ・・・ 水城を古代に造った理由 )



( 説明2 ・・・ 水城の設置場所 )



( 説明3 ・・・ 水城の構造-01 )



( 説明4 ・・・ 水城の構造-02 )





(2010.12.04 水城にて 福岡県太宰府市)

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歴史写景  新原・奴山古墳群 - 09

2010-10-05 | 歴史(古墳時代)
新原・奴山古墳群」の中にあった池である。

この池の右側には、
25号墳(円墳)、30号墳(前方後円墳)そして左側に連なる 34号墳~43号墳までの円墳で構成された古墳群ずらっと連なってあった。


新原・奴山古墳群のMAP


(文化庁の資料より抜粋)
福岡県北部の玄界灘に面した津屋崎町東部に広がる丘陵上には、5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳群が南北7km、東西2kmの範囲に分布する。これらは北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群等からなり、津屋崎古墳群と総称している。古墳は全体で56基残存しており、内訳は前方後円墳16基、円墳39基、方墳1基である。

新原・奴山古墳群は最も密集度の高い古墳群で、5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたものである。総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する。21号墳は新原・奴山古墳群の中で最も早い5世紀前半の直径17mの円墳で、22号墳は前方部が削平されているが、推定墳長約80mの前方後円墳である。



僕は、「みあれ祭」を見るため、国道495号線を福津市から宗像市へと向かっていく。

僕は注意深くスクータを走らせる。
このあたりには、みあれ祭の主人公である胸形族の首長達の墳墓がある。
祭りを見る前に彼らの墳墓を見ておきたくて家を早く出たのだ。

国道の右手に、「新原・奴山古墳群」の看板があった。
スクータを降りて古墳群を散策した。


(2010.10.01 新原・奴山古墳群にて 福津市)
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歴史写景  新原・奴山古墳群 - 08

2010-10-05 | 歴史(古墳時代)
金色の稲穂の向こうに見える「新原・奴山古墳群」。


これらの古墳は、25号墳(円墳)、30号墳(前方後円墳)そして左側に連なる 34号墳~43号墳までの円墳で構成された古墳群である。



新原・奴山古墳群のMAP


(文化庁の資料より抜粋)
福岡県北部の玄界灘に面した津屋崎町東部に広がる丘陵上には、5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳群が南北7km、東西2kmの範囲に分布する。これらは北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群等からなり、津屋崎古墳群と総称している。古墳は全体で56基残存しており、内訳は前方後円墳16基、円墳39基、方墳1基である。

新原・奴山古墳群は最も密集度の高い古墳群で、5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたものである。総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する。21号墳は新原・奴山古墳群の中で最も早い5世紀前半の直径17mの円墳で、22号墳は前方部が削平されているが、推定墳長約80mの前方後円墳である。



僕は、「みあれ祭」を見るため、国道495号線を福津市から宗像市へと向かっていく。

僕は注意深くスクータを走らせる。
このあたりには、みあれ祭の主人公である胸形族の首長達の墳墓がある。
祭りを見る前に彼らの墳墓を見ておきたくて家を早く出たのだ。

国道の右手に、「新原・奴山古墳群」の看板があった。
スクータを降りて古墳群を散策した。


(2010.10.01 新原・奴山古墳群にて 福津市)
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歴史写景  新原・奴山古墳群 - 07

2010-10-05 | 歴史(古墳時代)
金色の稲穂の向こうに見える「新原・奴山古墳群」。


これらの古墳は、30号墳(前方後円墳)の右側にある25号墳。

葺石が施された円墳である。



新原・奴山古墳群のMAP


(文化庁の資料より抜粋)
福岡県北部の玄界灘に面した津屋崎町東部に広がる丘陵上には、5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳群が南北7km、東西2kmの範囲に分布する。これらは北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群等からなり、津屋崎古墳群と総称している。古墳は全体で56基残存しており、内訳は前方後円墳16基、円墳39基、方墳1基である。

