五. 名乗り
さて、一ノ谷では、平家の名のある人物が討たれている。平忠度だ。
平忠度/
「私は味方の者だ」
紺地の直垂、黒糸縅、黒馬に乗った忠度は、源氏方の岡辺忠純に名を尋ねられるとそう応じた。
落ち着き払った様子、しかし岡辺は兜の内に黒く染めた歯を見とめ、平家の公達だと確信し、組みついた。
「憎い奴であるわい。味方だというのだから、そうしておけばよいではないか」
忠度は岡辺を馬上から刀で刺すが朝傷、そこでさらに首をとろうとする忠度の腕を、岡辺の小物が追いつき、斬り落とした。
もはやこれまでと思ったか、
「念仏を十遍唱える間、のいておれ」
忠度は岡辺を片手でつかんで投げとばし、念仏十遍、念じ終わるより早く、岡辺は忠度の首を落とした。
ふと箙を見ると文が結び付けられている。
そこには、
旅宿花
行きくれて木の下陰を宿とせば
花や今宵のあるじならまし
忠度
今討った相手が、歌人として名の聞こえた忠度卿であったと知る。
忠度を討ち取ったという岡辺の大音声を耳にした者は、敵も味方も、文武に優れた尊い人物の死を嘆いたという。
敦盛が腰に差していた笛、忠度がしたため箙に結んだ自作の一首。戦場にアイデンティティを取り戻すよすがを身元に、やはり悲しく散り果てて行く。海に逃げることはかなえられず、海辺に屍をさらした。
名乗り。
敦盛も忠度も、討ち取られるときに名を名乗らず、無抵抗のまま斬らせた。
前に書いている今井兼平は、死闘に斬り込む前に名乗りを上げている。熊谷直実も名乗っているが、この場合は50パーセントの勝利に賭ける斬り込みであって、兼平のように、生還の見込みのない死闘とは違う。
忠度は四十一歳で名乗らずに死ぬ。彼は自身の存在を歌に乗せていた。
一方、今井のように死闘に斬り込みながらも、敢えて名乗らずにいた者もある。
斉藤実盛/
篠原の戦いに戻る。
木曾に惨敗し、総崩れになった平氏軍。敗走する軍のしんがりとして戦い防いでいた中に居たのが、平実盛である。
木曾方の手塚光盛が進み、声をかけた。
「殊勝なり。いかなるお方なれば、味方の勢はみな落ち行きたるに、ただ一騎踏みとどまって戦わるるとは、さてもゆかしいお心ばえと見えたり。いかなる人にて渡らせたもうぞ。名乗らせたまえ」
「そういうわどのはたれぞ、なんと申さるる」
「信濃の国の住人手塚太郎金刺光盛」
「さては、たがいによき敵なり。ただし、わどのを見下げるのではないが、ぞんずる旨あって、名は名のらぬ。寄れ、組もう、手塚」
割って入った手塚の部下を討ち取ったものの、その間に脇へまわった手塚に組み伏せられた実盛。
義仲は差し出された首を見て、それが実盛だと気づく。しかし、実盛ならば、その昔、義仲が幼い頃、父が討たれたとき義仲を信濃の国へ送り、命を救った恩人であり、当時既に白髪の初老であったが、実検の首は髪が黒い。そこで、実盛と付き合いのあった樋口を呼んだ。樋口は涙ながらに、実盛であるとし、そのわけを話す。
「斉藤別当(実盛)がつねづねの話に、『六十すぎて戦場へ向かう時は、鬢や髪を黒く染めて、若がえろうと思っている。白髪頭を振りたてて若殿ばらと先がけを争うのも、おとなげなし、また、老武者と人に侮られるのも、口惜しい』という理由からでありましたが、はたして染めてまいりました」
首を洗ってみれば、確かに白髪だった。
戦となれば致し方ないことではあるが、義仲は恩人を死なせてしまったことを悲しみ、ひどく泣いたという。
もしも斉藤別当と名乗れば、木曾方には敵でも、義仲にとっては恩人、それを聞いて討ち取ったとなればその者はどうなるかわからない。それはともかく、年齢も知れることになる。
