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メタボ人の独り言

長崎写景 「針尾島 石垣の大きな黒曜石」

2011-06-17 | 歴史(弥生時代)
諫早から福岡に戻る途中、少々寄り道して針尾島(佐世保市)に行き、黒曜石を探した。

縄文時代の西九州では、針尾島産の黒曜石で石器が造られている。
古代人がこのあたりにキャンプしてこの石を探していた。
そして集めると人力で運び出していたのだろう。

みかん畑の細い道には、小さな黒曜石のかけらがたくさん落ちている。
むき出しの崖には貝が、サンドイッチ状に薄く積もっている。
この付近で古代人がキャンプしていたのだろうか。

畑の横に積んである石垣に大きな黒曜石がある。
20cm以上はある。

みかん畑の中に入り、細い山道を登っていく。
イノシシよけの電気柵そして捕獲檻もある。

山道は暗く、少々怖い。

奥に人が寄り付かなくなったみかん畑があった。
ここで石を探す。

5cm程の石を10個ほど拾い、下り道を急ぐ。
やっと車道までたどり着く。

イノシシに遭わず本当によかった。


クリックすると拡大画像が楽しめます。

                              



(2011.05.09 針尾島)
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長崎写景 「針尾島 黒曜石を守るイノシシ」

2011-06-17 | 歴史(弥生時代)
諫早から福岡に戻る途中、少々寄り道して針尾島(佐世保市)に行き、黒曜石を探した。

縄文時代の西九州では、針尾島産の黒曜石で石器が造られている。
古代人がこのあたりにキャンプしてこの石を探していた。
そして集めると人力で運び出していたのだろう。

みかん畑の細い道には、小さな黒曜石のかけらがたくさん落ちている。
むき出しの崖には貝が、サンドイッチ状に薄く積もっている。
この付近で古代人がキャンプしていたのだろうか。

畑の横に積んである石垣に大きな黒曜石がある。
20cm以上はある。

みかん畑の中に入り、細い山道を登っていく。
イノシシよけの電気柵そして捕獲檻もある。

山道は暗く、少々怖い。

奥に人が寄り付かなくなったみかん畑があった。
ここで石を探す。

5cm程の石を10個ほど拾い、下り道を急ぐ。
やっと車道までたどり着く。

イノシシに遭わず本当によかった。


クリックすると拡大画像が楽しめます。

                              



(2011.05.09 針尾島)
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長崎写景 「針尾島 黒曜石への山道」

2011-06-17 | 歴史(弥生時代)
諫早から福岡に戻る途中、少々寄り道して針尾島(佐世保市)に行き、黒曜石を探した。

縄文時代の西九州では、針尾島産の黒曜石で石器が造られている。
古代人がこのあたりにキャンプしてこの石を探していた。
そして集めると人力で運び出していたのだろう。

みかん畑の細い道には、小さな黒曜石のかけらがたくさん落ちている。
むき出しの崖には貝が、サンドイッチ状に薄く積もっている。
この付近で古代人がキャンプしていたのだろうか。

畑の横に積んである石垣に大きな黒曜石がある。
20cm以上はある。

みかん畑の中に入り、細い山道を登っていく。
イノシシよけの電気柵そして捕獲檻もある。

山道は暗く、少々怖い。

奥に人が寄り付かなくなったみかん畑があった。
ここで石を探す。

5cm程の石を10個ほど拾い、下り道を急ぐ。
やっと車道までたどり着く。

イノシシに遭わず本当によかった。


クリックすると拡大画像が楽しめます。

                              



(2011.05.09 針尾島)
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長崎写景 「針尾島 蜜柑畑の黒曜石」

2011-06-17 | 歴史(弥生時代)
諫早から福岡に戻る途中、少々寄り道して針尾島(佐世保市)に行き、黒曜石を探した。

縄文時代の西九州では、針尾島産の黒曜石で石器が造られている。
古代人がこのあたりにキャンプしてこの石を探していた。
そして集めると人力で運び出していたのだろう。

みかん畑の細い道には、小さな黒曜石のかけらがたくさん落ちている。
むき出しの崖には貝が、サンドイッチ状に薄く積もっている。
この付近で古代人がキャンプしていたのだろうか。

畑の横に積んである石垣に大きな黒曜石がある。
20cm以上はある。

みかん畑の中に入り、細い山道を登っていく。
イノシシよけの電気柵そして捕獲檻もある。

山道は暗く、少々怖い。

奥に人が寄り付かなくなったみかん畑があった。
ここで石を探す。

5cm程の石を10個ほど拾い、下り道を急ぐ。
やっと車道までたどり着く。

イノシシに遭わず本当によかった。


クリックすると拡大画像が楽しめます。

                              



(2011.05.09 針尾島)
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長崎写景 「針尾島 黒曜石と古代人のキャンプ跡」