新原・奴山古墳群は最も密集度の高い古墳群で、5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたものである。総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する。21号墳は新原・奴山古墳群の中で最も早い5世紀前半の直径17mの円墳で、22号墳は前方部が削平されているが、推定墳長約80mの前方後円墳である。



僕は、「みあれ祭」を見るため、国道495号線を福津市から宗像市へと向かっていく。

僕は注意深くスクータを走らせる。
このあたりには、みあれ祭の主人公である胸形族の首長達の墳墓がある。
祭りを見る前に彼らの墳墓を見ておきたくて家を早く出たのだ。

国道の右手に、「新原・奴山古墳群」の看板があった。
スクータを降りて古墳群を散策した。


(2010.10.01 新原・奴山古墳群にて 福津市)
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歴史写景  新原・奴山古墳群 - 06

2010-10-05 | 歴史(古墳時代)
金色の稲穂の向こうに見える「新原・奴山古墳群」。


これらの古墳は、30号墳(前方後円墳)の左側に連なる 34号墳~43号墳までの円墳である。



新原・奴山古墳群のMAP


(文化庁の資料より抜粋)
福岡県北部の玄界灘に面した津屋崎町東部に広がる丘陵上には、5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳群が南北7km、東西2kmの範囲に分布する。これらは北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群等からなり、津屋崎古墳群と総称している。古墳は全体で56基残存しており、内訳は前方後円墳16基、円墳39基、方墳1基である。

新原・奴山古墳群は最も密集度の高い古墳群で、5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたものである。総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する。21号墳は新原・奴山古墳群の中で最も早い5世紀前半の直径17mの円墳で、22号墳は前方部が削平されているが、推定墳長約80mの前方後円墳である。



僕は、「みあれ祭」を見るため、国道495号線を福津市から宗像市へと向かっていく。

僕は注意深くスクータを走らせる。
このあたりには、みあれ祭の主人公である胸形族の首長達の墳墓がある。
祭りを見る前に彼らの墳墓を見ておきたくて家を早く出たのだ。

国道の右手に、「新原・奴山古墳群」の看板があった。
スクータを降りて古墳群を散策した。


(2010.10.01 新原・奴山古墳群にて 福津市)
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歴史写景  新原・奴山古墳群 - 05

2010-10-05 | 歴史(古墳時代)
金色の稲穂の向こうに見える「新原・奴山古墳群」。


この古墳は30号墳。

5世紀中頃~後半に築造され全長54mの前方後円墳。

この古墳の左側には、34号墳~43号墳までの円墳が連なっている。

古墳時代の人々は、既に石包丁は使ってはいなかっただろうが、このたわわな稲穂を刈っていたことを想像してしまう。



新原・奴山古墳群のMAP


(文化庁の資料より抜粋)
福岡県北部の玄界灘に面した津屋崎町東部に広がる丘陵上には、5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳群が南北7km、東西2kmの範囲に分布する。これらは北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群等からなり、津屋崎古墳群と総称している。古墳は全体で56基残存しており、内訳は前方後円墳16基、円墳39基、方墳1基である。

新原・奴山古墳群は最も密集度の高い古墳群で、5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたものである。総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する。21号墳は新原・奴山古墳群の中で最も早い5世紀前半の直径17mの円墳で、22号墳は前方部が削平されているが、推定墳長約80mの前方後円墳である。



僕は、「みあれ祭」を見るため、国道495号線を福津市から宗像市へと向かっていく。

僕は注意深くスクータを走らせる。
このあたりには、みあれ祭の主人公である胸形族の首長達の墳墓がある。
祭りを見る前に彼らの墳墓を見ておきたくて家を早く出たのだ。

国道の右手に、「新原・奴山古墳群」の看板があった。
スクータを降りて古墳群を散策した。


(2010.10.01 新原・奴山古墳群にて 福津市)
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歴史写景  新原・奴山古墳群 - 04