実盛はそれで名乗りをしなかった。
十六の敦盛。七十の実盛。
『実盛』も能の代表的な演目として継承されている。
この名乗りの慣習は悪用され、剛の者と名の聞こえた平盛俊は、まさに首を取ろうとする敵にせめて名乗らせてもらいたいと頼まれ、時間を稼ぐとともに命乞いまでした敵を許し、言葉を交わしている間に斬られた。名を明かしておいて、このように許しがたいことをする者の卑属さ。スポーツではない、いくさはいくさでしかない。
持論をここでくだくだ述べるとすれば、私はこの「名乗り」というものは、至極神聖なものと思っている。ブログタイトルも「名のもとに生きて」としている。人の命とその名は1対1で結びついており、命が終わってもその結びつきは切れない。肉体は失われても、最後に唯ひとつ残るものはその名のみである。
その名が、いよいよ死に向かって落ちていく、その人自らによって名乗られる。
生まれて、名が与えられ、常に自分の耳まわりに聞こえ、ともに存在してきた「その名」と、「その人」との別れとなるかならないか、名と命の愛着が最高に高まる、名乗り。
過去記事では、ケーテ・コルヴィッツの息子ペーターは従軍して識別番号になり、オスカー・ワイルドも勾留されて、自分は番号と影になってしまったと落胆する。名を失うことの疎外感。
名は誇り。ただ一つの自分の鍵。
命を自ら絶とうとする人がいるなら、ひととき、ぜひ自分の声で自分の名を呼んでほしい。自分で自分の命を抱きしめることだって大切だ。生きて、ぜひ我が身我が名を大切にしてほしい。
六. 義経、教経
平氏軍の大将軍のなかで最も勇ましいのは能登守教経。能登殿。京一番の強弓の者。誰もが避けたがる難所の防衛でも進み出でて任された。教経は、清盛の弟教盛の次男。大臣殿宗盛の従兄弟である。物語読者には教経ファンも多かろう。
もしも教経が宗盛のポジションにあったならば、というIFは、もしも小松殿(平重盛)が清盛より先に死んでいなければ、というIFと同様、深い興味がわく。
平家は一ノ谷の戦いから屋島、長門で立て直し、海峡での海戦に最期を賭けた壇ノ浦。
教経はここに沈む。
一方の源氏方のかしらは義経。
遡って屋島の戦いで、義経と教経が向き合う場面があった。
「船戦は、こうするものぞ」
とばかり能登守が、鎧直垂を身につけず、唐巻染の小袖に、唐綾縅の鎧を着て、怒物づくりの太刀をはき、二十四本差した鷹うすびょうの矢を負い、滋籐の弓を持って現われた。京いちばんの強弓であったから、その矢おもてに立って、射抜かれぬ者はひとりもなかった。なにとぞして源氏の大将軍、源九郎義経を、ただ一矢で射落とそうとねらったが、源氏のほうでもそれと知って、奥州の佐藤嗣信、四郎忠信、伊勢三郎義盛、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという一騎当千のつわものどもが、馬首を一面に立て並べて、大将軍の矢おもてに立ちふさがったので、なんともねらいうちにしようがない。いたしかたなく、
「矢おもての雑人ばら、そこをのけい」