2011-06-17 | 歴史(弥生時代)
諫早から福岡に戻る途中、少々寄り道して針尾島(佐世保市)に行き、黒曜石を探した。

縄文時代の西九州では、針尾島産の黒曜石で石器が造られている。
古代人がこのあたりにキャンプしてこの石を探していた。
そして集めると人力で運び出していたのだろう。

みかん畑の細い道には、小さな黒曜石のかけらがたくさん落ちている。
むき出しの崖には貝が、サンドイッチ状に薄く積もっている。
この付近で古代人がキャンプしていたのだろうか。

畑の横に積んである石垣に大きな黒曜石がある。
20cm以上はある。

みかん畑の中に入り、細い山道を登っていく。
イノシシよけの電気柵そして捕獲檻もある。

山道は暗く、少々怖い。

奥に人が寄り付かなくなったみかん畑があった。
ここで石を探す。

5cm程の石を10個ほど拾い、下り道を急ぐ。
やっと車道までたどり着く。

イノシシに遭わず本当によかった。


クリックすると拡大画像が楽しめます。

                              



(2011.05.09 針尾島)
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長崎写景 「針尾島の黒曜石」

2011-06-16 | 歴史(弥生時代)
諫早から福岡に戻る途中、少々寄り道して針尾島(佐世保市)に行き、黒曜石を探した。

縄文時代の西九州では、針尾島産の黒曜石で石器が造られている。
古代人がこのあたりにキャンプしてこの石を探していた。
そして集めると人力で運び出していたのだろう。

みかん畑の細い道には、小さな黒曜石のかけらがたくさん落ちている。
むき出しの崖には貝が、サンドイッチ状に薄く積もっている。
この付近で古代人がキャンプしていたのだろうか。

畑の横に積んである石垣に大きな黒曜石がある。
20cm以上はある。

みかん畑の中に入り、細い山道を登っていく。
イノシシよけの電気柵そして捕獲檻もある。

山道は暗く、少々怖い。

奥に人が寄り付かなくなったみかん畑があった。
ここで石を探す。

5cm程の石を10個ほど拾い、下り道を急ぐ。
やっと車道までたどり着く。

イノシシに遭わず本当によかった。


クリックすると拡大画像が楽しめます。

                              



(2011.05.09 針尾島)
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壱岐写景 原の辻遺跡 - 03

2010-11-21 | 歴史(弥生時代)
水田の広がる小高い丘の上に、原の辻遺跡はあった。
ここは、大規模な環濠集落遺跡である。
この環濠の外にある水田の中から日本最古の船着場跡が発見されている。

これらの写真は、弥生時代における船着場の利用状況の想像レプリカ。







中国の史書である『魏志倭人伝』には、邪馬台国の時代に、「一支国」のことが記録されている。

原の辻遺跡は、この一支国の中心集落だったと考えられている。


(魏志倭人伝の和訳抜粋より)

帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航行し、韓の国を経て、しばらく南にしばらく東にすすんで、その北岸の狗邪韓国に到着する。
この間は約七千里である。

そこからはじめて一つの海を渡り、千余里にして対馬国に到着する。
その大官はヒコ(卑狗)といい、副をヒナモリ(卑奴母離)という。
住んでいるところは四面を海でかこまれた孤島で、広さは方四百余里ばかりである。
土地は山が険しく、深林が多く、道路は獣道のようである。
千余戸がある。良田が無く、海産物を食糧として自活し、船によって南北から米穀を買い入れている。

また一つの海を渡り、千余里すすむ。
この海の名は瀚海といい、一支国(壱岐)に到着する。
官はまたヒコといい、副はヒナモリという。
広さは方三百里ほどで、竹木や叢林が多く、三千ばかりの家がある。
田地は少々あるが、田を耕すだけでは食するに足らないので、南北から米穀を買い入れている。






博多からのジェットファイルで壱岐島に来ている。
福岡市の博多港から島の南西部の郷ノ浦港まで約67km、1時間程の船旅だ。

島へ着いてからは車で移動し、原の辻遺跡を見学した。


(2010.07.26 長崎県壱岐市郷ノ浦町にて)
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壱岐写景 原の辻遺跡 - 02

2010-11-21 | 歴史(弥生時代)
水田の広がる小高い丘の上に、原の辻遺跡はあった。




中国の史書である『魏志倭人伝』には、邪馬台国の時代に、「一支国」のことが記録されている。

原の辻遺跡は、この一支国の中心集落だったと考えられている。


(魏志倭人伝の和訳抜粋より)

帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航行し、韓の国を経て、しばらく南にしばらく東にすすんで、その北岸の狗邪韓国に到着する。
この間は約七千里である。

そこからはじめて一つの海を渡り、千余里にして対馬国に到着する。
その大官はヒコ(卑狗)といい、副をヒナモリ(卑奴母離)という。
住んでいるところは四面を海でかこまれた孤島で、広さは方四百余里ばかりである。
土地は山が険しく、深林が多く、道路は獣道のようである。
千余戸がある。良田が無く、海産物を食糧として自活し、船によって南北から米穀を買い入れている。