2010-10-05 | 歴史(古墳時代)
金色の稲穂の向こうに見える「新原・奴山古墳群」。


この古墳は30号墳。

5世紀中頃~後半に築造され全長54mの前方後円墳。

この古墳の左側には、34号墳~43号墳までの円墳が連なっている。



新原・奴山古墳群のMAP


(文化庁の資料より抜粋)
福岡県北部の玄界灘に面した津屋崎町東部に広がる丘陵上には、5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳群が南北7km、東西2kmの範囲に分布する。これらは北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群等からなり、津屋崎古墳群と総称している。古墳は全体で56基残存しており、内訳は前方後円墳16基、円墳39基、方墳1基である。

新原・奴山古墳群は最も密集度の高い古墳群で、5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたものである。総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する。21号墳は新原・奴山古墳群の中で最も早い5世紀前半の直径17mの円墳で、22号墳は前方部が削平されているが、推定墳長約80mの前方後円墳である。



僕は、「みあれ祭」を見るため、国道495号線を福津市から宗像市へと向かっていく。

僕は注意深くスクータを走らせる。
このあたりには、みあれ祭の主人公である胸形族の首長達の墳墓がある。
祭りを見る前に彼らの墳墓を見ておきたくて家を早く出たのだ。

国道の右手に、「新原・奴山古墳群」の看板があった。
スクータを降りて古墳群を散策した。


(2010.10.01 新原・奴山古墳群にて 福津市)
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歴史写景  新原・奴山古墳群 - 03

2010-10-05 | 歴史(古墳時代)
収穫前の稲穂の向こうに見える「新原・奴山古墳群」。

右側の前方後円墳は30号墳。5世紀中頃~後半に築造され全長54m。

左側の古墳は34~43号墳。6世紀中~時期不明の円墳が連なってある。



新原・奴山古墳群のMAP


(文化庁の資料より抜粋)
福岡県北部の玄界灘に面した津屋崎町東部に広がる丘陵上には、5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳群が南北7km、東西2kmの範囲に分布する。これらは北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群等からなり、津屋崎古墳群と総称している。古墳は全体で56基残存しており、内訳は前方後円墳16基、円墳39基、方墳1基である。

新原・奴山古墳群は最も密集度の高い古墳群で、5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたものである。総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する。21号墳は新原・奴山古墳群の中で最も早い5世紀前半の直径17mの円墳で、22号墳は前方部が削平されているが、推定墳長約80mの前方後円墳である。



僕は、「みあれ祭」を見るため、国道495号線を福津市から宗像市へと向かっていく。

僕は注意深くスクータを走らせる。
このあたりには、みあれ祭の主人公である胸形族の首長達の墳墓がある。
祭りを見る前に彼らの墳墓を見ておきたくて家を早く出たのだ。

国道の右手に、「新原・奴山古墳群」の看板があった。
スクータを降りて古墳群を散策した。


(2010.10.01 新原・奴山古墳群にて 福津市)
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歴史写景  新原・奴山古墳群 - 02

2010-10-05 | 歴史(古墳時代)
収穫前の稲穂の向こうに見える「新原・奴山古墳群」。

この古墳は30号墳で、5世紀中頃~後半に築造された全長54m の前方後円墳。


新原・奴山古墳群のMAP


(文化庁の資料より抜粋)
福岡県北部の玄界灘に面した津屋崎町東部に広がる丘陵上には、5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳群が南北7km、東西2kmの範囲に分布する。これらは北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群等からなり、津屋崎古墳群と総称している。古墳は全体で56基残存しており、内訳は前方後円墳16基、円墳39基、方墳1基である。

新原・奴山古墳群は最も密集度の高い古墳群で、5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたものである。総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する。21号墳は新原・奴山古墳群の中で最も早い5世紀前半の直径17mの円墳で、22号墳は前方部が削平されているが、推定墳長約80mの前方後円墳である。