と叫んで、つがえては引き、つがえては引き、さんざんに射ったので、鎧武者十数騎ほどがやにわに射落とされた。なかでも真っ先に進んだ奥州の佐藤三郎嗣信は、左肩から右の脇へかけてぷっつり射抜かれ、馬上にたまらずまっさかさまにどうと落ちた。能登どのの童に、菊王丸という大力の剛の者がいて、三郎の首をとろうと、走り寄ってきたのを、弟の佐藤四郎が兄の首を取らせまいとして弓をしぼり、ひょうと放った。菊王は腹巻の引き合わせを背中にかけて射抜かれ、四つんばいになって倒れ伏した。能登守はこれを見ると、船から飛んでおり左手に弓を持ちながら、右の手で菊王丸をつかみ、船へどうと投げ入れたので、敵に首はとられなかったが、深傷であったため、そのまま息たえた。菊王丸はもと越前の三位通盛卿の童であったが、三位が討たれてより、弟の能登守に仕えていたのである。生年十八歳ということであった。能登どのは童を討たれて気落ちしたのか、それなり退いてしまった。判官(義経)は佐藤三郎嗣信を、陣の後ろへかつぎ込ませ、馬からおりてその手をとり、
「三郎兵衛、いかに」
ときけば、
「今はこれまでとぞんじまする」
「思い残すことはないか」
「なんの思い残しがございましょう。ただ君の世にあらわれいでたもうを見ずして、死ぬことばかりが残念でございます。さもなければ弓取る身の敵矢に当たって死ぬるは覚悟の前、ことにも『源平の合戦に、奥州の佐藤三郎嗣信と申す者が、讃岐の国屋島の磯べで、主君の御命にかわって射たれた』と、末代までの物語にされることは、今生の面目、冥土の思い出、これに越す誉れはございませぬ」
義経はだれか僧を呼び寄せ、死んだ嗣信を託し、一日経を書いて弔うよう、自分の愛馬を僧に差し出した。
義経も教経も、このときは部下を失うことになり、消沈して対決することをしなかった。自分と敵の間で、負傷し命を落とす身近な者たちのあわれな立場は苦い涙を落とさせる。あのときの妹尾のように、「先が暗くて見えない」という有り様かもしれない。
さて、壇ノ浦の戦い。
午前は平家軍が押していたが、午後には海峡の潮が変わり、源氏方が優勢になった。もはやこれまでと、先帝も波間に消え、平家の者たちは男も女も戦いから外れて、海に次々に沈み、姿を消していく。
能登殿はこの日を最後と覚悟の上か、源氏の者をさんざんに射殺し、矢が尽きれば、大太刀と大長刀を両手になぎ切っていく。
その後、大将軍に組もうと数々の源氏方の船を、義経を探して回る。顔を知らないため、それらしき者に次々に襲いかかる。その様子をうかがっていた義経は、気づかれないように身を交わしていた。
しかし偶然か、とうとう義経の船に教経が現れ、義経に飛びかかった。
身軽な義経は、味方の船にひらりと飛び移り、間一髪、八艘跳びで逃げ果せた。追うことはかなわぬと思った教経は、両刀を海に捨て、兜も鎧の袖も草摺りも脱ぎ、大手を広げ、
「源氏方にわれと思わん者あらば、寄って教経と組んでとれや。鎌倉へ下って、兵衛佐に、一言もの申すことあり。いざ寄れや寄れ」
なかなか寄っていける者はいない。そこへ、土佐の住人安芸太郎実光とその弟、郎党の三人、剛力の者が船を寄せて進み出た。
三人同時にかかっていったところ、教経は、真っ先に向かってきた郎党を海に蹴落とし、安芸の兄弟を両脇にかいこみ、
「いざ、おのれら、わが死出の旅路の供をせよ」
瞬く間に海におどりこみ、消えた。
能登殿は二十六歳であった。
ただでは死なぬ、こんな剛毅な者も平家にいた。
教経が涙を流す場面など、おそらく、物語には一つもなかったと思う。
はかなさとは無縁だからだろうか、義経の能はいくつもあるが、教経のものはない。
壇ノ浦で、義経は、戦に勝つべく、教経から逃げ、敵の船の梶取を射るよう命じるなど、作法に反する手をも使い、ようやく平家との戦いを終わらせることができた。
しかし、梶原との内部対立は深刻化、義経の不運もすでに始まっていた。
長くなりすぎてしまったので、ここで切ってもう一回平家物語を書きます(小声)( ̄▽ ̄;)