また一つの海を渡り、千余里すすむ。
この海の名は瀚海といい、一支国(壱岐)に到着する。
官はまたヒコといい、副はヒナモリという。
広さは方三百里ほどで、竹木や叢林が多く、三千ばかりの家がある。
田地は少々あるが、田を耕すだけでは食するに足らないので、南北から米穀を買い入れている。





博多からのジェットファイルで壱岐島に来ている。
福岡市の博多港から島の南西部の郷ノ浦港まで約67km、1時間程の船旅だ。

島へ着いてからは車で移動し、原の辻遺跡を見学した。


(2010.07.26 長崎県壱岐市郷ノ浦町にて)
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壱岐写景 原の辻遺跡 - 01

2010-11-21 | 歴史(弥生時代)
水田の広がる小高い丘の上に、原の辻遺跡はあった。

中国の史書である『魏志倭人伝』には、邪馬台国の時代に、「一支国」のことが記録されている。

原の辻遺跡は、この一支国の中心集落だったと考えられている。


(魏志倭人伝の和訳抜粋より)

帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航行し、韓の国を経て、しばらく南にしばらく東にすすんで、その北岸の狗邪韓国に到着する。
この間は約七千里である。

そこからはじめて一つの海を渡り、千余里にして対馬国に到着する。
その大官はヒコ(卑狗)といい、副をヒナモリ(卑奴母離)という。
住んでいるところは四面を海でかこまれた孤島で、広さは方四百余里ばかりである。
土地は山が険しく、深林が多く、道路は獣道のようである。
千余戸がある。良田が無く、海産物を食糧として自活し、船によって南北から米穀を買い入れている。

また一つの海を渡り、千余里すすむ。
この海の名は瀚海といい、一支国(壱岐)に到着する。
官はまたヒコといい、副はヒナモリという。
広さは方三百里ほどで、竹木や叢林が多く、三千ばかりの家がある。
田地は少々あるが、田を耕すだけでは食するに足らないので、南北から米穀を買い入れている。






博多からのジェットファイルで壱岐島に来ている。
福岡市の博多港から島の南西部の郷ノ浦港まで約67km、1時間程の船旅だ。

島へ着いてからは車で移動し、原の辻遺跡を見学した。


(2010.07.26 長崎県壱岐市郷ノ浦町にて)
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長崎写景 机の上の縄文時代

2009-09-17 | 歴史(弥生時代)
この日、福井洞窟を訪ねた。

縄文時代前からの古い遺跡である。

この遺跡で、黒曜石の小さなかけらや石器のような石を幾つか拾った。
縄文時代のものだろうか?

今は、オフィスの僕の机でガラス瓶に収まっている。
時々、これをそっと机に広げ、僕は時空を超えリラックスしている。

僕達と繋がる先祖だろうか?


(2009.06.20 福井洞窟にて 佐世保市)
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長崎写景 福井洞窟

2009-09-17 | 歴史(弥生時代)
この日、福井洞窟を訪ねた。

縄文時代前からの古い遺跡である。

この遺跡で、黒曜石の小さなかけらや石器のような石を幾つか拾った。
縄文時代のものだろうか?

今は、オフィスの僕の机でガラス瓶に収まっている。
時々、これをそっと机に広げ、僕は時空を超えリラックスしている。

僕達と繋がる先祖だろうか?


(2009.06.20 福井洞窟にて 佐世保市)
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長崎写景 福井洞窟

2009-09-17 | 歴史(弥生時代)
この日、福井洞窟を訪ねた。

縄文時代前からの古い遺跡である。

祠を覆うように大きな岩陰となっている。
古代人達は此処で雨風寒さをしのいでいた。
僕達と繋がる先祖だろうか?


(2009.06.20 福井洞窟にて 佐世保市)
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長崎写景 福井洞窟

2009-09-17 | 歴史(弥生時代)
この日、福井洞窟を訪ねた。

縄文時代前からの古い遺跡である。

祠を覆うように大きな岩陰となっている。
古代人達は此処で雨風寒さをしのいでいた。
僕達と繋がる先祖だろうか?


(2009.06.20 福井洞窟にて 佐世保市)
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長崎写景 福井洞窟

2009-09-17 | 歴史(弥生時代)
この日、福井洞窟を訪ねた。

縄文時代前からの古い遺跡である。

祠を覆うように大きな岩陰となっている。
古代人達は此処で雨風寒さをしのいでいた。
僕達と繋がる先祖だろうか?


(2009.06.20 福井洞窟にて 佐世保市)
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長崎写景 福井洞窟

2009-09-17 | 歴史(弥生時代)
この日、福井洞窟を訪ねた。

遺跡の看板があった。
読むと縄文時代前からの古い遺跡である。

(2009.06.20 福井洞窟にて 佐世保市)

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