僕は、「みあれ祭」を見るため、国道495号線を福津市から宗像市へと向かっていく。

僕は注意深くスクータを走らせる。
このあたりには、みあれ祭の主人公である胸形族の首長達の墳墓がある。
祭りを見る前に彼らの墳墓を見ておきたくて家を早く出たのだ。

国道の右手に、「新原・奴山古墳群」の看板があった。
スクータを降りて古墳群を散策した。


(2010.10.01 新原・奴山古墳群にて 福津市)
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歴史写景  新原・奴山古墳群 - 01

2010-10-04 | 歴史(古墳時代)
収穫前の稲穂の向こうの「新原・奴山古墳群」。

前方後円墳(30号墳)と円墳(25号墳他)が見える。

新原・奴山古墳群のMAP


(文化庁の資料より抜粋)
福岡県北部の玄界灘に面した津屋崎町東部に広がる丘陵上には、5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳群が南北7km、東西2kmの範囲に分布する。これらは北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群等からなり、津屋崎古墳群と総称している。古墳は全体で56基残存しており、内訳は前方後円墳16基、円墳39基、方墳1基である。

新原・奴山古墳群は最も密集度の高い古墳群で、5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたものである。総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する。21号墳は新原・奴山古墳群の中で最も早い5世紀前半の直径17mの円墳で、22号墳は前方部が削平されているが、推定墳長約80mの前方後円墳である。



僕は、「みあれ祭」を見るため、国道495号線を福津市から宗像市へと向かっていく。

僕は注意深くスクータを走らせる。
このあたりには、みあれ祭の主人公である宗形族の首長達の墳墓がある。
祭りを見る前に彼らの墳墓を見ておきたくて家を早く出たのだ。

国道の右手に、「新原・奴山古墳群」の看板があった。
スクータを降りて古墳群を散策した。


(2010.10.01 新原・奴山古墳群にて 福津市)
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歴史写景 井原1号墳

2009-09-27 | 歴史(古墳時代)
この日は、
県道(大野城~二丈)を通り福岡から唐津方面へと向かった。

前原市の田園地帯を県道は抜けていく。
前原市は、古代の伊都国があったところと言われている。

金色の田の中に、
平べったい丘が小さな島のように浮かんでいた。
古墳かもしれない。

寄ってみることにした。
やはり古墳だった。

文字が消えかかった説明板があり、井原1号墳とある。

僕は古墳に上り、そしてゆっくりと散策した。

(2009.09.23 井原1号墳にて 福岡県前原市


前原市HPより

「井原山山麓から北へ延びる台地上に立地する前方後円墳です。
前方部は北に向いており、全長は約43m、後円部の直径約25m、前方部の長さ約20mです。
墳丘は前方部2段、後円部3段に造られいて、葺石も施されています。
埋葬施設は大型の箱式石棺で、後円部の中央に位置してます。
この古墳は今から約1700~1650年前(古墳時代前期)に築造されたと考えられます。
この古墳は水田の中に緑におおわれた墳丘がぽつんと有るのが、大野城・二丈線から良く見えます。」
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歴史写景 井原1号墳

2009-09-27 | 歴史(古墳時代)
この日は、
県道(大野城~二丈)を通り福岡から唐津方面へと向かった。

前原市の田園地帯を県道は抜けていく。
前原市は、古代の伊都国があったところと言われている。

金色の田の中に、
平べったい丘が小さな島のように浮かんでいた。
古墳かもしれない。

寄ってみることにした。
やはり古墳だった。

文字が消えかかった説明板があり、井原1号墳とある。

僕は古墳に上り、そしてゆっくりと散策した。

(2009.09.23 井原1号墳にて 福岡県前原市


前原市HPより

「井原山山麓から北へ延びる台地上に立地する前方後円墳です。
前方部は北に向いており、全長は約43m、後円部の直径約25m、前方部の長さ約20mです。
墳丘は前方部2段、後円部3段に造られいて、葺石も施されています。
埋葬施設は大型の箱式石棺で、後円部の中央に位置してます。
この古墳は今から約1700~1650年前(古墳時代前期)に築造されたと考えられます。
この古墳は水田の中に緑におおわれた墳丘がぽつんと有るのが、大野城・二丈線から良く見えます。」
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