さて、一ノ谷では、平家の名のある人物が討たれている。平忠度だ。
平忠度/
「私は味方の者だ」
紺地の直垂、黒糸縅、黒馬に乗った忠度は、源氏方の岡辺忠純に名を尋ねられるとそう応じた。
落ち着き払った様子、しかし岡辺は兜の内に黒く染めた歯を見とめ、平家の公達だと確信し、組みついた。
「憎い奴であるわい。味方だというのだから、そうしておけばよいではないか」
忠度は岡辺を馬上から刀で刺すが朝傷、そこでさらに首をとろうとする忠度の腕を、岡辺の小物が追いつき、斬り落とした。
もはやこれまでと思ったか、
「念仏を十遍唱える間、のいておれ」
忠度は岡辺を片手でつかんで投げとばし、念仏十遍、念じ終わるより早く、岡辺は忠度の首を落とした。
ふと箙を見ると文が結び付けられている。
そこには、
旅宿花
行きくれて木の下陰を宿とせば
花や今宵のあるじならまし
忠度
今討った相手が、歌人として名の聞こえた忠度卿であったと知る。
忠度を討ち取ったという岡辺の大音声を耳にした者は、敵も味方も、文武に優れた尊い人物の死を嘆いたという。
敦盛が腰に差していた笛、忠度がしたため箙に結んだ自作の一首。戦場にアイデンティティを取り戻すよすがを身元に、やはり悲しく散り果てて行く。海に逃げることはかなえられず、海辺に屍をさらした。
名乗り。
敦盛も忠度も、討ち取られるときに名を名乗らず、無抵抗のまま斬らせた。
前に書いている今井兼平は、死闘に斬り込む前に名乗りを上げている。熊谷直実も名乗っているが、この場合は50パーセントの勝利に賭ける斬り込みであって、兼平のように、生還の見込みのない死闘とは違う。
忠度は四十一歳で名乗らずに死ぬ。彼は自身の存在を歌に乗せていた。
一方、今井のように死闘に斬り込みながらも、敢えて名乗らずにいた者もある。
斉藤実盛/
篠原の戦いに戻る。
木曾に惨敗し、総崩れになった平氏軍。敗走する軍のしんがりとして戦い防いでいた中に居たのが、平実盛である。
木曾方の手塚光盛が進み、声をかけた。
「殊勝なり。いかなるお方なれば、味方の勢はみな落ち行きたるに、ただ一騎踏みとどまって戦わるるとは、さてもゆかしいお心ばえと見えたり。いかなる人にて渡らせたもうぞ。名乗らせたまえ」
「そういうわどのはたれぞ、なんと申さるる」
「信濃の国の住人手塚太郎金刺光盛」
「さては、たがいによき敵なり。ただし、わどのを見下げるのではないが、ぞんずる旨あって、名は名のらぬ。寄れ、組もう、手塚」
割って入った手塚の部下を討ち取ったものの、その間に脇へまわった手塚に組み伏せられた実盛。
義仲は差し出された首を見て、それが実盛だと気づく。しかし、実盛ならば、その昔、義仲が幼い頃、父が討たれたとき義仲を信濃の国へ送り、命を救った恩人であり、当時既に白髪の初老であったが、実検の首は髪が黒い。そこで、実盛と付き合いのあった樋口を呼んだ。樋口は涙ながらに、実盛であるとし、そのわけを話す。
「斉藤別当(実盛)がつねづねの話に、『六十すぎて戦場へ向かう時は、鬢や髪を黒く染めて、若がえろうと思っている。白髪頭を振りたてて若殿ばらと先がけを争うのも、おとなげなし、また、老武者と人に侮られるのも、口惜しい』という理由からでありましたが、はたして染めてまいりました」
首を洗ってみれば、確かに白髪だった。
戦となれば致し方ないことではあるが、義仲は恩人を死なせてしまったことを悲しみ、ひどく泣いたという。
もしも斉藤別当と名乗れば、木曾方には敵でも、義仲にとっては恩人、それを聞いて討ち取ったとなればその者はどうなるかわからない。それはともかく、年齢も知れることになる。
実盛はそれで名乗りをしなかった。
十六の敦盛。七十の実盛。
『実盛』も能の代表的な演目として継承されている。
この名乗りの慣習は悪用され、剛の者と名の聞こえた平盛俊は、まさに首を取ろうとする敵にせめて名乗らせてもらいたいと頼まれ、時間を稼ぐとともに命乞いまでした敵を許し、言葉を交わしている間に斬られた。名を明かしておいて、このように許しがたいことをする者の卑属さ。スポーツではない、いくさはいくさでしかない。
持論をここでくだくだ述べるとすれば、私はこの「名乗り」というものは、至極神聖なものと思っている。ブログタイトルも「名のもとに生きて」としている。人の命とその名は1対1で結びついており、命が終わってもその結びつきは切れない。肉体は失われても、最後に唯ひとつ残るものはその名のみである。
その名が、いよいよ死に向かって落ちていく、その人自らによって名乗られる。
生まれて、名が与えられ、常に自分の耳まわりに聞こえ、ともに存在してきた「その名」と、「その人」との別れとなるかならないか、名と命の愛着が最高に高まる、名乗り。
過去記事では、ケーテ・コルヴィッツの息子ペーターは従軍して識別番号になり、オスカー・ワイルドも勾留されて、自分は番号と影になってしまったと落胆する。名を失うことの疎外感。
名は誇り。ただ一つの自分の鍵。
命を自ら絶とうとする人がいるなら、ひととき、ぜひ自分の声で自分の名を呼んでほしい。自分で自分の命を抱きしめることだって大切だ。生きて、ぜひ我が身我が名を大切にしてほしい。
六. 義経、教経
平氏軍の大将軍のなかで最も勇ましいのは能登守教経。能登殿。京一番の強弓の者。誰もが避けたがる難所の防衛でも進み出でて任された。教経は、清盛の弟教盛の次男。大臣殿宗盛の従兄弟である。物語読者には教経ファンも多かろう。
もしも教経が宗盛のポジションにあったならば、というIFは、もしも小松殿(平重盛)が清盛より先に死んでいなければ、というIFと同様、深い興味がわく。
平家は一ノ谷の戦いから屋島、長門で立て直し、海峡での海戦に最期を賭けた壇ノ浦。
教経はここに沈む。
一方の源氏方のかしらは義経。
遡って屋島の戦いで、義経と教経が向き合う場面があった。
「船戦は、こうするものぞ」
とばかり能登守が、鎧直垂を身につけず、唐巻染の小袖に、唐綾縅の鎧を着て、怒物づくりの太刀をはき、二十四本差した鷹うすびょうの矢を負い、滋籐の弓を持って現われた。京いちばんの強弓であったから、その矢おもてに立って、射抜かれぬ者はひとりもなかった。なにとぞして源氏の大将軍、源九郎義経を、ただ一矢で射落とそうとねらったが、源氏のほうでもそれと知って、奥州の佐藤嗣信、四郎忠信、伊勢三郎義盛、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという一騎当千のつわものどもが、馬首を一面に立て並べて、大将軍の矢おもてに立ちふさがったので、なんともねらいうちにしようがない。いたしかたなく、
「矢おもての雑人ばら、そこをのけい」
と叫んで、つがえては引き、つがえては引き、さんざんに射ったので、鎧武者十数騎ほどがやにわに射落とされた。なかでも真っ先に進んだ奥州の佐藤三郎嗣信は、左肩から右の脇へかけてぷっつり射抜かれ、馬上にたまらずまっさかさまにどうと落ちた。能登どのの童に、菊王丸という大力の剛の者がいて、三郎の首をとろうと、走り寄ってきたのを、弟の佐藤四郎が兄の首を取らせまいとして弓をしぼり、ひょうと放った。菊王は腹巻の引き合わせを背中にかけて射抜かれ、四つんばいになって倒れ伏した。能登守はこれを見ると、船から飛んでおり左手に弓を持ちながら、右の手で菊王丸をつかみ、船へどうと投げ入れたので、敵に首はとられなかったが、深傷であったため、そのまま息たえた。菊王丸はもと越前の三位通盛卿の童であったが、三位が討たれてより、弟の能登守に仕えていたのである。生年十八歳ということであった。能登どのは童を討たれて気落ちしたのか、それなり退いてしまった。判官(義経)は佐藤三郎嗣信を、陣の後ろへかつぎ込ませ、馬からおりてその手をとり、
「三郎兵衛、いかに」
ときけば、
「今はこれまでとぞんじまする」
「思い残すことはないか」
「なんの思い残しがございましょう。ただ君の世にあらわれいでたもうを見ずして、死ぬことばかりが残念でございます。さもなければ弓取る身の敵矢に当たって死ぬるは覚悟の前、ことにも『源平の合戦に、奥州の佐藤三郎嗣信と申す者が、讃岐の国屋島の磯べで、主君の御命にかわって射たれた』と、末代までの物語にされることは、今生の面目、冥土の思い出、これに越す誉れはございませぬ」
義経はだれか僧を呼び寄せ、死んだ嗣信を託し、一日経を書いて弔うよう、自分の愛馬を僧に差し出した。
義経も教経も、このときは部下を失うことになり、消沈して対決することをしなかった。自分と敵の間で、負傷し命を落とす身近な者たちのあわれな立場は苦い涙を落とさせる。あのときの妹尾のように、「先が暗くて見えない」という有り様かもしれない。
さて、壇ノ浦の戦い。
午前は平家軍が押していたが、午後には海峡の潮が変わり、源氏方が優勢になった。もはやこれまでと、先帝も波間に消え、平家の者たちは男も女も戦いから外れて、海に次々に沈み、姿を消していく。
能登殿はこの日を最後と覚悟の上か、源氏の者をさんざんに射殺し、矢が尽きれば、大太刀と大長刀を両手になぎ切っていく。
その後、大将軍に組もうと数々の源氏方の船を、義経を探して回る。顔を知らないため、それらしき者に次々に襲いかかる。その様子をうかがっていた義経は、気づかれないように身を交わしていた。
しかし偶然か、とうとう義経の船に教経が現れ、義経に飛びかかった。
身軽な義経は、味方の船にひらりと飛び移り、間一髪、八艘跳びで逃げ果せた。追うことはかなわぬと思った教経は、両刀を海に捨て、兜も鎧の袖も草摺りも脱ぎ、大手を広げ、
「源氏方にわれと思わん者あらば、寄って教経と組んでとれや。鎌倉へ下って、兵衛佐に、一言もの申すことあり。いざ寄れや寄れ」
なかなか寄っていける者はいない。そこへ、土佐の住人安芸太郎実光とその弟、郎党の三人、剛力の者が船を寄せて進み出た。
三人同時にかかっていったところ、教経は、真っ先に向かってきた郎党を海に蹴落とし、安芸の兄弟を両脇にかいこみ、
「いざ、おのれら、わが死出の旅路の供をせよ」
瞬く間に海におどりこみ、消えた。
能登殿は二十六歳であった。
ただでは死なぬ、こんな剛毅な者も平家にいた。
教経が涙を流す場面など、おそらく、物語には一つもなかったと思う。
はかなさとは無縁だからだろうか、義経の能はいくつもあるが、教経のものはない。
壇ノ浦で、義経は、戦に勝つべく、教経から逃げ、敵の船の梶取を射るよう命じるなど、作法に反する手をも使い、ようやく平家との戦いを終わらせることができた。
しかし、梶原との内部対立は深刻化、義経の不運もすでに始まっていた。
長くなりすぎてしまったので、ここで切ってもう一回平家物語を書きます(小声)( ̄▽ ̄;)